加護なしはチートでカバーします! ~婚約破棄された転生令嬢は荒野の王に溺愛される~
「フィリア・リスター侯爵令嬢、君との婚約は破棄させてもらう!」
声たかだかに宣言する、ラモルリエール皇国の皇太子クリストフ・ラモルリエール。私の生まれたときからの婚約者。
貴族の令嬢なら卒倒するような彼の言葉に、私が抱いた感想はこうだった。
(あ、パーティーの最中に宣言するパターンではないのね)
ついそう思ってしまったのは、私が日本人からの異世界転生者だからだろう。
不仲な婚約者の突然の訪問……からの、応接室で待っているという伝言。そして、急いでやって来たなら部屋に入った瞬間のこの展開。婚約者だったはずの男が浮気相手――実の妹と密着してソファに座っている構図もド定番なため、まったくもって衝撃はない。
「僕の新しい婚約者を紹介しよう。有能で可愛らしいクララだ」
「クリス様はお姉様の婚約者だとわかっていました。でも私……っ」
「はい。婚約破棄、承りました」
どこかで見たような茶番が続きそうな気配を感じ、私は早々に了承の返事をした。
しかし、私の「巻きでお願いします」というその気持ちが汲まれることはなかった。
「クララには無能な君とは違って、精霊の加護がある。元々そのための婚約だったのだから、父上もすぐに納得してくださったよ」
クララの腰を抱きながらクリストフが言う。それを皮切りに、やはりどこかで見たような男女のやり取りが目の前で繰り広げられる。
「私が持つ火の精霊の加護で、きっと皇室のお役に立って見せますわ」
「ああ、クララの赤髪は本当に美しいな。そこの加護なしの銀髪とは大違いだ」
見せつけるようにして髪を弄るクララと、嘲笑いながらこちらを指差すクリストフ。真にお似合いのカップルでございます。
十歳のときから七年間も毎日のように言われてきた『加護なし』の言葉だ。今日もまた言われたところで今さらダメージもない。
(寧ろファンタジーものに出てくる銀髪キャラに憧れていたから、気に入ってるんだよね)
父は風の精霊の加護で緑色、亡くなった祖父は土の精霊の加護で茶色の髪色だった。そして二歳年下のクララが赤髪だったことで、銀髪の私は当初、水の精霊の加護ではと予想されていた。
ところが十歳の誕生日で行われた精霊の儀式で判明した、『加護なし』の事実。二年後にはクララが順当に火の精霊の加護の判定を受けたので、私の立場はより肩身の狭いものになった。
『精霊の加護』というものが単なる信仰的なものであったなら、ここまで重要視されなかったかもしれない。けれど、この世界においてそれは実益に繋がるものだった。精霊の加護を持つ者は、該当する属性に干渉できる精霊を操ることができるのだ。例えば、火の精霊の加護を持つクララであれば火種がなくともいつだって火を熾せる……といったように。
だから皇室は、精霊の加護を受ける唯一の血筋であるリスター侯爵家を優遇している。
大精霊の子孫であるリスター侯爵家に、これまで加護なしなど生まれたことがなかったという。私は不吉な子供として、表向きは病弱ということで外界から隔離されることになった。
侯爵家特有の青緑色の瞳を持っていなければ、母の不貞が疑われるところだっただろう。もっとも、母ともそれが申し訳ないと感じるような友好な親子関係ではないが。
この家に私の味方など誰一人いない。部屋に控えているメイドたちまでも、この茶番劇を楽しんでいるようだった。
(で、この後はどのパターンかしら?)
目の前の二人の台詞は右から左で、私は前世の小説なり漫画なりを思い返した。
婚約破棄もののわけだが、私が虐げられている側なのは周知の事実。ありがちな妹を虐めていたという断罪に持って行くのは難しい。よって悪役令嬢の線は消えて、傷物令嬢として老人の後妻に売られるとか? あるいは若いけれど悪評のある人物へ駒として嫁がされるとか?
「ああ、そうだ。折角の皇妃教育が無駄になるのは可哀想だということで、父上がお前に新しい婚約者を用意してくださったぞ。喜べフィリア、お前の新しい相手はグレン・キリオスだ」
「……っ」
今吹き出さなかった私、偉い。
グレン・キリオス――隣国であるキリオス王国の国王。その人はまさに先程私が想定した『若いけれど悪評のある人物』だった。
とはいえ、幸いなことに夫となる人柄としての悪評ではない。
「まあ、よかったですわねお姉様。弱小国とはいえ、一応念願の王妃にはなれるではありませんか。荒野ばかりが広がる野蛮な国の王の妃なんて、私は死んでもごめんですけれど」
「クララとの結婚式にはフィリアも招待してやろう。荒野の王の妃でも一応は王族であるからな」
「ふふ、クリス様ったらお優しい御方。お姉様の婚約の件も、クリス様が陛下に進言なさったとか」
「ああ。父上も名案だと仰ってくださったよ。直ぐさまキリオス王に打診したところ、向こうからも色よい返事がもらえた。フィリアも求められて嫁げるわけだ。誰もが幸せになれる最高の結末になったと思わないか?」
にやにやと笑う二人の様子、それから「誰もが幸せになれる最高の結末」という言葉。それが指し示す裏事情に思い至り、私は腐りきった祖国に呆れ返った。
(なるほど。私を加護なしだということは黙っておいて、高名なリスター侯爵の令嬢としてキリオス王国に高値で売りつけたわけね)
幼少期に私は、水の精霊の加護があるのではと囁かれていた。その後、加護なしの事実が判明してからは箝口令が敷かれている。
だから私が加護なしと知っているのは、皇室と侯爵家の関係者のみ。隣国であるキリオス王国は昔の噂だけを耳にして、私に水の精霊の加護があると思っている可能性が高い。
荒野が広がるという彼の国では常に水が不足していると聞く。多少ふっかけられたとしても、水の精霊の加護を受ける令嬢との婚約話を蹴ることはないだろう。
(でもって後日、私の加護なしがバレて冷遇されることも盛り込み済み……と)
早ければ皇太子とクララの結婚式で、二人は私の惨めな姿を拝めるわけだ。こんな提案に乗るくらいだから、下手をすれば皇帝陛下もキリオス国王を煽ってくるかもしれない。
クララはキリオス王国に嫁ぐのが死んでもごめんだと言ったけれど、私は逆に性悪皇帝が治める国から出られてラッキーなのではと思えてきた。
「キリオス王との婚約については、既にリスター侯爵とも話がついている。明日の早朝に隣国へ出立する馬車も、僕が直々に用意してやったぞ。荒野に行くのにドレスも宝石もいらないだろうからな。半日もあれば荷造りも終わるだろう?」
「そうですね。では私は準備に部屋へ戻りますので、新しいご婚約者様とごゆっくりなさってください。失礼いたします」
皮肉でしかないクリストフの質問を利用する形で、私はようやく応接室からの脱出に成功した。
そのまま真っ直ぐに自室――屋根裏部屋へと戻る。「ドレスも宝石もいらない」どころか、そもそもそんなものなど一つもないベッドと机と椅子だけの寂れた部屋だ。今頃は応接室で二人が私の「準備」という言葉を笑っていることだろう。糸のほつれた毛布でも嫁入り先に持って行くのかと。
(もしそうなら、当たらずといえども遠からずだわ)
ガチャ
ノックもなく開けられた部屋の扉に、私は反射的に入口を振り返った。
「さあお嬢様。最後の食事を持ってきてあげましたよ」
横柄な口を利いたメイドが、ずかずかと上がり込んだかと思えばガシャンと音を立てて食事が載ったトレーを机の上に置く。パンが皿から転げスープが零れるまでが彼女の仕事内容なのだろうか、毎度ぶっつけ本番でこの状態に持って行くのだから、ある意味すごい才能である。
私が椅子に座る頃には、メイドは用は済んだとばかりにとっとと退室していた。三年ほど毎日顔を合わせたはずが、彼女の名前は最後まで知る機会がなかったようだ。
「最後の食事もいつもの奴ね」
メイドが階段を降りる音を聞いてから、私は何とはなしに呟いた。
カビの生えたパンに腐ったスープ。この裕福な侯爵家でこんなものを手に入れるには、わざわざ作らないといけないだろうに。毎回せっせと用意する使用人たちのことを考えると、笑えてくる。
しかも、そんな彼女たちの努力も私の前では水の泡だ。
「でもまあ、私も転生チートがなければとっくに死んでいたかもね」
いつも通りの食事に、私もいつも通り手を翳した。
パンとスープから黒い霧が立ち上り、私の手のひらに吸い込まれて行く。
途端、
『闇の元素を4手に入れた』
ゲーム画面のウィンドウのようなものが現れ、そこに表示されるこれまたゲームに出てくるようなお決まりのメッセージ。
私はこのチート能力を『元素変換』と名付けた。
この世界での元素は、地球の「水兵リーベ僕の舟」で覚えるアレのように複雑なものではなく、何と火・水・風・土・光・闇の六種類のみ。ファンタジー世界お約束の、たった六種類の組み合わせですべてが成り立っている。
だから腐ったスープであれば、そこから闇だけを除いてやればあら不思議、あっという間に元の新鮮な野菜スープに早変わり。カビの生えたパンにはその過程にプラスして、時々カビが間に合わなかったのか消し炭パンを出してきたときに取っておいた火の元素を加えてやる。これで焼きたてほかほかでいただけるという寸法だ。
「元の料理はさすがに美味しいんだよね。侯爵家だけあって」
料理の他にも私は、ベッドのシーツや掛け布団も寝るときに毎回新品にしていた。
勿論、見つかったら盗んだとか言いがかりを付けられること必至なので、毎朝元のボロ布に再構成していましたとも。
だから、糸のほつれた毛布を本当に嫁入り先に持って行くつもり。穴が開いて中身の綿が飛び出した枕も、何年洗っていないかわからないシーツも、私が持って行きたいと言ったところで咎める者はいないだろう。逆にそれで私が邸の笑い種となることで、喜ばれるかもしれない。
「あっ、そうだ。アレも持って行かないと」
思い出したとある存在に、私はよいせとベッドの下からそれらを取り出した。
父から届けられた死者に手向けるための花に、母に投げつけられた割れたティーカップ。クララがわざわざここまで持ってきた切り裂いたぬいぐるみに、何度も足が滑る使用人が踏んで破いたドレス等々。まあ何というか……思い出の品たちである。
これらも料理同様、元々は上等な品。だからいい感じに多くの元素が手に入ると予想している。それがわかっていて今までそうせずに取っておいたのは、ひょんなことからその存在を思い出される可能性があったからだ。
枯れた花や割れたティーカップを片付けに来た者はいなかった。しかし、万が一誰かが掃除にやって来た場合、跡形もなく消えてしまっていては説明に困る。だからこれまでずっと仕舞ってあった。
「でも、もういいよね?」
私は期待を胸に、思い出の品たちに手を翳した。
全変換したため色とりどりの霧が立ち上り、私の手のひらに吸い込まれて行く。
『火60 水30 風70 土80 光20 闇90の元素を手に入れた』
思い出の品たちとサヨナラしたところで出てきたメッセージに、私は思わずにんまりとした。
「思った通りごっそり来たね。これだけあればしばらくは、何にもないところから食べ物だって出せちゃうわ」
私のチート能力である元素変換は正直な話、リスター侯爵家の精霊の加護なんて足下にも及ばないと思う。
この世界のすべてを構成する元素に干渉できるのだ、組み合わせを調べ元素を必要数さえ集めれば、パンから最新の魔道具まで私は生成できてしまうわけで。仮にキリオス王国からも着の身着のままポイ捨てされたとて、生きて行ける自信がある。だから隣国に嫁入りという名の国外追放は望むところというか、何なら新天地にワクワクしているというか。
「あー、駄目駄目。明日の見送りをやり過ごすまで、にやけるの禁止!」
早朝の出立であろうとも、私の惨めな姿を見ることに余念がないクララは頑張って早起きしてくれることだろう。最後くらいは妹のために、哀れな姉を演じてあげようではないか。
折角なので部屋の綿埃、土埃など各種汚れからも元素を回収。後は朝に寝具を荷造りすれば、準備完了っと。
明日には、私を冷遇する侯爵家とも浮気者の元婚約者ともお別れできる。今夜はよく眠れそうだ。
私はいつものように寝支度を調えて――
「おやすみなさい」
侯爵家最後の夜を、ぐっすり眠って過ごしたのだった。
声たかだかに宣言する、ラモルリエール皇国の皇太子クリストフ・ラモルリエール。私の生まれたときからの婚約者。
貴族の令嬢なら卒倒するような彼の言葉に、私が抱いた感想はこうだった。
(あ、パーティーの最中に宣言するパターンではないのね)
ついそう思ってしまったのは、私が日本人からの異世界転生者だからだろう。
不仲な婚約者の突然の訪問……からの、応接室で待っているという伝言。そして、急いでやって来たなら部屋に入った瞬間のこの展開。婚約者だったはずの男が浮気相手――実の妹と密着してソファに座っている構図もド定番なため、まったくもって衝撃はない。
「僕の新しい婚約者を紹介しよう。有能で可愛らしいクララだ」
「クリス様はお姉様の婚約者だとわかっていました。でも私……っ」
「はい。婚約破棄、承りました」
どこかで見たような茶番が続きそうな気配を感じ、私は早々に了承の返事をした。
しかし、私の「巻きでお願いします」というその気持ちが汲まれることはなかった。
「クララには無能な君とは違って、精霊の加護がある。元々そのための婚約だったのだから、父上もすぐに納得してくださったよ」
クララの腰を抱きながらクリストフが言う。それを皮切りに、やはりどこかで見たような男女のやり取りが目の前で繰り広げられる。
「私が持つ火の精霊の加護で、きっと皇室のお役に立って見せますわ」
「ああ、クララの赤髪は本当に美しいな。そこの加護なしの銀髪とは大違いだ」
見せつけるようにして髪を弄るクララと、嘲笑いながらこちらを指差すクリストフ。真にお似合いのカップルでございます。
十歳のときから七年間も毎日のように言われてきた『加護なし』の言葉だ。今日もまた言われたところで今さらダメージもない。
(寧ろファンタジーものに出てくる銀髪キャラに憧れていたから、気に入ってるんだよね)
父は風の精霊の加護で緑色、亡くなった祖父は土の精霊の加護で茶色の髪色だった。そして二歳年下のクララが赤髪だったことで、銀髪の私は当初、水の精霊の加護ではと予想されていた。
ところが十歳の誕生日で行われた精霊の儀式で判明した、『加護なし』の事実。二年後にはクララが順当に火の精霊の加護の判定を受けたので、私の立場はより肩身の狭いものになった。
『精霊の加護』というものが単なる信仰的なものであったなら、ここまで重要視されなかったかもしれない。けれど、この世界においてそれは実益に繋がるものだった。精霊の加護を持つ者は、該当する属性に干渉できる精霊を操ることができるのだ。例えば、火の精霊の加護を持つクララであれば火種がなくともいつだって火を熾せる……といったように。
だから皇室は、精霊の加護を受ける唯一の血筋であるリスター侯爵家を優遇している。
大精霊の子孫であるリスター侯爵家に、これまで加護なしなど生まれたことがなかったという。私は不吉な子供として、表向きは病弱ということで外界から隔離されることになった。
侯爵家特有の青緑色の瞳を持っていなければ、母の不貞が疑われるところだっただろう。もっとも、母ともそれが申し訳ないと感じるような友好な親子関係ではないが。
この家に私の味方など誰一人いない。部屋に控えているメイドたちまでも、この茶番劇を楽しんでいるようだった。
(で、この後はどのパターンかしら?)
目の前の二人の台詞は右から左で、私は前世の小説なり漫画なりを思い返した。
婚約破棄もののわけだが、私が虐げられている側なのは周知の事実。ありがちな妹を虐めていたという断罪に持って行くのは難しい。よって悪役令嬢の線は消えて、傷物令嬢として老人の後妻に売られるとか? あるいは若いけれど悪評のある人物へ駒として嫁がされるとか?
「ああ、そうだ。折角の皇妃教育が無駄になるのは可哀想だということで、父上がお前に新しい婚約者を用意してくださったぞ。喜べフィリア、お前の新しい相手はグレン・キリオスだ」
「……っ」
今吹き出さなかった私、偉い。
グレン・キリオス――隣国であるキリオス王国の国王。その人はまさに先程私が想定した『若いけれど悪評のある人物』だった。
とはいえ、幸いなことに夫となる人柄としての悪評ではない。
「まあ、よかったですわねお姉様。弱小国とはいえ、一応念願の王妃にはなれるではありませんか。荒野ばかりが広がる野蛮な国の王の妃なんて、私は死んでもごめんですけれど」
「クララとの結婚式にはフィリアも招待してやろう。荒野の王の妃でも一応は王族であるからな」
「ふふ、クリス様ったらお優しい御方。お姉様の婚約の件も、クリス様が陛下に進言なさったとか」
「ああ。父上も名案だと仰ってくださったよ。直ぐさまキリオス王に打診したところ、向こうからも色よい返事がもらえた。フィリアも求められて嫁げるわけだ。誰もが幸せになれる最高の結末になったと思わないか?」
にやにやと笑う二人の様子、それから「誰もが幸せになれる最高の結末」という言葉。それが指し示す裏事情に思い至り、私は腐りきった祖国に呆れ返った。
(なるほど。私を加護なしだということは黙っておいて、高名なリスター侯爵の令嬢としてキリオス王国に高値で売りつけたわけね)
幼少期に私は、水の精霊の加護があるのではと囁かれていた。その後、加護なしの事実が判明してからは箝口令が敷かれている。
だから私が加護なしと知っているのは、皇室と侯爵家の関係者のみ。隣国であるキリオス王国は昔の噂だけを耳にして、私に水の精霊の加護があると思っている可能性が高い。
荒野が広がるという彼の国では常に水が不足していると聞く。多少ふっかけられたとしても、水の精霊の加護を受ける令嬢との婚約話を蹴ることはないだろう。
(でもって後日、私の加護なしがバレて冷遇されることも盛り込み済み……と)
早ければ皇太子とクララの結婚式で、二人は私の惨めな姿を拝めるわけだ。こんな提案に乗るくらいだから、下手をすれば皇帝陛下もキリオス国王を煽ってくるかもしれない。
クララはキリオス王国に嫁ぐのが死んでもごめんだと言ったけれど、私は逆に性悪皇帝が治める国から出られてラッキーなのではと思えてきた。
「キリオス王との婚約については、既にリスター侯爵とも話がついている。明日の早朝に隣国へ出立する馬車も、僕が直々に用意してやったぞ。荒野に行くのにドレスも宝石もいらないだろうからな。半日もあれば荷造りも終わるだろう?」
「そうですね。では私は準備に部屋へ戻りますので、新しいご婚約者様とごゆっくりなさってください。失礼いたします」
皮肉でしかないクリストフの質問を利用する形で、私はようやく応接室からの脱出に成功した。
そのまま真っ直ぐに自室――屋根裏部屋へと戻る。「ドレスも宝石もいらない」どころか、そもそもそんなものなど一つもないベッドと机と椅子だけの寂れた部屋だ。今頃は応接室で二人が私の「準備」という言葉を笑っていることだろう。糸のほつれた毛布でも嫁入り先に持って行くのかと。
(もしそうなら、当たらずといえども遠からずだわ)
ガチャ
ノックもなく開けられた部屋の扉に、私は反射的に入口を振り返った。
「さあお嬢様。最後の食事を持ってきてあげましたよ」
横柄な口を利いたメイドが、ずかずかと上がり込んだかと思えばガシャンと音を立てて食事が載ったトレーを机の上に置く。パンが皿から転げスープが零れるまでが彼女の仕事内容なのだろうか、毎度ぶっつけ本番でこの状態に持って行くのだから、ある意味すごい才能である。
私が椅子に座る頃には、メイドは用は済んだとばかりにとっとと退室していた。三年ほど毎日顔を合わせたはずが、彼女の名前は最後まで知る機会がなかったようだ。
「最後の食事もいつもの奴ね」
メイドが階段を降りる音を聞いてから、私は何とはなしに呟いた。
カビの生えたパンに腐ったスープ。この裕福な侯爵家でこんなものを手に入れるには、わざわざ作らないといけないだろうに。毎回せっせと用意する使用人たちのことを考えると、笑えてくる。
しかも、そんな彼女たちの努力も私の前では水の泡だ。
「でもまあ、私も転生チートがなければとっくに死んでいたかもね」
いつも通りの食事に、私もいつも通り手を翳した。
パンとスープから黒い霧が立ち上り、私の手のひらに吸い込まれて行く。
途端、
『闇の元素を4手に入れた』
ゲーム画面のウィンドウのようなものが現れ、そこに表示されるこれまたゲームに出てくるようなお決まりのメッセージ。
私はこのチート能力を『元素変換』と名付けた。
この世界での元素は、地球の「水兵リーベ僕の舟」で覚えるアレのように複雑なものではなく、何と火・水・風・土・光・闇の六種類のみ。ファンタジー世界お約束の、たった六種類の組み合わせですべてが成り立っている。
だから腐ったスープであれば、そこから闇だけを除いてやればあら不思議、あっという間に元の新鮮な野菜スープに早変わり。カビの生えたパンにはその過程にプラスして、時々カビが間に合わなかったのか消し炭パンを出してきたときに取っておいた火の元素を加えてやる。これで焼きたてほかほかでいただけるという寸法だ。
「元の料理はさすがに美味しいんだよね。侯爵家だけあって」
料理の他にも私は、ベッドのシーツや掛け布団も寝るときに毎回新品にしていた。
勿論、見つかったら盗んだとか言いがかりを付けられること必至なので、毎朝元のボロ布に再構成していましたとも。
だから、糸のほつれた毛布を本当に嫁入り先に持って行くつもり。穴が開いて中身の綿が飛び出した枕も、何年洗っていないかわからないシーツも、私が持って行きたいと言ったところで咎める者はいないだろう。逆にそれで私が邸の笑い種となることで、喜ばれるかもしれない。
「あっ、そうだ。アレも持って行かないと」
思い出したとある存在に、私はよいせとベッドの下からそれらを取り出した。
父から届けられた死者に手向けるための花に、母に投げつけられた割れたティーカップ。クララがわざわざここまで持ってきた切り裂いたぬいぐるみに、何度も足が滑る使用人が踏んで破いたドレス等々。まあ何というか……思い出の品たちである。
これらも料理同様、元々は上等な品。だからいい感じに多くの元素が手に入ると予想している。それがわかっていて今までそうせずに取っておいたのは、ひょんなことからその存在を思い出される可能性があったからだ。
枯れた花や割れたティーカップを片付けに来た者はいなかった。しかし、万が一誰かが掃除にやって来た場合、跡形もなく消えてしまっていては説明に困る。だからこれまでずっと仕舞ってあった。
「でも、もういいよね?」
私は期待を胸に、思い出の品たちに手を翳した。
全変換したため色とりどりの霧が立ち上り、私の手のひらに吸い込まれて行く。
『火60 水30 風70 土80 光20 闇90の元素を手に入れた』
思い出の品たちとサヨナラしたところで出てきたメッセージに、私は思わずにんまりとした。
「思った通りごっそり来たね。これだけあればしばらくは、何にもないところから食べ物だって出せちゃうわ」
私のチート能力である元素変換は正直な話、リスター侯爵家の精霊の加護なんて足下にも及ばないと思う。
この世界のすべてを構成する元素に干渉できるのだ、組み合わせを調べ元素を必要数さえ集めれば、パンから最新の魔道具まで私は生成できてしまうわけで。仮にキリオス王国からも着の身着のままポイ捨てされたとて、生きて行ける自信がある。だから隣国に嫁入りという名の国外追放は望むところというか、何なら新天地にワクワクしているというか。
「あー、駄目駄目。明日の見送りをやり過ごすまで、にやけるの禁止!」
早朝の出立であろうとも、私の惨めな姿を見ることに余念がないクララは頑張って早起きしてくれることだろう。最後くらいは妹のために、哀れな姉を演じてあげようではないか。
折角なので部屋の綿埃、土埃など各種汚れからも元素を回収。後は朝に寝具を荷造りすれば、準備完了っと。
明日には、私を冷遇する侯爵家とも浮気者の元婚約者ともお別れできる。今夜はよく眠れそうだ。
私はいつものように寝支度を調えて――
「おやすみなさい」
侯爵家最後の夜を、ぐっすり眠って過ごしたのだった。