短編集
ナイチンゲール
朝起きて、憂欝な気分。
夢から覚めていないかのような浮遊感。
鏡を見つめ、ため息。
酷い顔。
この家から出たい。
そして、いつもと同じ時間に部屋のドアをノックする小さな音。
「起きているわ。先に、下に行っていて。」
ドアの方に顔を向け、明らかに冷たい言葉と口調。
そこにいるのは藤九郎だと分かっている。
優しい彼を傷つけているのが、苦しい。
だけど、他に当たるところがない。
ごめんなさい。
分かっているけれど、どうしていいのか分からない。
昨日の甘い声が頭に響くような、記憶の反芻。
鏡に向き直って、自分の表情に嫌悪する。
『俺の意志で、ここにいるんだ』
私の心は答えを知っている。
私は思わず鏡から目を逸らした。
急かされる様に、その場を離れたくて、カバンを手にドアを開ける。
いつもと同じ。
先に行くようにと促したはずの藤九郎は、私が部屋から出てくるのを待っていた。
昨日とは違う方法で、今日を乗り切らなければ。
「藤九郎、あなたは私を嘘つきにしたりはしないわよね?」
酷い言葉。
私の言葉で彼の表情が陰るのを見て、心は痛むのに。
どこを間違えてしまったのだろうか。
「そうだね、君がそう望むのなら。俺は約束を信じるよ。」
「約束なんて知らないわ。でも……。藤九郎、『彼女』が待っているわよね。私と一緒に登校なんて出来ないはずよ。」
私の身勝手な言葉に、藤九郎は穏やかな笑みを見せる。
胸に、痛みとは違う重みのある息苦しさが生じた。
「今日から、君が先に出て。父さん達を誤魔化すのに、時間がかかるだろ?」
自分に、重く圧し掛かるような何か。
彼の言葉が私を追い詰めていく。
分かっている。
首を絞めているのは自分だ。
彼に背を向けて、台所は寄らずに外へ出た。
お弁当や軽い朝食が、後から届くだろう。
依存している。
揺るがない程の信頼。
藤九郎が居ない生活なんて、忘れてしまうほどに。
家が見えなくなった位置で足を止め、歩いて来た道を振り返る。
昨日の約束。
“私の我儘を聴いてくれるのなら、藤九郎のお願いも一つだけ叶える”
だけど、それは私に出来る範囲内での事。
彼が何を望むのかを想定して、そう言ったのか。
ただ私が、この家から逃げたくて必死だったのかも知れないけれど。
追い込まれた私に出来ることなど、限られている。
ため息を吐き、私は学校に向かう道に体を戻した。
「おはよう。」
突然の挨拶に面食らう。
越水 三郷 (こしみず みさと)。
クラスが同じで、よく会話するから仲が良い方だと思う。
でも、それは。藤九郎が来るまでの事。
「おはよう。越水くんって、道が違うよね?」
今まで通学途中で会ったとしても、校門前くらいだ。
それに久々に話した気がする。
「うん。実は、遠回りしてさ……」
越水くんは顔が少し赤い。
視線がさ迷い、濁すような言い方。
次に続く言葉を予測してしまう。
気のせいならいい。
「越水くん。私、学校に急いで行きたい用事が少しあるんだ。」
彼の言葉を遮る様な早口で、私は歩を進めながら、彼にも一緒に歩くことを促した。
少し表情が暗くなり、苦笑を見せたけれど、私との距離を縮めて歩く。
不安に近いような、複雑な思い。
藤九郎への拒絶とは違う、別の逃げたいような感覚。
嫌いじゃない。好きでもない。
好意は困る。
……別に気まずくなってもいい。
でも、藤九郎とは。
認めたくない想いを自覚する。
感情に比例するのか、足は速度を増していく。
「……ぅみ、古海!」
耳に入る声が大きくなったと思った瞬間、手を引かれてバランスを崩した。
寄り掛かったのは、距離をとりたかった越水くんの胸元。
半ばパニック状態で、顔を上げた。
「古海、好きだ。俺さ、君とあいつが……風間と同居してるって聞いたんだ。」
当然、ウワサにもなるだろう。
藤九郎の存在が異質で。