全ては雨のせい
急に降り出した雨は通行人の足を早め、先程まで穏やかだった風景はいそいそと忙しなく回っていく。私もまた、周りに同化して雨宿りの場所を探す。
ふと鼻をかすめたのは苦い煙草のにおい。ゆらりと紫煙が漂いこっちにおいでと誘っている。ギターケースを抱えたまま水たまりを跳ねて、誘われるがままそこに飛び込んだ。シャッターが下りていてなんの店かわからない、この軒下で雨を凌ぐことにした。
「はぁ…」
先客である煙草を燻らせている男はスマホ片手に小さくため息を漏らした。急な雨に降られて足止めされたのだ、良い気分ではないだろう。スーツを着ているからサラリーマンだろうか、仕事に支障をきたすなら尚更だ。
手足が長く、深い紺色のスーツをスマートに着こなしている。
彼の細い指の間に挟まっている煙草の先端がだんだんと灰に変わっていく。灰が落ちてスーツに穴が開くんじゃないかと無用な心配をしながら目が離せずにいた。
「ぁっ」
指が動いて灰が落ちた。
ふと顔を上げた彼と目が合って、にがいにがい煙草のにおいと不意をつかれたような驚いた表情が脳に焼き付いていく。スッと通った鼻筋に涼やかな目元、同年代にもみえる幼さが残る中性的な顔立ちをしている。
雨音がやけに遠のいて、この空間だけ時が止まっているような錯覚に陥る。
なんてことはない、ポロッと落ちた灰は濡れたコンクリートの上でジュッと音を立て消えた。
再び時間が動き出す。
突然雨音のボリュームが上がり、彼はスマホへと視線を戻す。
「いつ止みますかね…」
何の気なしにぽつりと呟いた私の声に、彼は少し気怠げにこちらを向いた。
「止みそうにないな…」
思ったよりも低い声に私の鼓動が早まる。
ちらと雨空を見上げてから軒下に置いてある灰皿に煙草を押し付ける。
「それ、ギター?」
「はい、アコースティックギターです」
ずっと抱えっぱなしだったことに気付いて恥ずかしくなり、すぐ様ギターケースを背中に背負った。
「これ、使って」
差し出されたのは傘だ。
「え?でも--」
「ギターって濡れたらダメなんでしょ?」
「あ、はい…そうですけど--」
傘と彼の顔を交互にみていると、手に傘の柄を握らされた。混乱しているうちに彼は軒下から飛び出して「じゃあね」と雨の中に消えて行った。
私はしばらく彼の消えて行った方向をぼんやりみつめていた。
雨脚が強くなる。
傘の柄をぎゅっと握る。
ふわりと漂う煙草の残り香が胸を締め付けた。
*****
天気予報を毎日チェックするようになった。少しでも降水確率があれば傘を持ち歩くようになった。回り道をしてシャッターが下りた店の前を通るようになった。
声はもうはっきりと思い出せないけれど、あの人の顔と匂いが忘れられない。もう一度会いたい。会って話がしたい。そうすればこの執着の理由がわかる気がする。
そんな風に日々を過ごしているうちに季節をまたぎ、春雨から五月雨へと変わっていった。
今日は朝から雨が降っている。天気予報によると1日中雨だ。あの人に会えるかもしれない。友人に「双葉は雨が降ると機嫌がいい。ずっと鼻歌を歌ってる」と言われて相当浮かれていることを自覚した。
大学の授業が終わり急いであのシャッターが下りている店へと向かった。店の軒先に人影はない。傘を閉じて屋根の下に入る。傘をさして来たのに走ってきたせいで肩が濡れていた。タオルでそこを拭う。
設置してある灰皿には吸殻は入っていない。
来てないか
雨の雫が屋根を伝いぽつぽつとゆっくり落ちる様を目に映しながら、雨音に耳を傾ける。
あの日もこんな感じだった。
あの人が隣で煙草を吸っていて一瞬時間が止まったみたいにスローモーションになった。にがい匂いは苦手なのに気にならないくらい見入ってしまって、おかげであの匂いを感じる度にあの人を探してしまう。
会える確率なんてないに等しい。
それなのに会える気がする。
やっぱり浮かれてるのかな。
湿った雨音に混じってコツコツと靴音が近付いてくる。黒い傘をさしたスーツの男性がこちらにまっすぐに向かってきた。
「ぁ…」
目が合って数秒間お互い固まっていた。
「…あぁ、この間のギターの子?」
傘を閉じて屋根の下に入ってきた。
「今日も雨宿り?」
「はい…あ、傘ありがとうございました」
礼を言って傘を差し出すとおもむろに煙草を取り出してふるふると首を振る。
「いいよ、よかったらそれ使って」
「え、でも--」
「俺に返しちゃったら、この後濡れて帰らなきゃでしょ?」
「あ…」
そうか、返した後のこと考えてなかった。
煙草を口にくわえて、間抜けな顔をしているであろう私をみてくすりと笑う。
わっ、こんな顔して笑うんだ…
穏やかな笑顔に胸がじんわりと熱くなる。
カチッとライターで火を付け、目を伏せて煙を吸い込む。その仕草が妙に色っぽい。学生にもみえる彼の顔立ちに親近感をおぼえながらも、スーツ姿と煙草を吸う仕草が、自分よりもはるかに大人の男性なのだと感じさせられる。
煙草の先にじわりと赤い輪ができて、ゆっくりと煙を吐き出した。
今日もまたこの人の仕草1つ1つに見入ってしまう。目を離せない理由はもうわかっている。
漂ってきた煙草の匂いが、あの日と同じように胸を締め付けたから。
「あ、今更だけど煙草大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「ほんと?匂いとか気にならない?」
「…ずっと苦手だったんですけど、最近平気になってきて」
「吸ってるわけでもないのに珍しいね」
「…そうですね」
沈黙が訪れても然程気にならないのは、雨音が気まずさを和らげてくれているから。しばらくそれに耳を預けて、ぼんやりと雨空を眺める振りをする。
ふぅーと煙を吐く吐息が耳につく。妙にドキドキしておもわず口を開いてしまった。
「どうして雨宿りしてるんですか?傘を持ってるのに…」
こちらを向いて少し目を見開き、灰をトンッと灰皿に落とした。
「あぁ、これ…」
「これ?煙草?」
こくこくと小さく頷いて、また煙草を口元に持っていく。
「近くに取引先があって、そこは基本禁煙だから吸う場所がなくて」
「そうなんですね、肩身狭いですね」
「ねっ、」
苦笑するとポケットからスマホを取り出した。
また沈黙が訪れる。雨脚がだんだんと遠のいて小降りになってきた。頼みの雨音が弱々しくなり、ドキドキとうるさい心臓に手を当てた。
「君の方こそ、どうしてここで雨宿りしてるの?」
「…傘を返すために」
「え?わざわざ?」
「はい…」
「ははっ、律儀な子だなぁ〜」
トントンと灰を落としながらふにゃりと彼の顔が緩んで、どくんと心臓が跳ねた。徐々に顔が熱くなる。目をみていられなくて下を向いた。
「あ、そろそろ行くね」
煙草を灰皿に押し付けると、傘をさして「じゃあね」と慌てて屋根から出て小さく水たまりを跳ねて行ってしまった。
顔を手で覆いその場にかがみ込む。はぁ、と小さくため息をつき、胸に手を当てて息を整える。
「ダメなのに…」
彼の左手薬指が光っていた。
芽生えてしまった感情を取り除かなければいけないのに、さっきから心臓がどくどくとうるさく鳴っている。
「きついな…」
*****
「双葉、なにか落ちたよ…煙草?」
「わっ」
千里先輩が拾ってくれたものを慌てて取ってポケットに突っ込んだ。
千里先輩は一つ歳上の大学の先輩。軽音サークルで知り合い、好みの音楽が同じで意気投合した。作詞・作曲もする千里先輩。彼の紡ぐ繊細な言葉たちとポップな曲調が大好きで、千里先輩を真似てわたしも音楽を作るようになった。
「煙草なんて吸ってたっけ?」
「あー…いや、、、うん」
「どっちだよ」
二度目にあの人に会って以来、あのシャッターが下りた店には行っていない。なんとか自分の中で切り替えようとしているのに、相変わらずあの人の匂いに反応してしまう。
気付いたら煙草を買っていた。試しに吸ってみたけど自分には合わなくて、捨てることもできずに持ち歩いている。
二回会って一言二言話しただけ、名前も知らない相手のことを忘れられずにいる。
知っているのは煙草を吸ってることと結婚してること。
---駅にほど近い噴水広場、芝生が植わっていてベンチがあって、比較的きれいで整備されている。
時々ここで千里先輩とギターを弾く。路上ライブってほどじゃないけど、何も隔たりがない広い場所、陽の光と芝生の匂いに包まれてギターを掻き鳴らすのは最高に気持ちがいい。たまに足を止めて聞いてくれる人や拍手をしてくれる人もいて嬉しくなる。
「なぁ、あの人--」
ギターをケースにしまいながら千里先輩の呼び掛けに顔を上げる。
「さっきからこっち見てるんだけど、知り合い?」
「え?どこ?」
「ほら、あそこで煙草吸ってる人」
目を凝らしてみるが、視力が悪くてはっきり見えない。
「あの人だよね?」
「うん」
ギターを置いて立ち上がる。
ザッザッと芝生を踏みしめて歩いて行く。
少しずつ歩く速度が早まる。
目の前まで来たところで彼が柔らかく笑った。
「やっぱり、ギターの子だった」
穏やかな声色がすっと耳に入ってどくっと心臓を揺らす。
「お久しぶりです」
少し髪が伸びて前髪が目に掛かりそうになっていた。スーツを着ている時とは違って幼く見える。ブラックのロングコートにブルーのニット、ライトブルーのデニムに白スニーカー。ラフな格好なのにスタイルがいいからおしゃれにみえる。
「私服だと雰囲気違いますね」
「あ、そうか。いつも会う時は仕事中だもんね」
“いつも”って言う程会っていないのに顔を覚えてくれてたことが素直に嬉しい。
「さっき歌ってたのは何の曲?」
「タイトルはまだ決まってなくて--」
「え、自分で作った曲?」
「はい…」
「へぇ〜すごいな。うまいね」
垂れた目が細められて笑う。歳上の男性なのにかわいいと思ってしまう。
「ははっ、そうですか」
「うん、歌声もきれい」
歌声を褒められるのがくすぐったくて気恥しい。
「あの--」
話しかけようとした瞬間、彼がおもむろにスマホを取り出す。
「ちょっとごめん---もしもし、」
指に挟まる煙草からゆらゆらと紫煙が漂う。それをぼんやりと見つめているうちに通話が終わった。
「そろそろ行くね」
「はい--」
「あ、さっき何か言いかけてなかった?」
「…あ--…煙草を--」
「ああ、…」
捨てることのできない煙草を彼にもらってほしくてポケットを漁っていると、彼の吸いかけの煙草を差し出された。
「え?」
彼と煙草を交互に見て困惑しているとバツの悪い顔をした。
「あ、ごめん。これ最後の1本だから…さすがに吸いかけはだめだよね、ごめんごめん--」
苦笑しながら引っ込めようとする手を咄嗟に掴む。
「それで、いいです」
「え、でも--」
「それ、ください」
半ば強引に彼から吸いかけの煙草をもらい、迷うことなく口に含む。少しの煙を口内に充満させ、肺に入る前にすぐに吐き出した。
「っ、ありがとうございました」
「いいよ、それあげる。禁煙しなくちゃいけないから、ちょうどよかった」
掠めるように私の頭を撫で、寂しそうに笑った。
「じゃあ、」
去って行く彼の背中を、姿が見えなくなるまでみつめていた。
彼が煙草を吸うことをやめてしまったら、私が彼について知っていることは結婚していることだけ。
「双葉、雨が降ってきたからそろそろ帰ろう」
千里先輩の声で、自分の肩が少し濡れていることに気付く。
「…そうですね」
指の間にある煙草を水玉模様のアスファルトに落として踏み消した。
口の中が苦い
*****
ざあざあ降りの雨の中、恋人たちは好都合だと言わんばかりに一つの傘の中でくっついて歩いている。
クリスマスのイルミネーションが雨に反射していつもより煌びやかでロマンチックな演出をしていた。
眩しすぎるほどの光と煩わしいほどの雨音が視覚と聴覚を侵し、加えて悪寒を感じてふらふらとあのシャッターが下りた店の軒下へやって来た。
ベンチに座り俯いてぼんやりと雨音を聞き流す。
コツコツとアスファルトを鳴らす靴の音がした。
こちらに近付いてくる。
顔を上げると、先程隣に座っていた男子が藍色のチェック柄の傘を差して私を見ていた。
「双葉ちゃん」
「…え、なに?どうしたの?」
「さっき、お店出るとき顔色悪かったから大丈夫かなって」
「…あぁ、大丈夫」
「本当に?」
「うん、本当に大丈夫だから…」
心配してくれてるのに申し訳ないけど、怖い。
よく知らない人だから余計に怖い。
私の跡をつけてきたんだよね。
なぜか私の目の前に突っ立ったまま動こうとしない。どうしたものかと頭を悩ませていると、ぬっと手が伸びて私の額に触れた。
「熱いよ?熱あるんじゃない?」
お願いだから放っておいて。
「あのさ-ーー」
「すみません、」
久しぶりに聞く声にどくんと心臓が揺れる。
「彼女。俺の知り合いなんで預かりますね」
「え…」
「立てる?」
差し出された手を取るかどうか迷いながら、よくわからない違和を感じて彼の顔と手を交互に見る。
あ、指輪がない
いつも目に付く左手薬指が、今日は光っていない。
どうしてだろう、と考えることを放棄して彼の手を取りゆっくりと立ち上がる。ぼんやりと突っ立っている男子にじゃあねと声をかけて彼の差す傘に入った。
まさか自分も、この雨を好都合だと思える側になるとは思ってもみなかった。
「…大丈夫?」
「え?あぁ、はい」
「さっきの子、知り合い?」
「今日初めて会った人です」
「ナンパされてたの?」
「いや…合コンで気に入られたみたいで…どうやって断ろうかと思ってたから声かけてもらって助かりました」
「合コンか〜クリスマスだもんね」
「人数合わせで参加したけど疲れて抜けてきちゃいました」
「熱あるんでしょ?」
ゆっくりと並んで歩いていたのに不意に彼が立ち止まった。
大丈夫です、と口にしたいのになぜか彼から目が離せなくて答えられずにいると、熱っぽい視線を向けられる。
「ウチ近くなんだけど、休んでいく?ーーーって、これじゃあさっきの子と一緒だな」
私はおもむろに彼の左手を取り、指輪の跡が付いた薬指をみつめる。
「さっきの人よりずっと…ずっとずっと酷いです」
雨が激しさを増し傘に当たる音がうるさく響く。彼がなにかを言っているのに雨音に掻き消されて聞こえない。声を拾う為に顔を寄せると、彼の瞳がせつなげに潤んでいた。
「さっきの子に取られたくなかった…誰にも取られたくなくて、つい焦って--」
「“つい”って…後からそんなつもりなかったなんて、ずるいこと言わないでくださーー」
途中で言葉が遮られた。一瞬で周りの雑音が遮断されてなにが起きたのかわからなかった。彼の唇が離れてから徐々に雨音が耳に入ってきた。
「俺が先に手を出したから俺が悪い」
「…そんなの、嫌です」
今度は私が彼の唇を強引に奪った。
善悪の判断なんかしたくなかった。
ただ純粋に彼のことが好きで彼のことを知りたかった。
なにより、彼と対等でいたかった。
唇が離れる。
次はどちらからともなく唇を寄せて傘の中で雨音を聞きながらキスをした。