呪われ魔法の一番素敵な使い方 ~闇かぶりの令嬢、オネエ殿下の偽装婚約者になりまして~
「公爵令嬢イルゼ・ヴィルフリム、お前との婚約をこの場にて破棄する!」

 王室主催の晩餐会で、第一王子パトリックの声がこだました。
 宣言とともに貴族たちの視線が、呼ばれた彼女へと集中する。

 パトリックは壇上からイルゼに近づくと、彼女の顔にかかったヴェールを勢いよく剥ぎ取った。
 華やかな夜会に似つかわしくない、顔を隠す薄布。その下の素肌にあったのは、真っ青なまだら模様の(あざ)だ。

 首筋から左頬にまでかかるその痣があらわになると、周囲からざわめきが巻き起こった。

「はははっ、よくもこんな醜い顔で僕の前に立てたものだな!」

 王子は悪し様に罵るが、イルゼは動じない。
 何かされるだろうとは思っていた。
 彼女の身体に正体不明の痣があらわれた半年前、イルゼは破談も覚悟でそのことを伝えようとしたが、何故か王子は面会を拒否し続けた。
 それなのに一転、今日の夜会は必ず出席せよと、彼の方から命じてきたのだ。

 嫌な予感がしたが、まさかそこまでと思いつつ、イルゼは会場へと足を踏み入れる。

 しかし、最悪の予想は当たり、パトリックは公衆の面前で彼女に婚約破棄を突き付けたのだった。

「お前は王子妃の座に居座るため、自らが(けが)れた事実を僕に隠し続けた。だが、そこまで痣が広がれば、もはや隠匿のしようもあるまい。まったく浅はかな女だ!」

 彼の言葉を聞き、そういうことだったのか、とイルゼは呆れた。
 王子が会おうとしなかったのは、こちらが(・・・・)痣のことを隠していたという責めを負わせるためだ。
 下らないやり口。けれど、この場では反証のしようがない。

「お前のように卑怯な女は妃にふさわしくない。よって、このレナータを新たな王子妃とすることを、ここに宣言する!」

 王子が高らかに言い放つと、見計らったように妹であるレナータが彼のもとへ駆け寄った。

 レナータはイルゼの一つ下、姉と同じ金髪碧眼だが、それよりもあどけなさが残る少女だ。
 彼女は王子に寄り添うと、イルゼだけに見える角度で勝ち誇った笑みを浮かべる。
 その軽薄な微笑は、レナータが内通していたことの証しでもある。

 イルゼの生家に味方は一人もいない。
 両親も生真面目なイルゼとは性格が合わず、無邪気で奔放なレナータばかりを溺愛していた。
 今回の騒動も、すでに親たちにまで話が及んでいる。
 この痣を晒したくないとイルゼが拒んだにもかかわらず、父も母もそれをはねつけて夜会への出席を強要した。

 そして、一連の断罪劇を計画したのは、王子とレナータの二人である。
 レナータはイルゼの痣が生じた半年前から、王子に取り入っていた。
 イルゼからの面会を拒ませたのも、同じく彼女の発案だ。

 そこには深い意図などない。妹の目論見は、自分を差し置いて姉が妃になるのはずるいという、浅薄な嫉妬心からのものだった。

「お姉さま、どうか気を落とさないで。その醜い顔でも、魔法が使えなくても、お姉さまのことを見て下さる方はきっといるはずですわ!」

 レナータはこれ見よがしに姉へと当てつける。
 妹が言った通り、原因も痣との関連も不明だが、イルゼはここ半年で魔法が使えなくなっていた。

 幸い貴族の女子にとって、魔法の素養は必須ではない。
 だが、隙を見せればつけ込まれる貴族社会では、それは明らかな弱みだった。
 レナータは無慈悲な追い打ちとして、その悪辣な言葉を姉に投げかけたのだった。

(……馬鹿馬鹿しい)

 イルゼは内心でため息をついた。
 本当に馬鹿らしくて、いっそのことすべてを投げ出してしまいたかった。

 幼い頃からつまらない女だと言われてきた。
 ほとんど笑うことのない、人形のような娘だと。
 でも、それは将来王子の妻になるため。家のため、国のためを思い、懸命にやってきたからだ。

 他人との交流を怠ったわけじゃない。政略結婚だったけど、だからこそ王子とも打ち解けられるよう、彼女なりに努力を続けてきたつもりだった。

 なのに、そうやって心を砕いてきたことが、まったくの無駄だったとは。

 イルゼは思う。
 このまましおらしく縮こまっていれば、王子も妹も満足するだろうかと。
 どうせ食い下がっても、最後は権力に抑え付けられてしまうだろう。
 ならば不本意でも頭を垂れておくのが、この場で一番賢いやり方のように思われた。

(でも……ああ……ダメだ)

 それでもイルゼはかぶりを振って、その考えを打ち消した。

 王子たちの得意気な顔を目にした時、どうしても従うことができなかった。
 それは彼女にとって譲れないもの、いわば最後の一線だった。
 ヴェールを剥ぎ取られ、嘘の責めを負わされたまま好きなようにされる──そんな理不尽を受け入れられるほど、イルゼの心は達観しておらず、また冷めてもいなかった。

「……下らない」

 思いが言葉となって、ぽつりと漏れる。

「何だと?」と、王子が怪訝に聞き返した。

「……下らないと言ったのです。矮小な心を満たすために、嘘と小細工で身を固めて……。あなたたちはそれで王族のつもりなのですか」

「何ぃ……?」

 王子の顔が醜く歪む。
 イルゼはそれでも構わず言葉を続けた。

「私のことがお嫌いなら、そう仰ればよいでしょう。婚約解消が望みなら、ただそれを申し出ればいいだけのこと。なのに、あなたもレナータも、人を貶めることばかりに労を費やして……! この幼稚な振舞いが、下らない以外の何だというのですか!」

 気付けばイルゼは叫んでいた。
 思いを抑えられず、それが叫びとなって外に現れていた。
 言ってしまった。ここからどうなるかもわからない。
 王子の怒りを買って事態が悪化する恐れはかなり高い。
 だとしても、言わずにはいられなかった。

 そして、未来への恐れはあれど、心のままに声をあげたことに、不思議と後悔の気持ちは湧いてこなかった。

「おっ、お前……醜女の分際で、よくもそんな口が利けたものだな!」

 思わぬ反論を受けたことで、パトリックは頬を紅潮させた。
 強く拳を握り締め、怒りの表情でイルゼに近づいて来る。

 しかし、その時まったく別の方向から、場違いなほどに抑揚のある声が響き渡った。

「──ちょっとちょっとぉ、何よこれ!? この国の夜会じゃ、こんな不愉快な寸劇を見させられるわけ!?」

 その素っ頓狂な声に、場の全員が同じ方向へと振り向いた。





 その声は、低い男のものだった。

 女性の口調ではあるけれど、澄み渡るようなバリトンボイス。
 姿を確認するとやはり男性で、彼のすらりとした体躯は、人より首一つ抜きん出ていた。

 装いからしてどうやら異国人らしく、束ねた黒髪は背中までかかっている。
 容姿は美しく中性的。アイスブルーの瞳は色気すら醸し出していて、けれど骨格は男のもので。

 その男性はしな(・・)を作り、どこかあきれた様子で会話に入ってきた。

「……あらやだ。まさかこれってお芝居じゃなくて、本物の婚約破棄だったの?」

「な、何だお前は。今、取り込み中なんだ。無礼だろうが!」

 上からまじまじと眺める男性に、パトリック王子は気圧されながらも声を上げた。
 それに対して黒髪の男性は、「ぷはっ」と豪快な失笑で返す。

「いや、無礼ってあんた。馬っ鹿じゃないの? どう見てもこの場で無礼なのは、一人の女の子をいじめてるあんたたちの方じゃない」

「なっ……」

 その返答に、王子だけでなく隣のレナータも、羞恥に頬を赤くする。

「だいたいやり方がなってないわよ。傍から見てたけどあんたたちの言動、まるっきり小悪党のそれだもの。これだから世間を知らないボンボンってのは、ダメなのよねぇ」

「お、お前っ……!」

 王子に対してもはばかることない物言いに、パトリックは後ずさった。

「ていうか、婚約破棄って、ねぇ。お話の世界じゃあるまいし、こういう場でガチで婚約破棄をやる人って初めて見たわ。まさかとは思うけど、これがこの国の慣例ってわけじゃないわよね?」

 ケラケラと笑って周りに同意を求めるが、貴族たちはざわつくばかり。
 そもそも、そんな不遜な問いに答えられる者などいるはずもない。

「お、お前! 本当に無礼だぞ! どこの誰だか知らないが、この僕に対してそんな口の利き方を! ぼ、僕はこの国の第一王子、パトリック・カルシュタインだぞ! お前のような気持ち悪い男など、僕の一声で──」

「クロヴィスよ」

「──え?」

「あたしの名前は、クロヴィス・ダルヌア・アルトレイス。あなたたちの西隣にある国、ライズベルクの十三代皇帝、ヴィクトールが八番目の孫息子。どーぞお見知り置きを、王子様」

 被せるような彼の名乗りを聞き、聴衆たちが大きくどよめいた。

「クロヴィスって……もしかして筆頭聖魔術師の、あのクロヴィス・アルトレイスか!?」
「……大陸一の魔力を持つという……!」
「ライズベルクの王族だったのか……!」
「いや、だが、老帝ヴィクトールにあんな孫がいるなんて初耳だぞ!? だいたいあの髪色で王族というのは……」

 その中には疑う声もあれど、彼の正装に付けられた竜の金刺繍は、確かに隣国の王族のもの。

 しかも、ライズベルクはこの国の十倍の領土を持つ大国。
 彼の堂々とした態度も相まって、表立って異を唱えようとする者は見当たらない。

「ま、あたしのことなんてどうでもいいの。それより問題はこの茶番劇よ。ねぇ、お集まりの皆様方。一人の少女が晒し者になってるっていうのに、どうして誰も助けようとしないの? いささか人情味に欠けるんじゃなくて?」

 ライズベルクの王族──クロヴィスが強めの声で言うと、その場の誰もが言葉を詰まらせた。

 そして彼は、イルゼのヴェールを拾い上げ、浄化の魔力をまとわせながら軽やかになでつける。
 純白の光がまわりを包み、地に落ちる前より綺麗になったヴェールは、再びイルゼの頭上へ。

「あ……」

「もう大丈夫よ、お嬢さん。ええと……イルゼちゃんで、良かったかしら?」

 優しい笑みに、不覚にも胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
 イルゼはそれをこらえて、深く彼に一礼した。

「……ありがとうございます。私は当国ヴィルフリム公爵家が長女、イルゼ・ヴィルフリムと申します」

 クロヴィスは、「ん」と短くうなずき、彼女の肩に手を置いた。

「ところでイルゼちゃん、一つ聞きたいことがあるんだけど──」
 
 続いて彼が何か言いかけたところ、パトリックがさらなる怒りの声を上げた。

「ら、ライズベルクの王族だから何だっていうんだ! これは僕の──我が国の問題だぞ! だいたい、こんな醜い女を妃にできるはずもないだろうが! 部外者は引っ込んでいてもらおうか!」

「……あんたねぇ……」

 パトリックの叫びに、クロヴィスは辟易した表情になる。
 彼はため息を吐いた後、再度イルゼへと向き直り、不可思議な質問を投げかけてきた。

「ねぇ、イルゼちゃん。あなたにその痣ができたのって、もしかして去年の冬頃のことじゃない? で、それと同時にあなたはすべての魔法が使えなくなってしまった。炎や雷を行使しようとしても、出した魔法はどこかに掻き消えてしまう。──どうかしら、当たらずとも遠からずってところでしょ?」

「……!」

 どうして知っているのだろう。クロヴィスはこちらが何も言わないうちに、その症状を違えることなく言い当てた。
 痣の発症時期だけじゃない。魔法を行使しようとした時の状況まで、まるで見てきたかのようにすべてが合致して。

 思わずこくこくと首を振ると、「やっぱりね」と微笑が返される。

 彼はそれからパトリックに振り向くと、不敵な笑みとともにこう言い放った。

「『醜い女を妃にできるはずもない』──ですって? あぁそう。それじゃ、あたしがこの子をもらっちゃっても、文句はないってことよね」





 クロヴィスは、見下ろすようにパトリックを睨めつけた。
 彼はイルゼを背にすると、彼女の痣を隠すように立ち塞がる。

「ねぇ、どうなのよ? この可愛い子ちゃんを、あたしがいただいちゃってもいいのかって聞いてるんだけど?」

 そのまま問いを繰り返す。
 軽い口調ではあるが、そこには冷ややかな圧がこもっていた。

 一方、パトリック王子は彼の威容に圧されながら、何とか言葉を絞り出した。

「なっ……何が可愛いだ! こんな醜い痣の女を、可愛いなんて思う奴がいるものか! お、お前だってそんなこと、思ってないくせに! それとも目が腐ってるのか!? このっ……オカマ男が!」

「……」

 クロヴィスは無言のまま答えない。
 だが、王子の一言でさらに空気が張り詰めたのは明らかだった。
 隣国の王族に対して、あからさまな罵倒。
 いくら先に口を出したのが相手といっても、双方の国力には大きな差がある。
 クロヴィスの機嫌を損ねるだけで大国すべてを敵に回しかねないのに、その言動はあまりにも軽率で。

「……それもいいかもしれないわね」

 しかし、クロヴィスは皮肉めいた笑みを見せると、王子の言葉を肯定した。

「な、何だと……?」

「この子のことを可愛いと思えないなら、目が腐ってた方がいいって言ったのよ。だって健気じゃないの。たった一人で味方もいないのに、毅然と理不尽に立ち向かって……。この子に比べたら、どうにもならない人の容貌をあげつらう、あんたたちの性根の方がよっぽど腐ってると思うけど?」

「うぐっ……!」

「人の価値っていうのはね、こんな痣一つで損なわれるものじゃないのよ。ま、確かに、外見の違いは誰でも気になるところでしょうけど。でも、だからこそ──あたしはこの子を治してあげたいと思うのよ。たとえ彼女が、今日ここで会ったばかりの他人だとしてもね」

「えっ……?」

 不意に予想外のことを言われて、イルゼは声を漏らした。
 「治す」とは、一体どういうことだろうか。
 この痣は、どの医者に診せても取り除くことができなかった。
 それどころか、原因も詳細もわからない。まったく未知の症状だというのに。

「イルゼちゃん、ちょっと動かないでいてくれるかしら?」

 クロヴィスは彼女に向き合うと、再びその手に魔力をまとわせた。
 ヴェールを拾った時と同じ、聖なる浄化の魔法力。
 力の振動が波となって響いてくる。それとともに、あたたかな光が灯ると、彼はその手を今度はイルゼの頬に近づけてきた。

「あ、あの、クロヴィス殿下?」

「痛くないから、大丈夫よー……」

 幼子をあやすような、軽いながらも穏やかな口調。
 と、次の瞬間、トプンと水面に浸かるような音とともに、その手が見えなくなる。

「えっ……!?」

(手が……なくなった……?)

 否、なくなったのではない。
 よく見ると、目の前の空間が歪んで、穴ができていた。

 ぽっかりと開いた空間の穴。その中に彼の右手が吸い込まれて、あたかも手首から先が消失したように見える。

「先に言っておくわね。あなたは『亜空間属性』の呪いを受けてしまっているの。その呪いは、この世のあらゆるものを別次元に吸い込んでしまうというもの。その魔法属性が備わったせいで、あなたは無意識のうちに周りの(けが)れを吸い取って、それで痣ができてしまったのよ」

「あ、亜空間属性……!?」

「この呪いはね、自分の魔力すらも吸い上げてしまうから、普通の魔法を行使しようとしても、出した途端に消えてしまうのよ。あなたが魔法を使えなくなったのはそれのせい。で、魔力だけなら体に還元されるんだけど、『穢れ』の場合はそうもいかなくてね。吸い上げた穢れは、あなたの亜空間に蓄積されたまま、その表層だけが痣として表れてしまったのよ」

「穢れが、蓄積……。わ、私の……亜空間、に……?」

 驚きと混乱で、すぐに言葉が出てこなかった。
 そもそも聞いたこともないその概念は、とてもすんなりと信じられるものではない。
 亜空間。別次元。呪いの魔法属性。
 何故クロヴィスがそんなことを知っているのか。どうしてイルゼにそれが備わっているのか。詳しいことは何もわからない。

 パトリック王子やレナータは、そんな疑問どころか、消えた彼の手先に驚いて、声すら出せないでいる。

「……死んだあたしの母がね、あなたと同じ痣持ちだったのよ。だから、症状の詳細はある程度わかってるし、痣に対する処置の仕方も……まあ、知ってるの」

 クロヴィスは一瞬だけ哀しげな顔を見せると、「うん、あたしの魔力でもだいたい同調可能みたいね」とつぶやいた。

 それから彼は、皆へと示すように、ゆっくりと右手を穴から引き抜いていく。
 ズズズズ……と。
 抜き出した手のひらには、青黒く淀んだ(もや)のようなものが浮かんでいた。

 クロヴィスは抽出したその靄が飛散しないよう、自らの聖魔力を球状に変化させると、そこにすべてを閉じ込める。
 水晶玉大の大きさに封じられた黒い淀み。それが、手の上で波打って揺れていた。

「これがあなたを苦しめていた毒素のかたまり。青い痣の正体ってところね。もうなくなったわよ」

 最後の言葉にハッとして、イルゼはヴェールをまくり上げ、窓に映った自分の顔を見る。
 するとそこには、痣のない彼女の真っ白な肌が存在していた。

「……!」

 それは半年前には当たり前にあって、もう手に入らないと思っていたもの。
 少しの穢れもない、自分自身の健康な身体。
 それが今、ようやく戻ってきたのだ。

 懐かしくて嬉しい光景に、思わず涙がこぼれそうになった。

 クロヴィスはそんなイルゼを優しいまなざしで見下ろすと、彼女のヴェールをそっと頭から外す。
 そして、たしなめるような声色で、平然としてパトリックに尋ねた。

「さて、王子様。『妃にふさわしくない醜女』っていうのは、一体どこにいるのかしらね?」





 第一王子パトリックは、クロヴィスの問いにたじろいだ。
 実際のところ、その問いは単なる皮肉に過ぎない。
 まともに答える必要はない。イルゼの痣が消えたからといって、だからどうした、レナータの方が妃にふさわしいと突っぱねればいいだけなのだから。

 しかし、彼は不覚にも見惚れてしまっていた。
 ヴェールを脱ぎ、痣がなくなったことに喜びの涙を浮かべるイルゼを、一瞬でも美しいと思ってしまったのだ。

 そして、出会って間もないのに、彼女にそんな表情をさせたクロヴィスに、強い敗北感を抱く。

「……っ」

「で、殿下……?」

 レナータは王子の思いを読み切れず、不安げに彼を見上げる。

 一方、クロヴィスは無言で手の上の穢れを浄化させていく。
 ジュウジュウと毒素が蒸発する音がする。その聖魔力が穢れを完全に消滅させた後、彼は両手をパッと開き、おどけた口調になって言った。

「なんてね」

「……えっ?」

「ま、これ以上よその国のことに口を出すのは止しましょう。あたしはこの子の汚名を晴らしたかっただけ。あとは婚約破棄でも何でも、そっちで好きにやってちょうだい」

「なっ……」

 レナータが戸惑い、パトリックはうろたえる。
 クロヴィスはひらひらと手を振りながら、王子たちから距離を取った。

「あたしはね、こういう馬鹿みたいな場面に一言言ってやりたかっただけなのよ。何だかんだと理由をつけて、公衆の面前で誰かを貶める、こういう下衆な場面にね。でも、踏み込み過ぎて外交問題になっても困るから、ここらでやめにしておくわ」

 そう言って、軽く笑ってみせる。
 もう十分に外交問題だと思われるのだが、大国の王族にそれを指摘できる者はおらず、彼はそのまま身を引きかける。

「ごめんなさいね、イルゼちゃん。『もらっちゃう』なんて失礼なこと言ったりして。あなたがあんまり可愛かったから、つい、ね。でも、本当に連れて行ったりしないから、安心して──」

「あっ、あのっ──待って下さいっ!」

 そこでクロヴィスを呼び止めたのは、イルゼだった。
 頼むならこの瞬間しかない。そう思い、はしたなくも叫んでしまっていた。
 すでに背中を向けていたクロヴィスは、「ん?」と立ち止まって振り向く。

「あの、クロヴィス殿下っ、私の痣を消して下さって……お味方して下さって……ありがとうございました。でも、失礼を承知で……もう一つだけ、お願いを聞いていただけないでしょうか」

 クロヴィスは意外そうな表情になり、「何かしら?」と聞き返す。

「わ、私をっ……あなたの国に連れて行って欲しいんです! 一介の下働きで構いません、汚れ仕事でも何でもやりますから! この国を抜け出して……外の世界で生きてみたいんです!」

「──なっ」
「お姉さまっ!?」
「……あらまぁ」

 誰も予想しなかった申し出に、場の三人は声を漏らし、聴衆たちがどよめいた。

 ざわざわと怪訝な声が波及して、正気を疑うような視線がイルゼへと集中する。

「それ……本気で言ってるのかしら?」

「ええ、本気です」

 クロヴィスが問うて、イルゼはうなずく。
 今この場で決めたことだけれど、誰にどう見られようと、彼女の決意は揺るぎはしなかった。

 何故なら、それが一番正しいことだと思えたからだ。
 今まで十八年間生きてきて、こんなふうに自分を助けてくれた人などいなかった。

 父も母も、イルゼを王族に嫁がせるための道具としてしか見ていない。
 妹は要領の悪い姉だと嘲り、王子はつまらない女だと打ち捨てる。
 家の外でも、皆が彼女を個人としてではなく、肩書にどれほどの価値があるか、公爵令嬢といううわべだけでしか見ることはない。

 挙げ句の果てが、この婚約破棄騒動だ。

 世間知らずの小娘の、世迷い事であることは十分承知していた。
 それでもイルゼは、ハリボテの上流社会で暮らすよりも、自分を自分として見てくれる人がいる場所で──クロヴィスのように自分を救ってくれた人のために──生きてみたいと思ったのだった。

「──パトリック殿下」

「な、何だ」

 イルゼは、パトリックに向き直る。
 彼女は視線をそらさずに、真正面から王子を見据えた。

「あなたの望み通り、婚約破棄をお受けいたします。今まで私のような女に付き合って下さって、ありがとうございました。ただ、最後に諫言を申し上げるなら……どうか嘘で御身を固めるのは、これを最後になさいますよう。虚言を弄する王族に、ついていきたいと思う民はいないでしょうから」

 パトリックは気圧されたように、「うっ」と声を漏らした。

「レナータ」

「お、お姉さま、う、嘘でしょう? だってそんなこと、お父様たちには一言も──」

「いいえ、本気よ。お父様たちの意向だって関係ない。私は自分の意思であの家を出ていくの。たとえこの申し出が拒否されたとしても、それは変わらないから」

「……そんな」

「それよりもレナータ、あなたが殿下の妻になるのなら、それは誰かから蹴落とされる立場になることを忘れないようにね。これからは、皆があなたの一挙手一投足に注目する。うかつな言動は、付け入る隙となって返ってくる。駄々をこねれば何でも手に入ったのは……(わたし)が奪われる側に立っていた、今日までよ」

 その言葉に思い当たるところがあったらしく、レナータはさあっと顔を青くして立ちすくんだ。

「あぁ、そうだわ。それともう一つ」

 イルゼは二人に背を向けて、それからすぐに逆方向へ身体を回転させる。
 右足を軸に、くるりとターンするように。
 その勢いとともに、振り向きざま、パトリックの頬を強くはたいた。

 ──パァン!

「うぶっ!」

「ひぇっ……!」

「これは人前で肌を晒された分へのお返しです。それではどうぞお元気で。もう二度と、会うこともないでしょうけど」

 別れの挨拶を終え、背筋を伸ばす。
 そして、彼女がようやくクロヴィスに振り返ると、黒髪の王子は「あはっ」と声をあげて手を叩いた。

「──あっはははは! いいわねぇ、あなた! やるじゃないの! ──ねぇ皆さん、このまま彼女が出奔するのを放っておいていいの? このままだとおバカが国のトップになって、この子みたいなまともな人材は、軒並み流出しちゃうわよ?」

 クロヴィスは嫌味を隠そうともせずに言うと、周りの反応を待たずにイルゼに向き合う。

「……ま、こうまでして覚悟を見せられたら、あたしも応えないわけにはいかないわね。それに亜空間の使い方についても、きちんと教えてあげなきゃいけないし。いいでしょう、我々ライズベルクはあなたを歓迎します。私の旗下に加わることを許可しましょう」

「あっ──ありがとうございます!」

 屈託のない笑顔。許しの言葉を耳にして、イルゼはほっと胸をなでおろす。

 これで私は貴族の地位すら手放して、ただの女に成り下がる。
 でも、そんなものなくたって構わない。……ここから始まるんだ、私の新しい人生は。
 そう自分に言い聞かせ、深く彼へとお辞儀をした。

「あぁ、でも、イルゼちゃん。あなたがあたしのところへ来るにあたって……そうね、こっちもお願いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」

「はい。どうぞ何なりと仰ってください」

 何かを思いついたように、人差し指を立てるクロヴィス。
 イルゼは何だろうかと素直な声音で聞き返す。
 すると彼は、まるで何でもないことのように、さらりと天地がひっくり返ることを申し出た。

「あなた、あたしの奥さんになる気はなぁい? 婚約破棄も成立したところだし、ちょうど今フリーなわけでしょ? 結婚するなら、これ以上ないタイミングだと思うのよね」

「……えっ?」

 一瞬にして、しんとその場が静まり返る。
 その言葉で、理解不能の表情とともに、そこにいるすべての人間が絶句したのだった。
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