あなたを笑顔にするために、今日も朝陽は輝きつづける2

とにかく、来てください

 わたしの名前は椿朝陽。


 幼い頃、公園で迷子になっているわたしを助けてくれた保育士さんに憧れ、わたしは、その人のように困っている誰かの力になれる。


 そんな人になりたいと、保育士を目指した。


 そして、保育科のある福祉大学を卒業後、名古屋市内で運営している、こでまり保育園に就職し働いている。


 五歳児クラスの担任をしているが、右も左もわからないわたしは、いつも失敗し悩んでばかり。


 そんなわたしは、ある保護者の方の一言で、自分の無力さに打ちひしがれることとなる。


 「わたし今、がんのステージ4なんです」


 個人懇談をやっていたとき、急に打ち明けた保護者のお母さんの一言に、場の空気が一瞬で凍りつく。


 ちょっと保育園での子どもの様子を話して、ちょっと家庭状況を教えてもらうだけの、軽い気持ちで望んだ個人懇談だったのに。


 そのときわたしは、そのお母さんになんて言葉をかけたらいいか、まったくわからなかった。


 それは心配ですね…、ちがう。


 きっと大丈夫ですよ…、ちがう。


 困ったことになりましたね…、ちがう。


 どれもどれもちがう。こんなとき、どんな言葉をかけたらいいかわからない。


 絶体絶命な家族の危機だというのに。


 いくら、その子の、その家族の、幸せを願っていても、笑顔にしたくても、こんなとき保育士は無力だ。


 結局わたしは、「え…」と口からこぼれ落ちたきり言葉を詰まらせてしまい。


 心から心配している眼差しを向け、うんうんと泣いて頷きながら、そのお母さんの話を聞くことしかできなかった。


 「お医者さんから、余命宣告されちゃったんですよ」「こんなに今、元気なのに信じられないですよね」「娘と夫のことを考えると、すごく不安なんです」「正直、これから自分がどうなるのか怖いです」


 凛とした表情で淡々と話してはいるが、いちばんつらくて泣きたいのはお母さんのはず。


 その一言一言がとても重くて、残酷な現実が映画やドラマなどではなく、今、目の前に本当にあることのショックに耐えきれず、わたしはろくに言葉も出てこないのに、顔がぐちゃぐちゃになるほどの涙だけがどうしようもなく出てくる。


 このお母さんの名前は白井香澄さん。黒いさらさらの綺麗なロングヘア、小柄で華奢な可愛らしい人で、肌も羨ましくなるほど真っ白、いつも子ども想いで優しいお母さんだ。


 旦那さんは白井誠さん。仕事は会社員をしていて、明るい性格の人で、保育園の行事にも香澄さんと一緒によく参加してくれている。誠さんが香澄さんのことを溺愛していて、ふたりは保育園で評判のおしどり夫婦だ。


 そのふたりの娘は、白井心ちゃん。わたしが担任しているクラスの五歳児。お父さんとお母さんのことが大好きで、クラスの中では大人しくてあまり手のかからない性格の子だ。


 そんな白井家の三人が、一ヶ月前。


 年間行事のひとつである、保育園の大掃除に参加してくれたときのことを思い出す。


 「心が毎日お世話になってる保育園だからな!今日はぴっかぴかにしちゃうぞ〜!」


 張り切ってそう言いながら誠さんが、脚立に乗って天井のエアコンを掃除するため、勢いよくフィルターを外すと大量の埃が落ちてきてしまい、保育室の部屋全体に一気に埃が舞ってしまった。


 わたしも、ほかの保護者のお父さんやお母さんも咳き込み、急いで保育室の窓を開ける。


 「まったく!誠さん、なにやってるのよ。そうやってすぐ調子に乗らないの!」


 部屋の壁のラクガキを消していた香澄さんが呆れた顔でそう言うと、「ごめんってば、香澄〜」と誠さんが苦笑いをする。


 そのあとも「もぉ〜!だいたい、いつも誠さんは〜」と、香澄さんがぷりぷりと怒って痴話喧嘩が始まり、わたしは微笑ましく、ふたりのそのやりとりを見ていた。


 すると、「パパ、ママ〜、わたしも大掃除手伝う〜。あっ!天井のあそこ拭きたい!パパ肩車して〜!」と言って心ちゃんがやって来て、「よし、心!パパに任せとけ」と誠さんが心ちゃんを肩車する。


 「ちょっとぉ、誠さん。心のこと落とさないでよぉ。心も気をつけてー」と、となりでふたりを見守る香澄さん。


 そんなほのぼのとしたやりとりに、本当に素敵な家族三人だ。


 わたしはそう思っていた。それなのに。


 幸せな家族を引き裂くような残酷な現実。


 誰が悪いわけでもない。行き場のない悲しみ。そして、大きく渦巻く黒い闇のような不安。


 保育士の自分が、目の前の幸せな家族が壊れていく姿を、指をくわえて見ていることしかできないという、この無力さにわたしは絶望した。


 わたしが香澄さんの病気のことを職員会議で報告すると、園長先生は「香澄さんの病気のことは、わたしたち保育士の領域ではどうにもできない。今は医療の力を信じましょう。なんとかできることを探して白井家を支えましょう」と言ってくれた。


 正直わたしは、白井家の三人のことを想うと胸が痛くて、保育にまったく身が入らなかった。


 そんなとき、トラブルが起きる。


 子どもたちの午前の主活動である、公園遊びから帰ってきたとき、保育園の外階段で友達の夏美ちゃんとケンカになった心ちゃんが、夏美ちゃんを階段から突き飛ばしてしまったのだ。


 階段の段差の角で頭をぶつけた夏美ちゃんは、頭から出血。


 すぐさまわたしは、泣いている夏美ちゃんに駆け寄り状況確認をする。


 夏美ちゃんの意識ははっきりしているが、すぱっと切れた頭の傷口からは出血が止まらない。


 とりあえず夏美ちゃんを保育室に連れてって、綺麗な医療用ガーゼで血を拭くが、ガーゼはあっという間に足らなくなり、保育室内の綺麗なタオルで止血の代用をする。


 すると騒ぎを聞きつけて、となりのクラスの担任保育士の犬塚悠さんがやって来た。


 「はーい、夏美ちゃん。ちょっと、ごめんね。悠先生にも怪我見せてねー。うーん、なるほど、頭はけっこう血が出る場所だからなぁ。これは病院だね。うちのクラスで朝陽ちゃんの抜けた保育体制をカバーするから、すぐに対応を」


 悠さんは、夏美ちゃんの髪の毛を掻き分け、怪我を確認しながら冷静にそう言った。


 こういうとき保育士は、パニックになったり誤った判断を避けるため、必ず、複数人で状況確認をして連携しながら動く。


 わたしは「了解しました」とすぐ返事をしてから、夏美ちゃんと自分のクラスの子どもたちを、悠さんやパートの保育士さんたちに任せ、職員室にいた園長先生に報告し、そのまま夏美ちゃんのお母さんに電話で状況を伝え謝罪したあと、病院に電話をして今から診察してもらえるか確認をし、大丈夫だったので、すぐわたしは夏美ちゃんを病院に連れて行った。


 結果、夏美ちゃんは頭を三針縫うこととなった。


 保育園に戻ってきたあと、心ちゃんと夏美ちゃんとわたしで、なにがあったかを話し合って確認をする。


 ふたりの話を聞いていくと、どうやら些細なことで口論になってケンカをしてしまったようだ。


 しかし、心ちゃんはもうしっかりと反省をしていて、「ごめんね、わたし。夏美ちゃんにひどいことしちゃって」と泣いて謝る。


 夏美ちゃんも頭に三針も縫う怪我をさせられたというのに、「わたしもひどいこと言っちゃったから、ごめんね」と言ってくれた。


 こういうとき、子どもというのは本当にすごい。後腐れなく相手を許し、今後のお互いの関係を大切に築いていく力を持っているのだ。


 大人だったら、こんな簡単にはいかない。


 人を許すことの大切さ。わたしはいつも子どもたちから、それを学んでいる。


 そのあとわたしは、夏美ちゃんのお母さんと誠さんに、夏美ちゃんの怪我の状況、子ども同士のケンカの内容と仲直りまでのやりとりを電話で報告して謝罪をした。


 今回、このようなトラブルが起きてしまい。なにか重大なことを見落としている気がして、わたしは冷静に保育を分析する。


 わたしには理依奈さんという保育士の師匠がいて、保育の中で起こる物事にはすべてちゃんと理由がある、それを保育士が解き明かすことで良い保育が実現できる、とくにトラブルのときほど冷静に分析をしなければならない。


 そのノウハウをわたしは、師匠の理依奈さんから叩き込まれているのだ。


 普段は大人しい心ちゃんがこのようなトラブルを起こすだろうか。いちばんにその疑問が頭に思い浮かぶ。


 次に注意深く心ちゃんの様子を分析する。


 すると、あることが見えてきた。


 人差し指が荒れるほどの指しゃぶり。目を何度もぱちぱちとまばたきさせるチックの症状。


 どれも子どもが不安なときにする行動だ。


 心ちゃんは普段から指しゃびりもチックもしない子。


 つまりこれは習慣でやっているわけではなく、完全に不安だという声にならないサインを、心ちゃんは行動で示していたのだ。


 心が揺れている子どもは突発的な行動をとってしまうから、保育士がとくに気にして見守らなければいけない。


 普段は大人しい心ちゃんだから、不安なサインを見逃してしまったのか。


 いや、ちがう。いつものわたしなら、こんなこと絶対に見逃さなかった。


 香澄さんの病気の話を聞いてから、ショックで身が入ってなかったわたしが予測と分析を怠ったせいだ。


 きっと、これはわたしがしっかりしてれば防げたトラブル。


 夏美ちゃんに大怪我をさせて、心ちゃんにも悲しい思いをさせて。


 病気のことで心に余裕もなく、せめて子育てのことでは、少しでも安心させてあげなければならないはずなのに。


 香澄さんと誠さんの足を引っ張ってしまった。


 くそ、くそ、くそ、いったい、わたしはなにをやってるんだ。


 無能で役に立たない。こんな自分が情けなくてたまらない。


 その日の夕方。


 誠さんが仕事をさっと切りあげて、いつもより早く保育園にお迎えに来た。


 心ちゃんが怪我をさせてしまった、夏美ちゃんのお母さんに直接会って謝るためだ。


 誠さんが保育園の玄関で待っていると、夏美ちゃんのお母さんが少しいつもの時間より早く保育園にお迎えに来た。


 「本日は、心が夏美ちゃんを怪我させてしまって申し訳ありませんでした」


 誠さんが頭を下げるそのとなりで、「夏美ちゃんを守ることができず、申し訳ありません」と、わたしも深く頭を下げて謝罪をした。


 「最初に保育園から電話が来たときはびっくりしたけど、大丈夫です。心ちゃんがいつも夏美と仲良く遊んでくれてるのは知っていますし。これからも、よろしくお願いしますね」


 夏美ちゃんのお母さんは目を細めて優しくそう言ってくれた。


 「本当にごめんなさい。ありがとうございます。こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」と、誠さんは改めてまた頭を深く下げる。


 夏美ちゃんとお母さんが帰って行くのを見送ってから、となりで誠さんがわたしにこう言った。


 「朝陽先生も、いつもありがとうございます。心は朝陽先生が大好きで、家でもよく今日は朝陽先生となにやって遊んで楽しかったとか、たくさん話してくれるんですよ。心ってけっこう大人しいでしょ。だから、ちゃんと先生たちの目はうちの子まで行き届いてるかなって気になったりするんですけど、心が朝陽先生の話をしてくれるから、いつも安心できるんです。そんな心が今回、初めて友達に大怪我させちゃってびっくりしました」


 その言葉にわたしの胸がずきずきと痛む。誠さんは話をつづける。


 「俺、まだ諦めてませんから。香澄のこと!香澄は必ず助けます!県内のセカンドオピニオンも行ってるし。東京の大きな病院で最新の医療が受けれないか探してるんです。調べたら、がんのステージ4からだって生還した人は何人もいる。だから、絶対に最後まで諦めない!俺たちは三人で家族だから!」


 そう言った誠さんの目の奥には、めらめらと熱く燃える光がある。


 「はい。わたしも信じています」


 わたしが誠さんをまっすぐ見てうなずいて返すと、「ありがとうございます」と言って誠さんがにこっと微笑んだ。


 しかし、日に日にお迎えに来るときの、香澄さんの姿が変わっていき、わたしはそれを結局見ていることしかできなくて胸が苦しくなった。


 あ、今日は少し香澄さんの顔色が悪い。


 そう思ってわたしが心配そうな目で見てしまったので、それに気づいた香澄さんが「実は不安で毎日夜も眠れなくて、不眠になってるんです」と教えてくれた。


 それから数日すると、抗がん剤の副作用の影響で、全部、髪が抜け落ちた香澄さんはニット帽を被ってお迎えに来た。


 さらに数日すると、あまり食べれていないのか、もともと華奢だったけど、今は病的に痩せていると見ればわかるような姿の香澄さんがお迎えに来た。


 香澄さんの姿が変わっていくたびにわたしは、結局なにもできない、なんて無力なんだ、見ていることしかできないじゃないか。


 そんなことばかりを考えて、残酷な現実に心を痛めて打ちひしがれていた。


 日曜日の夕方。


 今日は仕事が休みなので、わたしはある人に会えないかなと、近所の桜舞公園に足を運んだ。


 その人は、だいたい日曜日のこれくらいの時間になると、いつもこの公園にいるので、わたしは周りを探す。


 見るよりも、耳を澄ませた。すると遊んでいる子どもの声や街の喧騒の中に、アコースティックギターの旋律が聞こえてきた。


 その音を頼りに芝生の場所まで行くと、そこで座って、その人はギターを弾いている。


 黒髪の無造作なぼさぼさ頭、オーバーサイズの白Tシャツ、黒スキニーパンツに黒いスニーカー。


 ダークブラウンの使い古したミニアコースティックギターを、大切な人をそっと抱きしめるように弾いているその人は、わたしのとなりのクラス担任をしている犬塚悠さんだ。


 「どうも、悠さん」とわたしがさっそく声をかけると、「お、朝陽ちゃんじゃん」


 わたしに気づいて、悠さんはそう言いながら無邪気な少年のように微笑む。


 悠さんはとても自由な性格で、真面目すぎるわたしにはつかみどころのない人だけど、保育の腕はたしかだし、どこか子どもっぽいその一面とは裏腹に、たまに確信を突くようなことを言う不思議な人だ。


 わたしは高校生のとき、自分の自信のなさが原因で自暴自棄になり、保育士になりたいという幼い頃からの夢を捨ててしまいそうになっていた。


 そのとき、たくさん相談に乗ってくれて、導いてくれた悠さんは恩人なのだ。


 相変わらず今も、わたしは悩みがあると、この桜舞公園に来ては悠さんにたまに相談している。


 「そろそろ、朝陽ちゃんが来るかなって思ってたんだ」と、西の空の夕焼けを見つめて悠さんが呟く。


 なんだ。やっぱりお見通しか。


 白井家の状況は、職員会議で共有をしているので、悠さんも知っている。


 わたしがそのことで、どうすればいいかもわからず、悩んで心を痛めているのを悠さんは見透かしているのだろう。


 実は悠さんも昔、最愛の奥さんを病気で亡くしている。


 いったいどんな気持ちで、香澄さんの話を会議で聞いていたのだろう。


 悠さんのほうが、きっとつらい思いをしているはず、わたしの想像もつかないほどに。


 わたしも悠さんのとなりに腰を下ろして、夕焼けを見つめる。今日も夕焼けは茜色に街や空を染め上げてあたたかく輝く。


 「こうとき、本当に無力ですね。保育士って」


 心が壊れてしまいそうなこの悲しみを、共感してもらいたかったのか、ただ吐き出したかったのか、わたしはそう呟いた。


 すると、思わぬ言葉が悠さんの口から飛び出す。この人はいついもわたしの思いつかないようなことを言う。


 「それが、そうでもないんだなぁ〜」


 夕焼けを見つめたまま息をふうっと大きく吐いてそう言った悠さんに、わたしは縋るように訊ねる。


 「じゃあ、いったいなにができるんですか?保育士なんかに。唯一の頼みの綱の医療だって、病気に押されてしまってるのに。わたしたちたかが保育士になにができるんですか?」


 わたしは感情が昂って、目からは涙がこぼれ声に嗚咽が混ざってしまう。


 「香澄さんと誠さんが、必死に今をがんばって生きてる、その子育て支えられる。白井家の三人が笑顔になれる保育ができる」


 そう言ったあと悠さんは、真剣な眼差しをまっすぐわたしに向けて言葉をつづけた。


 「そして、香澄さん亡きあとの、誠さんと心ちゃんを支えられる。支えなければならない」


 その言葉を聞いて、わたしは拒絶反応が起きて、さっきよりも強く嗚咽してしまう。


 いやだ、いやだ、いやだ、それって香澄さんを諦めるってこと?


 まだ誠さんは、まったく諦めてないのに?


 心ちゃんだって、香澄さんがまた元気になるって信じてる。


 香澄さんだって、まだ生きたいと、家族三人で未来を見たいからこそ、つらい治療を受けてがんばってる。


 なのに、なんで三人の幸せを心から願ってる保育士のわたしが、そんな想定をしなきゃならないの?残酷な覚悟をしなきゃならないの?


 ギターを芝生に置いてから、泣き崩れるわたしの両肩を正面から掴んで悠さんが言った。


 「しっかりしろ、朝陽ちゃん!俺だって、香澄さんが助かることを信じて願ってる。でも、そうならなかったとき、誰が心ちゃんを、誠さんを側で支えられるんだ!それは俺たち保育士にしかできないことだ!なにもできなくない!無力じゃない!できることがあるんだ!これは残酷な覚悟だ!でも、俺たちはどんな状況でも最善の手を尽くし、子どもと親を支えなくちゃならない!それが保育士だから。どんな状況だとしても、たとえ今は難しかったとしても、いつかまた必ず笑顔になれる日が来ると信じてがんばれ、俺たちに止まってる暇はないんだ、朝陽ちゃん」


 「はい…」と震える声で返事をして、わたしは口を手で押さえ泣き崩れながら何度もうなずく。


 「香澄さんがいなくなってしまったとき、家族三人の時間はそこで止まる。でも残された心ちゃんと誠さんは、悲しみを背負って生きていかなければならない。親をを亡くすなどの大きなショックを小さいうちに経験した子どもは、たしかにその心の傷が大人になっても残ってしまう。でもその心の傷は何年もかけて周りの大人たちの努力で埋めることができる。人を信頼し未来を力強く生きていける子になれる。もしかしたらケアが難しくなるのは誠さんのほうかもしれない。香澄さんへの愛が深ければ深いほど、そのダメージは計り知れないものになる。それに大人は子どもほど柔軟じゃない」


 悠さんはきっと、奥さんを亡くしたときの自身の経験も交えて、わたしにそう教えてくれた。


 香澄さんを諦めたわけじゃない。だけど、香澄さん亡きあとの心ちゃんと誠さんを支えるという残酷な想定、そういう覚悟も保育士には必要なのだと今日学んだ。


 帰る前にわたしはふと気になって悠さんに訊ねた。


 「なんで悠さんは、今も保育士の仕事をがんばれるんですか?」


 すると、悠さんはあたたかい茜色の大きな夕焼けを見つめながら、「保育して人を助けつづけるのが天国の晴との約束だから。ふたりの我が子を守っていかなければならないから。俺もたくさんいろんな人に支えてもらったから。それが俺ががんばる理由だよ」と微笑んで答えてくれた。


 悠さんと別れた桜舞公園からの帰り道。わたしは西の空に沈みゆく夕焼けを見て誓う。


 わたしが保育士として、今の自分にできることを必死にやろう。


 考えたくはないけど、この先、悠さんの言うとおり残酷な覚悟が必要になるときが来るかもしれない。


 でも今は香澄さん、誠さん、心ちゃんの三人が揃っているのだ。三人が少しでも笑顔になれるような、そんな保育をするんだ。


 それは担任の保育士であるわたしにしかできないこと。わたしは無力じゃない。


 せいいっぱい足掻いてやる。みんなを笑顔にするために。


 そして、わたしは計画を立てた。


 今月は保育参観がある。八月なので、子どもたちのプール活動を保護者に見てもらうのが毎年恒例の予定になっていたが、香澄さんが炎天下の中、参加するのはきびしいと判断し、親子でクッキー作りに変更をした。


 クッキー作りなら室内なので、香澄さんに無理なく、楽しいクッキー作りが親子でできるし、その中で保育園のお友達との関わり合いを見せれたらと思ったのだ。


 そして、当日の保育参観は大成功。


 香澄さんだけではなく誠さんも参加してくれて、可愛いハートや雪だるまの形のクッキーを楽しく親子三人で作ることができた。


 それだけではなく、となりでクッキーを作っていた夏美ちゃんや、夏美ちゃんのお母さんと家族ぐるみで交流ができて笑顔が絶えない保育参観となった。


 九月になると、心ちゃんが保育園で竹馬にはまって乗れるようになったので、ぜひ、その姿を香澄さんと誠さんに見てほしいと思って、わたしは子どもたちの得意な出し物大会というイベントを企画をし、保護者の方々にも見に来てほしいと呼びかけた。


 出し物大会では、子どもたちはそれぞれ自分の自信がある、コマ回し、ダンス、あやとりなどを披露し、心ちゃんはもちろん竹馬を披露した。


 しかし前日の夜に体調が悪化した香澄さんは緊急入院し、出し物大会に参加することができなかった。


 十月になると、クラス単体ではなく保育園全体の大きなイベントである、運動会がある。


 運動会でも、心ちゃんの得意な竹馬の出番があるように、わたしは運動会のプログラムに竹馬を組み込んだ。


 「なんとか心の竹馬を生で見たい。わたしがんばるからね」と、香澄さんが入院中の病院から電話でわたしにそう話してくれた。


 一応、わたしはカメラで撮った心ちゃんの竹馬動画を、香澄さんのスマホに送って見せてあるが、やっぱり娘の晴れ舞台を生で応援したいのだ。


 そして迎えた運動会当日。運動会は保育園の近くの広場を貸し切って毎年開催される。


 そこに香澄さんは来ることができた。しかし、その香澄さんの姿はもう自分では歩けなくなっていて誠さんに車椅子を押してもらい、その車椅子には酸素ボンベが取り付けてあって口には呼吸器をつけていた。


 わたしは香澄さんに駆け寄る。


 「香澄さん、今日は来てくれてありがとうございます」


 本当は今にも泣いてしまいそうだったけど、ぐっと堪えてせいいっぱいの笑顔でわたしは香澄さんの手を握ってそう言った。


 香澄さんも花が咲いたように微笑んでゆっくりうなずきながら、ぎゅっとわたしの手を握り返してくれた。


 心ちゃんも駆け寄ってきて、「ママ〜!見ててね!わたしすっごい竹馬上手なんだよ」と言って、香澄さんが来れて嬉しそうな笑顔を見せる。


 香澄さんも本当に嬉しそうに微笑み、「応援してるからね」と、がんばって声を振り絞って出して心ちゃんの頭をぽんぽんと撫でた。


 そして、心ちゃんの竹馬は大成功。


 そのあと親子三人が抱き合って喜んでいる姿を見て、ずっと我慢していたのに気が緩んだわたしは、思わず涙がこぼれてしまう。


 香澄さんは心ちゃんの晴れ舞台を見ることができて、無事、運動会は幕を下ろした。


 そして、次にわたしが香澄さんと会ったのはニヶ月後。


 香澄さんの葬式だった。


 空には厚い灰色の雲。肌を刺すような冷たい風にぱらぱらと雪が舞う。


 葬式場は保育園の近くだったので、最後に香澄さんに会おうと、保育士、保護者、子ども、たくさんの保育園関係者が集まった。


 棺の中で安らかに手を合わせ眠る香澄さん。化粧されていてその顔は凛と美しく、家族と少しでも長く一緒にいるために病気と必死に戦った気高さを感じた。


 その傍らで泣き崩れる誠さんと心ちゃんを、わたしは自分の涙で直視できなかった。


 最後、棺の中に、白くて小さい綺麗な花を何個も咲かせたかすみそうを香澄さんの胸に添えながら、わたしは目から涙を流して誓う。


 「あとは任せてください。必ず、支えますから。心ちゃんを、誠さんを、必ず、支えてみせます」


 帰るとき葬式場の出入り口で会葬御礼を配る、誠さんにわたしは声をかけられる。


 誠さんの瞼の周りは涙で赤く荒れていて、その目の奥にはまったく光がなく、どこまでも暗い闇がつづいていた。


 「朝陽先生、今日は来てくれてありがとうございます。香澄も喜んでると思います。俺、これからもうどうすればいいわからないです。俺は仕事で、子育ても家事もほとんど香澄がやってきました。生活も、もうめちゃくちゃだ。なによりこの悲しみは、もう二度と埋まることはない。香澄をひとり寂しく死なせたくない。俺も早く香澄のあとを追いたい」


 誠さんのその言葉を聞いて、また、わたしの目から涙が止まらなくなる。


 人としてだったら、わたしは誠さんにかける言葉がなかった。


 でも保育士としては、今、伝えなければならない言葉があった。


 「少し落ち着いたらでいいです。とにかく、心ちゃんを保育園に連れて来てください。来てさえくれれば、わたしたちがなんとか支えれます。だから、とにかく、来てください」


 わたしがそう伝えると、誠さんは涙しならがら何度もうなずいた。


 それから、一週間後。


 心ちゃんはいつも通り保育園に来るようになった。


 誠さんは踏ん張って仕事復帰をするが、すぐに心の病で休職し、悠さんが桜舞公園でわたしに言った通りになった。


 わたしは誠さんにこう伝えた。


 もし、もう無理だと思ったのなら、限界が来てしまう前に、とにかく保育園に子どもをあずけてください。


 あずけっぱなしでもいいです。


 子どもをあずけるコアタイムというものが役所で決められていますが、本当にピンチのとき、そんなこと言ってられません。


 できたら役所や、精神科の医師にも相談してください。いろんな機関が連携ができると、もっと心強くあなたを支えることができます。


 とにかく、いろんな人に助けを求めてください。


 あなたがピンチと知ったとき。


 必ず保育士は自分たちができる、子育てに関わる最善の手であなたを支える努力をします。


 それが、わたしたち保育士の仕事です。お願いです。支えさせてください。


 そして、三月。


 心ちゃんと誠さんはこでまり保育園を卒園した。


 ふたりには、まだまだ立ち直るための時間が必要だ。


 卒園したとしても、実家だと思ってまた保育園に顔を出してほしい、わたしはふたりにそう伝えた。


 心ちゃんが行く小学校と学童には、家庭状況の引き継ぎをちゃんとしてあって、親子ともに支えてあげてほしいと頼んである。


 卒園式が終わって保育園から、手を繋いで帰って行く心ちゃんと誠さんの背中を見送ったあと、帰り道が同じなので桜舞公園をわたしは悠さんとふたりで歩く。


 すると「あ、来年度はよろしくね」と、悠さんがとなりで言った。


 来年度から、わたしと悠さんは同じクラスの担任になったのだ。


 わたしが高校生の頃から相談させてもらって、ずっとお世話になっている保育士の悠さん。


 その人と肩を並べて保育をする日が来るなんて、運命とは不思議なものだ。


 「まさか、わたしと悠さんが同じクラスの担任になるなんて」


 わたしが感慨深くそう言って感傷に浸っていたのに、悠さんはそんなことどこ吹く風で「あ、新しいクラス始まったときの年間カリキュラム。あれ、朝陽ちゃん書いといてー」と軽いノリで言った。


 「ちょっと、それはクラスリーダーの悠さんの仕事ですよね」と、わたしは眉間にしわを寄せてすぐに返す。


 「あ、パワハラじゃないよ。俺がそのぶん保育に入っとくから、朝陽ちゃんはその間に事務時間取ってやっていいよ」


 にこにこ笑顔でそう提案する悠さんに、わたしはため息をついてはぁっと呆れる。


 「それって、悠さんがただ苦手な事務仕事をサボりたいだけですよね。やりません!そんなんじゃ、天国の晴さんに怒られますよ!」


 実は悠さんの亡くなった奥さんである晴さんは、幼い頃、公園で迷子になっているわたしを助け。


 わたしに人を助けることの大切さ教えてくれた原点であり、憧れであり、保育士を目指そうと思ったきっかけになった人なのだ。


 「そんなこと言ったら、これまでに晴は、もう俺のおこないに激怒しまくりだよ。俺が天国行ったら、まずは晴に説教からされるんだろうなー。ははは、めっちゃ楽しみー。他にもたくさん話したいことあるんだー」


 青く澄んだ空の彼方を見つめ、目を細めて柔らかく微笑んだあと、悠さんは少し真剣な表情になって言葉をつづける。


 「大切な人を失った悲しみは一生終わらない。背負って生きて行くしかない。笑えるなんて、しばらく絶対無理。また笑えるのは、いつになるかわからない。でも、生きてさえいれば、必ず、また笑える日が来るから」


 その笑顔になれるいつかを信じて、壊れてしまいそうな子どもと親の今を支えるのがわたしたち保育士の仕事です。


 保育士という仕事は、文句や批判はあれど、がんばったからと言って、なかなか認められ、褒められ、報われるわけじゃない。


 給料が上がるわけでもなければ、仕事がらくになるわけでもない。


 そりゃ処遇改善はしてほしいけど、それが難しいのはみんな覚悟の上で働いています。


 見返りは入りません。


 あなたが幸せであること。それがいちばんの願いです。


 でも、たまにかけてもらえる保護者の方からの「ありがとう」という言葉や、子どもたちの幸せな笑顔が、わたしたち保育士の何万倍のパワーとなっています。


 わたし、椿朝陽は。


 世の中の保育士たちは。


 あたたかい心の炎を、その胸に熱く燃やしつづけ、今日もがんばっています。


 あなたを笑顔にするために。




 ※あなたを笑顔にするために、今日も朝陽は輝きつづける2(完)
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