政略結婚は純愛のように〜お互いに望むこと〜

隆之の不安

 昼間のイベントで手に入れた日本酒とガラスのお猪口を載せた盆を持って由梨がリビングへ行くと、隆之は風船を手にソファに座っていた。
 地元のゆるキャラの絵が描かれた赤い風船の根元を持ちくるくると回している。
 なぜそんなものを?と首を傾げて由梨はそれが昼間黒瀬からもらったものだったと思い出す。
 あの後は家族で屋台で買ったもので昼食を済ませたあと、伝統工芸体験コーナーやフリーマーケットを見て回った。
 賑やかなお祭りの雰囲気に大興奮だった沙羅は、今は夢の中である。
 由梨も疲れたけれど、せっかくだから寝る前に、イベントで買った日本酒で夫婦ふたりで晩酌をしようということになったのだ。

「イベント、大盛況でよかったですね」

 センターテーブルに盆を置いて、由梨が隣に座ると隆之は頷いた。

「ああ、明日明後日も晴れるみたいだしよかったな。……ありがとう」

 センターテーブルの晩酌セットに視線を落として彼は言う。そしてまた手元の風船を見た。
 その彼のその視線が、どことなく普段とは違うように思えて、由梨は昼間の出来事を思い出す。
 そのまま頭に浮かんだことを口にする。

「隆之さんは、私が企画課に戻るのは反対ですか?」

 隆之が瞬きをゆっくりと一回して、由梨を見て微笑んだ。

「いや、そんなことはないよ。由梨がやりたい仕事をやれるところに戻るのが一番だ。たしか2ヶ月前に企画課から経理にひとり異動になったから人数的にも……」

「隆之さん」

 由梨は隆之の袖を優しく掴み彼の言葉を遮った。

「隆之さんは、私の調子が悪かったり落ち込んでいる時、すぐに気がついてくれますけど、私も少しは気がつくようになったんです」

 そう言って彼の目をじっと見ると、隆之が目を見開いた。そしてふーっと息を吐いて目を閉じた。
 その反応に、由梨は自分の予想が当たっていたのだと確信する。彼は由梨が企画課に復帰することについて、思うところがあるのだろう。
 隆之が目を開いて風船を見た。

「さっき言ったことも本心だ。ただ……」

 そこで言葉を切って、風船をくるりと回した。

「今日、黒瀬と話をして、少し昔のことを思い出したんだよ」

「昔のこと?」

「ああ、由梨が企画課に異動になったばかりの頃。由梨が有能だと社内でも知られるようになった頃に、黒瀬に言われたんだ。なぜ今まで由梨を秘書課に置いたままにしてたんだって」

 彼の口から語られる知らなかった話に、由梨は驚きつつ耳を傾ける。

「由梨の実力を知っているのに、それを活かせる場所へ配置せずにいたのは、特殊な立場の君を目に届く範囲に置いておく方がいいと判断したからなんだが……」

「そうしてもらえてよかったと思います。長坂先輩や室長に仕事を教えてもらえましたし」

 由梨は口を挟む。そもそも結婚当初、由梨自身が異動はしたくないと彼に言ったのだ。

「まぁね。でも、あの時……由梨がはじめから黒瀬のような上司の元にいたらもっと早く成長できてたんじゃないかと思ったのも事実なんだ」

 そこで彼は言葉を切って、ため息をついた。

「……ダメだな、俺は」

「隆之さん?」

「今日のイベントで挨拶に行った時に関係者のひとりに聞かれたよ。奥さまにもご挨拶したかったって」

「イベントのご挨拶の時に? でもあれはカメラが来てたからひとりで挨拶しに行ってくれたんでしょう?」

 由梨も一緒に挨拶してほしい時は、彼からそう言われるし、言われたら家族そろって挨拶する。何がダメなのかさっぱりわからない。

「それもあるけど、関係者の中に今井財閥に批判的な方がいるのが見えたから今日は避けたんだ」

 彼が挨拶に由梨を連れて行かなかった理由はわかったけれど、それでもそれの何がダメなのかわからない。
 万が一にでもその人が、由梨にとってよくないことを言うかもしれないと彼は心配してくれたのだ。
 隆之が風船から視線をはずして由梨を見た。

「どうしても俺は、守りたいと思ってしまうんだ。由梨につらい思いはさせたくないと思ってしまう。だから由梨が傷ついたりしんどい思いをしそうなことから無意識のうちに遠ざけるくせがついているんだろう」

 隆之が少し声を落とした。

「……企画課は、営業と並んで一、二を争うきつい部署だから、由梨の身体が持つかと心配になったんだ。もちろん俺も家のことは分担はするが、どうしても由梨の方の負担が大きくなると思う」

「家事の分担は、秋元さんといろいろ相談してますから、それは考えないでください」

 社長の彼に家事の分担をしてもらうのはあまり現実的ではない。
 加賀グループの傘下に入ったばかりで、株主に、敵対する今井財閥が混ざっている状態の北部物産をしっかりと軌道に乗せなければいけない重圧を抱えている。

「由梨が復帰にしっかり準備しているのは知っている。反対するつもりはない。ただ俺のこの気持ちが、今後由梨の成長を妨げて、由梨の足を引っ張ることになるかもしれないと、ふと不安になったんだ」

 いつも自信に満ち溢れる彼が、迷いの言葉を口にする姿に、由梨の胸は愛しい思いでいっぱいになった。
 彼の腕に抱きつき目を開いてギュッと力を込めた。
 その由梨の行動に隆之が首を傾げる。

「由梨?」

 額に彼の温もりを感じながら、由梨は胸にある彼への思いを口にした。

「それは夫婦だから仕方がないんじゃないですか? 隆之さんが私を守りたいと思うのは、大切に思ってくれているからでしょう? だって隆之さんは上司じゃなくて、私の夫なんですから」

 由梨はそこで言葉を切り、顔を上げて彼を見た。

「私だって、隆之さんに今日は会社に行ってほしくないなーって思う日があるんですよ」

「会社に?」

「はい。……すごく疲れて見える時。株主総会の前の月なんか、もう全部ほったらかしにして沙羅と三人でどこが違う土地に行きましょうって言いたかったです。社長として重い責任を背負っている隆之さんを尊敬していますけど、私は社員である前に隆之さんの妻だから」

 なにも成し遂げなくても、誰にも尊敬されなくてもいいから、ただ元気でそばにいて笑っていてほしいと願う。
 本当に愛しいと想う相手に望むことは、きっととてもシンプルでわがままなものなのだろう。

「隆之さんはダメなんかじゃありません。私、そんな風に思ってくれる隆之さんがそばにいるからこそ頑張れるんです。隆之さんだってそうじゃないですか?」

 自分と沙羅の存在が、外で闘う彼の心を強くする。由梨はそう確信している。
 思いを込めて大好きな彼の目を見つめると、隆之が表情を和らげた。

「——だな」

 大きな手が由梨の頬を包んだ。

「由梨、ありがとう。俺は由梨のやりたいことを応援する。でも無理はするな。大変だと思った時は必ず相談するように」

「はい」

 答えると、唇に優しいキスが降ってくる。由梨は目を閉じて、優しく触れる彼の温もりを感じ取った。
 次に目を開いた時はもういつもの自信に満ちた彼だった。

「由梨、愛してるよ」

 ……もう一度。
 目を開くと、至近距離にいる隆之が少し不敵な笑みを浮かべていた。

「そういえば由梨、あの件はどうなった?」
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