秘密の担当君。一夜限りの恋人契約――あなたに貢がせてください

1夜 プラチナムローズ

 夜が深まるにつれ、小さな都市に佇むホストクラブ「プラチナムローズ」の扉が静かに開かれる。シャンデリアの柔らかな光が店内を包み、そこには非日常的な空気が漂っていた。月麗(げつれい)は、鏡越しに自身の整った顔立ちを確認しながらスーツの襟を正す。
 
「よしっ」
 彼は軽く微笑みながらそう呟いた。その微笑みは、相手の心を自然と解きほぐし、安心感を与える不思議な力を持っていた。

 月麗は22歳という若さながら、接客においては一流の腕前を持つホストだった。彼は「恋人系」や「弟系」といった典型的なキャラクターには収まらず、その中庸とも言える独自のスタイルで客を魅了していた。普段は優しい言葉遣いと軽やかなユーモアで場を和ませる一方、時折見せる冷静な観察眼が彼の魅力だ。
 彼の接客スタイルは、「ホストとしての自分」と「人としての自分」を明確に分けるところにある。店内ではプロフェッショナルとして夢を提供し、店外では一人の人間として接する。この境界線を守り抜く姿勢が、多くの客から信頼される理由だった。
 しかし、彼自身について語ることはほとんどない。店内で何気なく交わされる会話にも、彼自身のプライベートや女性関係について触れるものは一切なかった。それは意図的なのか、それとも自然とそうなってしまうのか――誰もその理由を知らない。

 月麗の日常は華やかさとは程遠い。営業前には店内を清掃し、グラスの水滴一つにも気を配る。ドリンク提供時には優雅な所作で注ぎ、注文やおしぼりのタイミングも完璧にこなす。その一つ一つが、彼にとっては「夢を売る」ための重要な準備だった。
 彼には一つだけ譲れないモットーがある。
 
「ホストクラブとは、一時的な夢を提供する場所。それ以上でも、それ以下でもない」

 その夜も様々な客が訪れる中、一人目立つ女性が現れた。派手な服装と高価なアクセサリーで身を包んだ彼女――ミキは、初来店にも関わらず堂々とした態度で店内に入ってきた。しかし、その堂々さはどこか不快感を伴うものだった。
 
「ねえー、入り口ですっごい待たされたんだけど?なにここのホストクラブ、ちゃんとしてんの?マジでぶすばっかだし、折角来てやったのにだる……」
 受付スタッフに向かって文句を言い放つミキ。その声は店内にも響き渡り、一部の客たちがちらりと振り返るほどだった。その後、案内されたテーブルでも態度は変わらない。他のホストが接客についたものの、ミキは終始横柄だった。
 
「えー?なんか全然盛り上がんないんだけど。あんたさー、もっと面白いこと言えないわけ?」
 隣で笑顔を絶やさず対応するホストに対しても容赦なく言葉を浴びせる。
「つまんない、お前帰れ」
 その一言に、一瞬だけ場が凍りついた。隣席のお客様も気まずそうに視線を逸らす。接客していたホストも困惑した表情で席を離れると、控室で月麗に耳打ちした。
「あのお客様、多分他店から出禁になった人だと思う。前にも似たような話聞いたことあるし……正直どう対応していいかわからなくて」
 月麗はその話を聞きながら軽く頷き、ネクタイを整える。そして静かに言った。
「初回のお客様かな?俺が行くよ」

 月麗がテーブルに着くと、ミキは腕を組み、不機嫌そうな顔で彼を睨むように見つめていた。彼女の態度は明らかに敵意を含んでおり、テーブルの空気は重苦しいものだった。しかし、月麗はその空気に飲まれることなく、いつもの柔らかな笑顔で挨拶をした。
 
「こんばんは、月麗です。隣、ご一緒させていただきますね」
 その一言にミキは眉をひそめ、すぐさま反撃するように口を開いた。
 
「え?勝手に座んないで?あんたもどうせその辺のブスでつまんないホストと一緒でしょ?マジでつまんないんだけど」
 挑発的な口調で吐き捨てるように言うミキ。しかし、月麗は微塵も動じることなく「ごめんなさいねー、失礼しますよっと」声を掛け、ミキの横に座る。テーブルを少し片して、隣のテーブルからグラスを手に取り、静かにお酒を注ぎ始めた。その所作は無駄がなく、音も立てずに滑らかだった。
 
「すごいね、流石に皆傷つくわけだよ。そんなあなたにも俺は他の客と変わらずこうして美味しいお酒を笑顔で注ぐ、それが仕事だからねぇー」
 彼は優しい笑顔を浮かべながらそう言い、注ぎ終えた鏡月のグラスをミキの前にそっと置いた。氷がカランと音を立てて揺れる。その音が一瞬だけ場の緊張感を和らげたかのようだった。
 
「へぇー、やっぱ同じじゃん。適当にお世辞言って金使わせたいだけなんでしょ?」
 ミキはあくまで攻撃的な態度を崩さない。しかし月麗は、その言葉にも軽く肩をすくめるだけだった。
 
「まあ、それも仕事だからね。でもさ、お世辞言うにも相手次第なんじゃない?本当に素敵じゃないと言葉なんて出そうと思っても出てこないよ。こっちだって嘘つくのだるいし」
 その返答には一切の嫌味がなく、むしろ自然体で飾らないものだった。月麗はグラスの底をおしぼりで軽く拭きながら、相変わらず穏やかな表情で続ける。
 
「たまーに、ミキさんみたいにおこおこぷんぷんなお客さんも来るけどさ、それでも女性が隣に居ると、なんでそんな可愛くおこぷんなのか、気になるもんだよ」
 その軽い冗談混じりの言葉に、一瞬だけミキの表情が揺れた。それまで他店で受けてきた接客とは明らかに違う何か――それは月麗特有の自然体な対応だった。彼は相手を説得しようともせず、ただその場の空気を柔らかくすることだけに集中していた。
 
「ねえ、本気でそう思ってるわけ?」
 ミキが少し警戒するような目つきで尋ねると、月麗は微笑みながら即答した。
「もちろん。本気じゃなかったらこんな風に話せないよ」
 その間にも月麗は細やかな気遣いを忘れない。さりげなく差し出されたおしぼり、そのタイミングさえも完璧だった。まるで計算されたかのような自然な動作。それが彼の接客スタイルだった。

 ミキは少しずつ口数が減り始め、その横柄さも影を潜めていった。しかし最後の抵抗と言わんばかりにこう言った。
「てかなんで、名前言ってないのにミキってわかったの?きっしょ」
 その問いにも月麗は慌てることなく、少し茶目っ気を含ませながら答える。
 
「え?名札付けっぱなしだよ?」
 ミキは思わず自分の胸元を見るが、当然名札など付いているはずもない。それに気づいた瞬間、自分でも抑えきれないほど自然な笑顔がこぼれた。その笑顔には、それまで見せていた横柄さや苛立ちが完全になくなっていた。
 
「あれ?名札付いてなかったね。今の反応かわいいじゃん」
 その一言にミキは何も返せず、一瞬だけ視線を逸らした。そして再びグラスへと目を落とす。その表情にはこれまで見せていた攻撃的な態度とは違う、一抹の戸惑いと安堵が混ざっていた。

「ほんで、どったの?なんかあったのかな?」

 会話が進むにつれ、月麗はミキの態度の裏側に潜む本当の感情を読み取っていった。彼女の苛立ちや攻撃的な言動は、ただのわがままではなく、心の奥底にある孤独感や「特別扱いされたい」という純粋な願望から来るものだと感じた。
 月麗はグラスを軽く回しながら、ふと視線をミキに向けた。
 
「そっか、担当さんとのこと、大変だったんだね。でもさ、それってミキさんが悪いわけじゃないと思うよ」
 その一言にミキは少しだけ表情を緩めたが、すぐに自嘲気味に笑いながら返した。
 
「まじでうざいんだけど。金もすげー使ったのにさ。でも私が稼げないから悪いよね」
 ミキから語られた話はこうだった。彼女が以前通っていたホストクラブで指名していた担当ホストが、別の太客へ入れ込むようになり、自分が相手にされなくなったこと。その悔しさと寂しさから暴言を吐き、結果として店を出禁になってしまったということだった。
 
 月麗はその話を黙って聞きながら、時折相槌を打つ。決して担当ホストを非難することなく、ただミキの気持ちに寄り添うような態度を崩さない。
 
「でもさ、ミキさんがその人を好きだった気持ちは本物だったんでしょ?その想いってすごい素敵なことだと思うよ」
 その言葉にミキは一瞬だけ目を見開いた。彼女自身も気づいていなかった自分の本音を、月麗が代弁したかのようだった。

 時計を見ると、そろそろ月麗が席を立つ時間が近づいていた。初回のお客様の場合、ホストは一定時間で交代するルールがあるためだ。しかし、そのタイミングでミキが口を開いた。
 
「ねえ、次も君に会いたいんだけど」
 月麗は少し驚いたように目を丸くした後、柔らかな笑顔で答えた。
 
「嬉しいよ。でも本当に俺でいいの?他にも素敵なホストさんたくさんいるけど」
「他のホストなんてつまんないし。君じゃなきゃ意味ない」
 その言葉に月麗は軽く肩をすくめながら笑った。
 
「そんなことないよ。たまたま俺とミキさんの相性が良かっただけだよ。でもありがとう。次回も楽しみにしてるね」

 その後も二人は他愛もない会話を続けた。ミキは次第に以前の担当ホストへの未練や苛立ちを口にすることなく、その思い出を心の中でそっと整理し始めていた。そして最後にはこう呟いた。
 
「……まあいいや。あいつへの気持ちはもう素敵な思い出ってことでいいかもね」
 月麗はその言葉に静かに頷きながらグラスを片付けた。そして席を立とうとした瞬間、不意にミキがそっと彼の肩へ手を伸ばし、抱きしめるような仕草を見せる。気づけば、ミキは自分でも驚くほど素直な気持ちになっていた。その行動には驚きつつも、月麗はその気持ちに応える様に抱きしめる。その動作には優しさと温もりがあり、一瞬だけミキもその胸元で安心した表情になる。しかし――。
 次の瞬間、月麗はすっと表情を引き締めた。そして静かに耳元で囁くように言った。
 
「待ってるね」
 
 その一言にミキは小さく頷きながら席を立つ。その背中には以前とは違う穏やかな空気が漂っていた。
 月麗がテーブルに戻ってきてふと不思議そうな顔で点を見つめる。

「やっばい!名刺渡してねぇ!」
 その姿を見ていた内勤スタッフ。
 
「月麗さんって変ですよね」
「まあ、ああいう変わったところがあの人らしいよね」

 と、カウンターの中で話をしていると月麗が戻ってくる。

「なんかおしぼり持ったままだった、これおねがい!」
 と、投げられたおしぼりを受け取って、内勤スタッフは苦笑いしながら、「やっぱ変だ」と呟いた。
  再び「プラチナムローズ」の扉が開かれる時、また新しい夜が広がっている。そこには多くの人々が、それぞれの夢や悩みを抱えて訪れる。そのすべてに丁寧に向き合い、一時的な夢という形で癒しや希望を与えること――それこそが月麗というホストの生き方だ。
 
 「一時的な夢でも、それが誰かの救いになるなら――それが最高の商品となる。それが俺の仕事だ」
 
 そして今夜もまた、新しい物語が始まる。
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