あなたを笑顔にするために、今日も朝陽は輝きつづける2
とにかく、保育園に来てください
わたしの名前は椿朝陽。
幼い頃、公園で迷子になっているわたしを助けてくれた保育士さんに憧れ、わたしは、その人のように困っている誰かの力になれる。
そんな人になりたいと、保育士を目指した。
そして、保育科のある福祉大学を卒業後。名古屋市内で運営している、こでまり保育園に就職し働いている。
五歳児クラスの担任をしているが、右も左もわからないわたしは、いつも失敗し悩んでばかり。
そんなわたしは、ある保護者の方の一言で、自分の無力さに打ちひしがれることとなる。
「わたし今、がんのステージ4なんです」
個人懇談をやっていたとき、急に打ち明けた保護者のお母さんの一言に、場の空気が一瞬で凍りつく。
ちょっと保育園での子どもの様子を話して、ちょっと家庭状況を教えてもらうだけの、軽い気持ちで望んだ個人懇談だったのに。
そのときわたしは、そのお母さんになんて言葉をかけたらいいか、まったくわからなかった。
それは心配ですね…、ちがう。
きっと大丈夫ですよ…、ちがう。
困ったことになりましたね…、ちがう。
どれもどれもちがう。こんなとき、どんな言葉をかけたらいいかわからない。
絶体絶命な家族の危機だというのに。
いくら、その子の、その家族の、幸せを願っていても、笑顔にしたくても、こんなとき保育士は無力だ。
結局わたしは、「え…」と口からこぼれ落ちたきり言葉を詰まらせてしまい。
心から心配している眼差しを向け、うんうんと泣いて頷きながら、そのお母さんの話を聞くことしかできなかった。
「お医者さんから、余命宣告されちゃったんですよ」「こんなに今、元気なのに信じられないですよね」「娘と夫のことを考えると、すごく不安なんです」「正直、これからどうなるのか怖いです」
泣きたいのはお母さんのはずなのに、その一言一言の重さ。
残酷な現実が、映画やドラマなどではなく、今、目の前に本当にあることのショックに耐えきれず。
ろくに言葉も出てこないのに、顔がぐちゃぐちゃになるほどの涙だけが出てくる。
このお母さんの名前は白井香澄さん。黒いさらさらの綺麗なロングヘア、小柄で華奢な可愛らしい人で、肌も羨ましくなるほど真っ白。いつも子ども想いな優しいお母さん。
旦那さんは白井誠さん。仕事は会社員をしていて明るい性格の人で、保育園の行事にも香澄さんと一緒によく参加してくれている。誠さんが、香澄さんを溺愛していて、ふたりは保育園では評判のおしどり夫婦だ。
そのふたりの娘は、白井心ちゃん。わたしが担任しているクラスの五歳児。お父さんとお母さんのことが大好き、友達の中では大人しくてあまり手のかからない性格の子だ。
そんな白井家の三人が、一ヶ月前。保育園の行事である大掃除に参加してくれたときのことを思い出す。
「心が毎日お世話になってる保育園だからな、ぴっかぴかにしちゃうぞ〜」
そう言って脚立に乗った誠さんが、天井のエアコンを掃除するために、勢いよくフィルターを外すと大量の埃が落ちてきて、保育室全体に一気に埃が舞ってしまった。
わたしも、ほかの保護者のお父さんやお母さんも、咳き込んで急いで保育室の窓を開ける。
「まったく。誠さん、なにやってるのよ。そうやってすぐ調子に乗らないの!」
香澄さんが呆れてそう言うと、「ごめんってば、香澄〜」と誠さんが取り繕う。
そのあとも、「だいたい、いつも誠さんは〜」とぷりぷりと怒る香澄さんが、誠さんに心を許して自分を出していることが伝わってきて、これがまさに痴話喧嘩ってやつだなと、わたしは微笑ましく、ふたりのやりとりを見ていた。
すると、「パパ、ママ〜、わたしも掃除手伝う〜。あっ!あそこ拭きたい!パパ肩車して〜!」と言って心ちゃんがやって来て、「よし、心!パパに任せとけ」と誠さんが心ちゃんを肩車する。
「ちょっとぉ、誠さん。心のこと落とさないでよぉ。心も気をつけてー」と言って、となりでふたりを見守る香澄さん。
そんなほのぼのとしたやりとりを見て、本当に素敵な家族三人だ。
わたしはそう思っていた。それなのに。
幸せな家族を引き裂くような残酷な現実。
誰が悪いわけでもない。行き場のない悲しみ。そして、大きなどす黒い闇のような不安。
保育士という自分が、目の前の幸せな家族が壊れていく姿を、指をくわえて見ていることしかできないという、この無力さに絶望をした。
わたしが香澄さんの病気のことを職員会議で報告をすると、園長先生は「香澄さんの病気のことは、わたしたち保育士の領域ではどうにもできない。医療の力を信じましょう」と言ってくれた。
正直わたしは、三人のことを想うと胸が痛くて、保育にまったく身が入らなかった。
そんなときに、トラブルが起きる。
午前の主活動である公園から帰ってきたとき、保育園の外階段で友達の夏美ちゃんとケンカになった心ちゃんが、夏美ちゃんを階段から突き飛ばしてしまったのだ。
階段の段差の角で頭をぶつけた、夏美ちゃんは頭から出血した。
すぐさまわたしは、夏美ちゃんに駆け寄り状況確認をする。意識はしっかりしているが、すぱっと切れた頭の傷口からは出血が止まらない。
とりあえず夏美ちゃんを連れて保育室の中に入って、綺麗な医療用ガーゼで血を拭くが、ガーゼはあっという間に足らなくなり、保育室内の綺麗なタオルで止血の代用をする。
すると騒ぎを聞きつけて、となりのクラスの担任保育士の犬塚悠さんがやって来た。
「はーい、夏美ちゃん。ちょっと、ごめんね。悠先生にも怪我見せてねー。うーん、なるほど、頭はけっこう血が出る場所だからなぁ。これは病院だね。うちのクラスで朝陽ちゃんの抜けた保育体制をカバーするから、すぐに対応を」
悠さんは、夏美ちゃんの髪の毛を掻き分け、怪我を確認しながら冷静にそう言った。
こういうとき保育士は、パニックになったり誤った判断を避けるため、必ず、複数人で状況確認をして連携しながら動く。
わたしは「了解しました」と返事をしてから、夏美ちゃんと自分のクラスの子どもたちを、悠さんやパートの保育士さんたちに任せ、職員室にいた園長先生に報告し、そのまま夏美ちゃんのお母さんに電話で状況を伝え謝罪したあと、病院に電話をして今から診察してもらえるか確認をして、大丈夫だったので、すぐわたしは夏美ちゃんを病院に連れて行った。
結果、夏美ちゃんは頭を三針縫うこととなった。
保育園に戻ってきたあと、心ちゃんと夏美ちゃんとわたしで、なにがあったかを話し合って確認する。
ふたりの話を聞いていくと、心ちゃんと夏美ちゃんで些細なことで口論になりケンカをしてしまったようだ。
しかし、心ちゃんはもうしっかりと反省をしていて、「ごめんね、わたし。夏美ちゃんにひどいことしちゃって」と泣いて謝る。
夏美ちゃんも頭に三針も縫う怪我をさせられたというのに、「わたしもひどいこと言っちゃったから、ごめんね」と言ってくれた。
こういうとき、子どもというのは本当にすごい。後腐れなく相手を許し、今後のお互いの関係を大切に築いていく力を持っているのだ。
大人だったら、こんな簡単にはいかない。
人を許すことの大切さ。わたしはいつも子どもたちから、それを学んでいる。
そのあとわたしは、夏美ちゃんのお母さんと誠さんに、夏美ちゃんの怪我の状況、子ども同士のケンカの内容と仲直りまでのやりとりを電話で報告して謝罪した。
今回、このようなトラブルが起きていまい。なにかを重大なことを見落としている気がして、わたしは冷静に保育を分析する。
わたしには理依奈さんという保育士の師匠がいて、保育の中で起こる物事にはすべてちゃんと理由がある、それを保育士が解き明かすことで良い保育が実現できる、とくにトラブルのときほど冷静に分析をしなければならない。と、そのノウハウをわたしは、理依奈さんから叩き込まれているのだ。
普段は大人しい心ちゃんがこのようなトラブルを起こすだろうか、いちばんにその疑問が頭に浮かぶ。
次に注意深く心ちゃんを分析する。
すると、あることが見えてきた。
人差し指が荒れるほどの指しゃぶり。目を何度もぱちぱちとまばたきさせるチックの症状。
どれも子どもが不安なときにする行動だ。
心ちゃんは普段から指しゃびりもチックもしない子。
つまりこれは習慣でやっているわけではなく、完全に不安だという声にならないサインを、心ちゃんは行動で示していたのだ。
心が揺れている子どもは突発的な行動をとってしまうから、保育士がとくに気にして見守らなければいけない。
普段は大人しい心ちゃんだから、見逃してしまったのか。
いや、ちがう。いつものわたしなら、こんなこと絶対に見逃さなかった。
香澄さんの病気の話を聞いてから、ショックで身が入ってなかったわたしが分析を怠ったせいだ。
きっと、これはわたしがしっかりしてれば防げたトラブル。
夏美ちゃんに怪我をさせて、心ちゃんにも悲しい思いをさせて。
病気のことで心に余裕もなく、せめて子育てのことでは、少しでも安心させてあげなければならないはずなのに。
香澄さんと誠さんの足を引っ張ってしまった。
くそ、くそ、くそ、いったい、わたしはなにをやってるんだ。
無能で役に立たない。こんな自分が情けなくてたまらない。
その日の夕方。
誠さんが仕事を早く切りあげて、いつもより早く保育園に、お迎えに来た。
心ちゃんが怪我をさせてしまった、夏美ちゃんのお母さんに直接会って謝るためだ。
誠さんが保育園の玄関で待っていると、夏美ちゃんのお母さんが少しいつもの時間より早く保育園にお迎えに来た。
「本日は、心が夏美ちゃんを怪我させてしまって申し訳ありませんでした」
誠さんが頭を下げるそのとなりで、「夏美ちゃんを守ることができず、申し訳ありません」と、わたしも深く頭を下げて謝罪をした。
「最初に保育園から電話来たときはびっくりしたけど、大丈夫です。心ちゃんがいつも夏美と仲良く遊んでもらってるのは知っていますし。これからも、よろしくお願いしますね」
夏美ちゃんのお母さんは目を細めてそう言ってくれた。
「本当にごめんなさい。ありがとうございます。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」と、誠さんは改めてまた頭を下げる。
夏美ちゃんとお母さんが帰って行くのを見送ってから、となりで誠さんがわたしにこう言った。
「朝陽先生も、いつもありがとうございます。心は朝陽先生が大好きで、家でもよく今日は先生となにやって遊んで楽しかったとか、たくさん話してくれるんですよ。心ってけっこう大人しいでしょ。だから、ちゃんと先生たちの目はうちの子まで行き届いてるかなって気になったりするんですけど、心が朝陽先生の話をしてくれるから、いつも安心できるんです。そんな心が今回、初めて友達に大怪我させちゃってびっくりしました」
その言葉に、わたしの胸がずきずきと痛む。誠さんは話をつづける。
「僕、まだ諦めてませんから。香澄のこと!香澄は必ず助けます!県内のセカンドオピニオンも行ってるし。東京の大きな病院で最新の医療が受けれないか探してるんです。調べたら、がんのステージ4からだって生還した人は何人もいる。だから、絶対に最後まで諦めない!僕たちは三人で家族だから!」
そう言った誠さんの目の奥には、めらめらと熱く燃える光がある。
「はい。わたしも信じています」
わたしも誠さんをまっすぐ見てうなずいて返すと、誠さんが「ありがとうございます」と言いにこっと微笑んだ。
しかし、日に日に保育園に心ちゃんを迎えに来るときの、香澄さんの姿が変わっていき、わたしはそれを見ていることしかできなくて、胸が苦しくなった。
あ、今日は少し香澄さんの顔色が悪い。
そう思ってわたしが心配そうに見てしまったので、それに気づいた香澄さんが、実は不安で毎日夜も眠れなくて、不眠になっていると教えてくれた。
それから数日すると、抗がん剤の副作用の影響で、全部、髪が抜け落ちた香澄さんはニットを被って、心ちゃんのお迎えに来た。
さらに数日すると、あまり食べれていないのか、もともと華奢だったけど、今は病的に痩せていると見ればわかるような香澄さんが、お迎えに来た。
香澄さんの姿が変わっていくたびにわたしは、結局なにもできない、なんて無力なんだ、見ていることしかできないじゃないか。
そんなことばかりを考えて、残酷な現実に打ちひしがれていた。
日曜日の夕方。
今日は仕事がお休みなので、わたしはある人に会えないかなと、近所の桜舞公園に足を運んだ。
その人は、だいたい日曜日のこれくらいの時間になると、いつもこの公園にいるので、わたしはあたりを探す。
見るよりも、耳を澄ませた。すると遊んでいる子どもの声や街の喧騒の中に、アコースティックギターの旋律が聞こえてきた。
その音を頼りに芝生の場所まで行くと、そこで座って、その人はギターを弾いている。
黒髪の無造作なぼさぼさ頭、オーバーサイズの白Tシャツ、黒スキニーパンツに黒いスニーカー。
ダークブラウンの使い古したミニアコースティックギターを、大切な人をそっと抱きしめるように弾いているその人は、わたしのとなりのクラス担任をしている犬塚悠さんだ。
「どうも、悠さん」とわたしがさっそく声をかけると、「お、朝陽ちゃんじゃん」
わたしに気づいた悠さんはそう言って、無邪気な少年のように微笑む。
悠さんはとても自由な性格で、真面目すぎるわたしにはつかみどころがない人だけど、保育の腕はたしかだし、どこか子どもっぽいその一面とは裏腹に、たまに確信を突くようなことを言う不思議な人だ。
わたしは高校生のとき、自信のなさが原因で自暴自棄になり、保育士になりたいという幼い頃からの夢を捨ててしまいそうになっていいた。
そのとき、たくさん相談に乗ってくれて、導いてくれた悠さんは恩人なのだ。
相変わらず今も、わたしは悩みがあると、この桜舞公園に来ては悠さんに相談をしている。
「そろそろ、朝陽ちゃんが来るかなって思ってた」と、西の空に沈む夕焼けを見つめて悠さんが呟く。
なんだ。やっぱりお見通しか。
香澄さんの状況は、職員会議で共有をしているので、悠さんも知っている。
わたしがそのことで、悩んで心を痛めているのを、悠さんは見透かしているのだろう。
実は悠さんも昔、最愛の奥さんを病気で亡くしている。
いったいどんな気持ちで、香澄さんの話を会議で聞いていたのだろう。
悠さんのほうが、きっとつらい思いをしているはず。
わたしには想像もつかないほどに。
幼い頃、公園で迷子になっているわたしを助けてくれた保育士さんに憧れ、わたしは、その人のように困っている誰かの力になれる。
そんな人になりたいと、保育士を目指した。
そして、保育科のある福祉大学を卒業後。名古屋市内で運営している、こでまり保育園に就職し働いている。
五歳児クラスの担任をしているが、右も左もわからないわたしは、いつも失敗し悩んでばかり。
そんなわたしは、ある保護者の方の一言で、自分の無力さに打ちひしがれることとなる。
「わたし今、がんのステージ4なんです」
個人懇談をやっていたとき、急に打ち明けた保護者のお母さんの一言に、場の空気が一瞬で凍りつく。
ちょっと保育園での子どもの様子を話して、ちょっと家庭状況を教えてもらうだけの、軽い気持ちで望んだ個人懇談だったのに。
そのときわたしは、そのお母さんになんて言葉をかけたらいいか、まったくわからなかった。
それは心配ですね…、ちがう。
きっと大丈夫ですよ…、ちがう。
困ったことになりましたね…、ちがう。
どれもどれもちがう。こんなとき、どんな言葉をかけたらいいかわからない。
絶体絶命な家族の危機だというのに。
いくら、その子の、その家族の、幸せを願っていても、笑顔にしたくても、こんなとき保育士は無力だ。
結局わたしは、「え…」と口からこぼれ落ちたきり言葉を詰まらせてしまい。
心から心配している眼差しを向け、うんうんと泣いて頷きながら、そのお母さんの話を聞くことしかできなかった。
「お医者さんから、余命宣告されちゃったんですよ」「こんなに今、元気なのに信じられないですよね」「娘と夫のことを考えると、すごく不安なんです」「正直、これからどうなるのか怖いです」
泣きたいのはお母さんのはずなのに、その一言一言の重さ。
残酷な現実が、映画やドラマなどではなく、今、目の前に本当にあることのショックに耐えきれず。
ろくに言葉も出てこないのに、顔がぐちゃぐちゃになるほどの涙だけが出てくる。
このお母さんの名前は白井香澄さん。黒いさらさらの綺麗なロングヘア、小柄で華奢な可愛らしい人で、肌も羨ましくなるほど真っ白。いつも子ども想いな優しいお母さん。
旦那さんは白井誠さん。仕事は会社員をしていて明るい性格の人で、保育園の行事にも香澄さんと一緒によく参加してくれている。誠さんが、香澄さんを溺愛していて、ふたりは保育園では評判のおしどり夫婦だ。
そのふたりの娘は、白井心ちゃん。わたしが担任しているクラスの五歳児。お父さんとお母さんのことが大好き、友達の中では大人しくてあまり手のかからない性格の子だ。
そんな白井家の三人が、一ヶ月前。保育園の行事である大掃除に参加してくれたときのことを思い出す。
「心が毎日お世話になってる保育園だからな、ぴっかぴかにしちゃうぞ〜」
そう言って脚立に乗った誠さんが、天井のエアコンを掃除するために、勢いよくフィルターを外すと大量の埃が落ちてきて、保育室全体に一気に埃が舞ってしまった。
わたしも、ほかの保護者のお父さんやお母さんも、咳き込んで急いで保育室の窓を開ける。
「まったく。誠さん、なにやってるのよ。そうやってすぐ調子に乗らないの!」
香澄さんが呆れてそう言うと、「ごめんってば、香澄〜」と誠さんが取り繕う。
そのあとも、「だいたい、いつも誠さんは〜」とぷりぷりと怒る香澄さんが、誠さんに心を許して自分を出していることが伝わってきて、これがまさに痴話喧嘩ってやつだなと、わたしは微笑ましく、ふたりのやりとりを見ていた。
すると、「パパ、ママ〜、わたしも掃除手伝う〜。あっ!あそこ拭きたい!パパ肩車して〜!」と言って心ちゃんがやって来て、「よし、心!パパに任せとけ」と誠さんが心ちゃんを肩車する。
「ちょっとぉ、誠さん。心のこと落とさないでよぉ。心も気をつけてー」と言って、となりでふたりを見守る香澄さん。
そんなほのぼのとしたやりとりを見て、本当に素敵な家族三人だ。
わたしはそう思っていた。それなのに。
幸せな家族を引き裂くような残酷な現実。
誰が悪いわけでもない。行き場のない悲しみ。そして、大きなどす黒い闇のような不安。
保育士という自分が、目の前の幸せな家族が壊れていく姿を、指をくわえて見ていることしかできないという、この無力さに絶望をした。
わたしが香澄さんの病気のことを職員会議で報告をすると、園長先生は「香澄さんの病気のことは、わたしたち保育士の領域ではどうにもできない。医療の力を信じましょう」と言ってくれた。
正直わたしは、三人のことを想うと胸が痛くて、保育にまったく身が入らなかった。
そんなときに、トラブルが起きる。
午前の主活動である公園から帰ってきたとき、保育園の外階段で友達の夏美ちゃんとケンカになった心ちゃんが、夏美ちゃんを階段から突き飛ばしてしまったのだ。
階段の段差の角で頭をぶつけた、夏美ちゃんは頭から出血した。
すぐさまわたしは、夏美ちゃんに駆け寄り状況確認をする。意識はしっかりしているが、すぱっと切れた頭の傷口からは出血が止まらない。
とりあえず夏美ちゃんを連れて保育室の中に入って、綺麗な医療用ガーゼで血を拭くが、ガーゼはあっという間に足らなくなり、保育室内の綺麗なタオルで止血の代用をする。
すると騒ぎを聞きつけて、となりのクラスの担任保育士の犬塚悠さんがやって来た。
「はーい、夏美ちゃん。ちょっと、ごめんね。悠先生にも怪我見せてねー。うーん、なるほど、頭はけっこう血が出る場所だからなぁ。これは病院だね。うちのクラスで朝陽ちゃんの抜けた保育体制をカバーするから、すぐに対応を」
悠さんは、夏美ちゃんの髪の毛を掻き分け、怪我を確認しながら冷静にそう言った。
こういうとき保育士は、パニックになったり誤った判断を避けるため、必ず、複数人で状況確認をして連携しながら動く。
わたしは「了解しました」と返事をしてから、夏美ちゃんと自分のクラスの子どもたちを、悠さんやパートの保育士さんたちに任せ、職員室にいた園長先生に報告し、そのまま夏美ちゃんのお母さんに電話で状況を伝え謝罪したあと、病院に電話をして今から診察してもらえるか確認をして、大丈夫だったので、すぐわたしは夏美ちゃんを病院に連れて行った。
結果、夏美ちゃんは頭を三針縫うこととなった。
保育園に戻ってきたあと、心ちゃんと夏美ちゃんとわたしで、なにがあったかを話し合って確認する。
ふたりの話を聞いていくと、心ちゃんと夏美ちゃんで些細なことで口論になりケンカをしてしまったようだ。
しかし、心ちゃんはもうしっかりと反省をしていて、「ごめんね、わたし。夏美ちゃんにひどいことしちゃって」と泣いて謝る。
夏美ちゃんも頭に三針も縫う怪我をさせられたというのに、「わたしもひどいこと言っちゃったから、ごめんね」と言ってくれた。
こういうとき、子どもというのは本当にすごい。後腐れなく相手を許し、今後のお互いの関係を大切に築いていく力を持っているのだ。
大人だったら、こんな簡単にはいかない。
人を許すことの大切さ。わたしはいつも子どもたちから、それを学んでいる。
そのあとわたしは、夏美ちゃんのお母さんと誠さんに、夏美ちゃんの怪我の状況、子ども同士のケンカの内容と仲直りまでのやりとりを電話で報告して謝罪した。
今回、このようなトラブルが起きていまい。なにかを重大なことを見落としている気がして、わたしは冷静に保育を分析する。
わたしには理依奈さんという保育士の師匠がいて、保育の中で起こる物事にはすべてちゃんと理由がある、それを保育士が解き明かすことで良い保育が実現できる、とくにトラブルのときほど冷静に分析をしなければならない。と、そのノウハウをわたしは、理依奈さんから叩き込まれているのだ。
普段は大人しい心ちゃんがこのようなトラブルを起こすだろうか、いちばんにその疑問が頭に浮かぶ。
次に注意深く心ちゃんを分析する。
すると、あることが見えてきた。
人差し指が荒れるほどの指しゃぶり。目を何度もぱちぱちとまばたきさせるチックの症状。
どれも子どもが不安なときにする行動だ。
心ちゃんは普段から指しゃびりもチックもしない子。
つまりこれは習慣でやっているわけではなく、完全に不安だという声にならないサインを、心ちゃんは行動で示していたのだ。
心が揺れている子どもは突発的な行動をとってしまうから、保育士がとくに気にして見守らなければいけない。
普段は大人しい心ちゃんだから、見逃してしまったのか。
いや、ちがう。いつものわたしなら、こんなこと絶対に見逃さなかった。
香澄さんの病気の話を聞いてから、ショックで身が入ってなかったわたしが分析を怠ったせいだ。
きっと、これはわたしがしっかりしてれば防げたトラブル。
夏美ちゃんに怪我をさせて、心ちゃんにも悲しい思いをさせて。
病気のことで心に余裕もなく、せめて子育てのことでは、少しでも安心させてあげなければならないはずなのに。
香澄さんと誠さんの足を引っ張ってしまった。
くそ、くそ、くそ、いったい、わたしはなにをやってるんだ。
無能で役に立たない。こんな自分が情けなくてたまらない。
その日の夕方。
誠さんが仕事を早く切りあげて、いつもより早く保育園に、お迎えに来た。
心ちゃんが怪我をさせてしまった、夏美ちゃんのお母さんに直接会って謝るためだ。
誠さんが保育園の玄関で待っていると、夏美ちゃんのお母さんが少しいつもの時間より早く保育園にお迎えに来た。
「本日は、心が夏美ちゃんを怪我させてしまって申し訳ありませんでした」
誠さんが頭を下げるそのとなりで、「夏美ちゃんを守ることができず、申し訳ありません」と、わたしも深く頭を下げて謝罪をした。
「最初に保育園から電話来たときはびっくりしたけど、大丈夫です。心ちゃんがいつも夏美と仲良く遊んでもらってるのは知っていますし。これからも、よろしくお願いしますね」
夏美ちゃんのお母さんは目を細めてそう言ってくれた。
「本当にごめんなさい。ありがとうございます。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」と、誠さんは改めてまた頭を下げる。
夏美ちゃんとお母さんが帰って行くのを見送ってから、となりで誠さんがわたしにこう言った。
「朝陽先生も、いつもありがとうございます。心は朝陽先生が大好きで、家でもよく今日は先生となにやって遊んで楽しかったとか、たくさん話してくれるんですよ。心ってけっこう大人しいでしょ。だから、ちゃんと先生たちの目はうちの子まで行き届いてるかなって気になったりするんですけど、心が朝陽先生の話をしてくれるから、いつも安心できるんです。そんな心が今回、初めて友達に大怪我させちゃってびっくりしました」
その言葉に、わたしの胸がずきずきと痛む。誠さんは話をつづける。
「僕、まだ諦めてませんから。香澄のこと!香澄は必ず助けます!県内のセカンドオピニオンも行ってるし。東京の大きな病院で最新の医療が受けれないか探してるんです。調べたら、がんのステージ4からだって生還した人は何人もいる。だから、絶対に最後まで諦めない!僕たちは三人で家族だから!」
そう言った誠さんの目の奥には、めらめらと熱く燃える光がある。
「はい。わたしも信じています」
わたしも誠さんをまっすぐ見てうなずいて返すと、誠さんが「ありがとうございます」と言いにこっと微笑んだ。
しかし、日に日に保育園に心ちゃんを迎えに来るときの、香澄さんの姿が変わっていき、わたしはそれを見ていることしかできなくて、胸が苦しくなった。
あ、今日は少し香澄さんの顔色が悪い。
そう思ってわたしが心配そうに見てしまったので、それに気づいた香澄さんが、実は不安で毎日夜も眠れなくて、不眠になっていると教えてくれた。
それから数日すると、抗がん剤の副作用の影響で、全部、髪が抜け落ちた香澄さんはニットを被って、心ちゃんのお迎えに来た。
さらに数日すると、あまり食べれていないのか、もともと華奢だったけど、今は病的に痩せていると見ればわかるような香澄さんが、お迎えに来た。
香澄さんの姿が変わっていくたびにわたしは、結局なにもできない、なんて無力なんだ、見ていることしかできないじゃないか。
そんなことばかりを考えて、残酷な現実に打ちひしがれていた。
日曜日の夕方。
今日は仕事がお休みなので、わたしはある人に会えないかなと、近所の桜舞公園に足を運んだ。
その人は、だいたい日曜日のこれくらいの時間になると、いつもこの公園にいるので、わたしはあたりを探す。
見るよりも、耳を澄ませた。すると遊んでいる子どもの声や街の喧騒の中に、アコースティックギターの旋律が聞こえてきた。
その音を頼りに芝生の場所まで行くと、そこで座って、その人はギターを弾いている。
黒髪の無造作なぼさぼさ頭、オーバーサイズの白Tシャツ、黒スキニーパンツに黒いスニーカー。
ダークブラウンの使い古したミニアコースティックギターを、大切な人をそっと抱きしめるように弾いているその人は、わたしのとなりのクラス担任をしている犬塚悠さんだ。
「どうも、悠さん」とわたしがさっそく声をかけると、「お、朝陽ちゃんじゃん」
わたしに気づいた悠さんはそう言って、無邪気な少年のように微笑む。
悠さんはとても自由な性格で、真面目すぎるわたしにはつかみどころがない人だけど、保育の腕はたしかだし、どこか子どもっぽいその一面とは裏腹に、たまに確信を突くようなことを言う不思議な人だ。
わたしは高校生のとき、自信のなさが原因で自暴自棄になり、保育士になりたいという幼い頃からの夢を捨ててしまいそうになっていいた。
そのとき、たくさん相談に乗ってくれて、導いてくれた悠さんは恩人なのだ。
相変わらず今も、わたしは悩みがあると、この桜舞公園に来ては悠さんに相談をしている。
「そろそろ、朝陽ちゃんが来るかなって思ってた」と、西の空に沈む夕焼けを見つめて悠さんが呟く。
なんだ。やっぱりお見通しか。
香澄さんの状況は、職員会議で共有をしているので、悠さんも知っている。
わたしがそのことで、悩んで心を痛めているのを、悠さんは見透かしているのだろう。
実は悠さんも昔、最愛の奥さんを病気で亡くしている。
いったいどんな気持ちで、香澄さんの話を会議で聞いていたのだろう。
悠さんのほうが、きっとつらい思いをしているはず。
わたしには想像もつかないほどに。