短編集
慣れ始めまして
提出物を出し、事務所まで戻る道。
「こんにちは。」
声をかけられて、普段と同じ反応で振り返る。
「こんにちは。」
そこにいたのはSペイントの社長さん。
その人物に対し、一気に凍りつく自分がいた。
どうにかして逃げないと。
気持ちに連動するように、笑顔を作って会釈して、足早に去ろうとしたけれど。
もちろん相手の方が上手だった。
「あぁ、はじめましてかな。Sペイントの社長、初鹿野(はがの)です。」
「はい、はじめまして。REシップの事務員、三浦です。」
タイミングを逃してしまった。
恐い。笑っているのに、内心が読めない。
この人が木之下さんを追い出し、トキくんをスパイとして送り込んだ人。
「新しく入った人ですね、慣れましたか?」
世間話だというのに、威圧感と探るような視線。
「まだ慣れていなくて、分からないことが一杯です。」
何を訊かれても知らないで通せるだろうか。
逃げに選んだ言葉を利用されるなんて、思いもしない。
「そうですか、ぜひ、当社の事務員と仲良くされると良いですよ。そうだ、今夜、当社の食事会にいらっしゃいませんか?」
え?何故に??
何で、そんな他社の食事会に誘うの?
「いえ、すみません。今日は。」
断ろうとした言葉さえ、遮って。
「遠慮はいりませんよ。うちの事務員の大石 美咲(おおいし みさき)も入った時期が近いので、きっと困っていることも相談すれば、参考になるでしょう。」
断れる雰囲気がない。
どうすれば良いんだろうか。
「おい、三浦!」
この声は。
声のする方に視線を向け、別の不安が過る。
木之下さん、捨てた社長と会うのはどうなの?
「初鹿野社長、お久しぶりです。お話し中のところ済みませんが、急用なので失礼します。」
口早に、それでいて動揺も見せずに丁寧な対応。
そして私に視線を向けて、真剣な表情のまま。
「三浦、所長が探している。戻るぞ。」
そんな他社の社内事情にも、関心があるのだろうか。
私たちの会話に、軽々と侵入してくる。
「どうした、造船所内で何かあったのか。私も対応を迫られるといけない事かもしれないなら、教えて欲しい。」
木之下さんは慣れているのか、営業スマイルで応える。
「いえ、三浦が提出した書類の計算式が抜けていて、合計が合わないそうで。至急、再提出を依頼されただけです。では、社長。失礼します。」
「初鹿野社長。本日は私用で出かけますので、折角のお誘いですが、お断りさせていただきます。すみません、失礼します。」
口早に言い逃げ。