短編集
「行くぞ。」
小さな声で、導くように走って行く後姿の木之下さん。
もう一度、目も見ずに会釈して、その後を追った。
恐かった。
木之下さんが来なければ、私は。
必死で走って、建物の中に入る。
事務所に続く階段。
息が切れ、零れた涙に足は止まった。
「……っ。」
悔しい。恥ずかしい。
混乱に涙が止まらず、周りも見れずに。
「大丈夫か、三浦。すまない、もっと気を回せていれば。」
いつもとは違う優しい木之下さんの声。
「すみません、ごめんなさい。」
涙を何度も拭うけれど、止めることも出来ずに、ただ謝ることしか出来なかった。
「どうしたの?」
心配する、聞いた事のない女性の声。
不味い。こんな場面を見られては、どんな噂が流れるか。
また木之下さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。
「すみません。バカノに初めて会って、色々と詮索されたみたいで。」
え?そんな事、言って大丈夫なの?
「まぁ~~、あのバカ社長に?かわいそうに。ちょっと、あんた麦茶でも持ってきてあげて。」
「そりゃ、ビックリしただろね。かわいそうに。今、麦茶でも持ってきたげよう。」
騒ぎを聞きつけた協力会社の方々に、親切を受けながら。
涙も止まって、恥ずかしさに笑顔がもれてしまう。
そんな安堵を、周りも読み取ったのか笑顔で。
初鹿野社長の悪口大会が勃発。
そんなに悪い評判しかないのだろか。
安心したのは、木之下さんが悪く言われないことだ。
ん?何か忘れて……
「木之下さん、私、書類を。」
「あぁ、心配すんな。三浦を、あいつから離すために咄嗟に言ったことだ。まぁ所長が心配してるだろうから、報告には行かないとっすね。お前は、もう少しだけここにいろよ。」
木之下さん、他の協力会社の方にも信頼されてるんだ。
報告から戻った木之下さんは、周りの人に私の面倒を見てくれた事に感謝を述べ、丁寧なお辞儀。
私も会釈をした。
そして事務所に戻ると、心配そうに駆け寄ってくる所長。
「すまないね、今日、彼の姿を見た時に、三浦さんにも報告しておくべきだった。何か言われたかな?」
私は、食事会とSペイントの事務員と仲良くするように言われたことを伝えた。
その話に、所長と木之下さんは真剣な表情で。
「不味いね。何か、仕掛けてくるかもしれない。」
「そっすね。ホント、あのバガノ、ウザいっすわ。」
木之下さんの暴言に、所長は苦笑で否定もせず。
私は不安になる。
自分の会話も阻まれれば、強気で自分の意思を通すことも難しい。
まして逃げ道を見つけることも出来ないなら。
「Sペイントの事務員には、気をつけるっすよ。良い噂を聞かないっすからね。」