野いちご源氏物語 第四巻 夕顔(ゆうがお)
乳母(めのと)の家にお入りになると、惟光(これみつ)の他にも乳母の家族が集まっていた。
源氏(げんじ)(きみ)がお越しくださったことを恐れ多いと思いながらもよろこんでいたわ。
乳母も寝床(ねどこ)から起き上がった。
もう死が近づいていることを覚悟して出家(しゅっけ)している。

「出家したらあなた様にお会いできなくなると思うと、(あま)になる決心ができずにおりました。それでも出家したご利益(りやく)でしょうか、命が少し伸びまして、こうしてまたお会いできたのですね。もう思い残すことはございませんよ。仏様(ほとけさま)のお迎えをお待ちいたします」
と申し上げて、弱々しく泣く。

源氏の君も涙ぐんで、
「そんな弱気なことを申すな。病気と聞いて心配していたが、尼になってしまってはますます悲しい。本当に思い残すことはないのか。私の将来を気にかけてはくれないのか。もっと長生きして、私が出世(しゅっせ)していくところを見ておくれ。御仏(みほとけ)のお迎えはその後でよい」
とおっしゃる。

乳母というものは皆、赤ちゃんのころからお世話してきた主人を、目に入れても痛くないほどかわいがるものよ。
ましてこの乳母の場合は、お育てしたのが源氏の君だもの。
思い入れが人一倍強くて、源氏の君のお姿を見れば見るほど涙がこぼれる。
乳母の家族は、尼に似合わない未練(みれん)がましい涙だと見苦しく思ったわ。

でも源氏の君はそんなことを気になさらない。
「幼いうちに母も祖母も立てつづけに亡くして、心から甘えられるのはそなただけだった。大人になってからは離れていることも多くなったけれど、長く会わないとやはり心細くなるのだよ。私を置いていかないでおくれ」
(そで)で涙をぬぐっていらっしゃる。
そのお袖にしみこませた上等な香りが部屋中に広がった。
こんなにご立派な方に乳母として愛されていたのかと、家族たちも涙をこらえきれなくなってしまったわ。

源氏の君は、乳母の病気がよくなるようにお祈りをさせることなどをお約束なさった。
乗り物にお乗りになったけれど、まだご出発はなさらず、先ほどの(おうぎ)をご覧になる。
よい香りがしみこませてあって、何か書かれていた。
夕顔(ゆうがお)に光を当ててくださったあなた様は、もしかして(ひか)(きみ)では」

こんな場所に住む者が書いたとは思えない上品な書き方だったの。
源氏の君は興味をおもちになって、惟光にお尋ねになる。
「この家のとなりは、どのような者が住んでいるのだ」
惟光は「また悪い(くせ)をお出しになる」と思って、わざと冷たくお答えする。
「この五、六日こちらで母の看病をしておりますが、病人のことで()一杯(いっぱい)で、(となり)近所(きんじょ)のことは何も存じません」

源氏の君は、
「女好きの悪い癖が出たと思っただろう。ただこの扇に書かれたことが気になっただけだ。この家に仕えている者のなかに、近所のことに詳しい者もいるだろう。聞いてまいれ」
とお命じになる。
惟光は乳母の子だから、幼いころから源氏の君とともに育ったの。
もちろん主人と家来の関係なのだけれど、深い信頼関係があって、源氏の君にとって特別な家来よ。

そんな惟光は、やれやれと思いながらもご命令に背くことはしない。
「家の番人(ばんにん)に話を聞いてまいります」
と言って乗り物から離れた。
すぐに戻ってきてご報告申し上げる。
「番人が申しますには、金だけはそこそこある下級貴族の家だそうです。本人は地方に行っていて、若い妻が内裏(だいり)で働く姉妹などをしょっちゅう呼んでいるようだと申しておりました」

源氏の君は、
「あぁ、内裏の(おとこ)()れした女房(にょうぼう)か。ちょっとした遊びのつもりで、あんなことを書いた扇をよこしたのだろう。たいした身分の女ではないな」
と納得なさったわ。
それでも放っておくことはできないのが、源氏の君なのよね。
手持ちの紙に、ご自分とは分からないように筆跡(ひっせき)を変えてお返事をお書きになる。
「近くでご覧になりますか。夕暮れ時、遠くにいる人の顔は見えにくいものですから」

家来が届けに行くと、夕顔の家は大騒ぎになった。
扇をお渡ししてからずいぶん時間が経っていたから、無視されたと思っていたのね。
いただいたお返事に、何とお返ししたらよいかわからず(あわ)てている。
まさか本当に光る君だとは思っていなかったのかも。
乗り物から少しだけ出されたお顔がこの世のものとは思えないほどお美しかったから、(いち)(ばち)かで声をかけてしまったのね。
家来はしばらく待っていたけれど、返事はもらえそうにないとあきらめて戻っていってしまったわ。

やっと乳母の家からご出発なさる。
こっそりとお向かいになる先は、六条(ろくじょう)という場所よ。
そこに、(みかど)弟君(おとうとぎみ)のお(きさき)様だった方がお住まいになっているの。
「お妃様だった」というのはね、帝の弟君はすでに亡くなってしまっているから。
帝はその弟君を東宮(とうぐう)になさっていた。
つまり次の帝になられるはずだったのだけれど、弟君は若くして亡くなってしまわれたの。
残されたお妃様は、六条にあるお屋敷で幼い姫君と暮らしていらっしゃる。

お妃様はこのころ二十代半ばでいらっしゃった。
当時としてはお若いとも言いにくいけれど、美しくて気品(きひん)があって教養も豊か。
夫君(おっとぎみ)がもっと長生きして予定どおり帝になっていらっしゃれば、おそらく帝の一番のお妃様になられていたはず。
夫君を亡くされて悲しみに(しず)んでいらっしゃったけれど、若い貴族たちはそれを放ってはおかない。
源氏の君もそのお一人。
そしてついに、この年上の美しい未亡人(みぼうじん)を恋人にしてしまわれたの。

亡き東宮に愛され、お子様までお生みになった方として、この未亡人は「御息所(みやすんどころ)」と呼ばれて世間から尊敬(そんけい)されているわ。
六条にお住まいだから、「六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)」とお呼びしましょう。
六条御息所のお屋敷は、優雅(ゆうが)な雰囲気に包まれている。
御息所ご本人もとても優雅な方だけれど、まだ源氏の君に完全にお心を許してはいらっしゃらない。
さっきの夕顔の家とは、建物も住んでいる人の性質(せいしつ)も正反対ね。

夜遅く御息所をお訪ねになった源氏の君は、翌朝、明け方過ぎにお帰りになる。
朝の光のなかで拝見(はいけん)する源氏の君のお美しさは格別(かくべつ)よ。
帰り道でも夕顔の家の前をお通りになった。
「どんな人が住んでいるのだろう」
と、やはり気になっておられたわ。
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