ありふれた恋の話   (カクヨムでも連載中)

4.サビトラ、笹井の部屋へ

「すみません、お待たせして!」

 かけ寄りながら、ゴミ収集所に先に来て待っていた彼女に声をかけると、

「いえ、私もさっき来たばかりです」

 と笑いかけてくれた。
 今朝よりずっと表情が柔らかい。

 あの時は焦っていて気付かなかったが、個性的な美しさを持つ人だ。背は高い。俺より少し低いだけだから、百六十八くらいか。着心地の良さそうな白の麻シャツにデニムとサンダルを合わせていて、シンプルな服装なのにセンス良く見えるのは、姿勢の良さと整った顔立ちのせいだろう――特に印象的なのが目で、そうするのが癖なのか、話しながらまっすぐに見つめられると、吸い込まれそうな引力を感じる。肩に着かないくらいの、癖のあるボブも似合っていて――。

「笹井さん?」

 あ。まずい。じろじろ見てしまって、失礼だった。

「すみません」
「?」

 俺の心中などもちろん知らない彼女は不思議そうな顔をしたが、

「これ」

 と、手にしていたプラスチック製のキャリーバッグをそっと持ち上げた。

「段ボールが汚れていたのと猫ちゃんが脱走しようとするので、買いました」
「子猫は中に?」

 ずいぶん静かだな。

「満腹になったのと疲れで、さっきからずっと眠っています」

 隙間からのぞくと、サビトラはキャリーケースの隅でくるりと丸くなっている。両手で顔を隠したその姿は、愛らしさそのものだ。

「どうぞ」

 とキャリーを差し出されて、ああそうか、このサビトラは俺が面倒を見るのだったと、当たり前のことを思い出した。朝は勢いで世話を頼んでしまったが、よく考えればその後は貰い手が見つかるまで俺が一人で面倒を見なくてはならない。大学院に進学して時間に余裕ができるとはいえ、今はまだ九月。四月の入学まで半年もある。それまで会社は辞めるつもりはない(期限が決まってしまえば、鬱になりかけたほどの社畜生活も、むしろ学費を稼ぐための手段として最適だと思えてくるから、我ながら都合のいい思考回路をしている)。仕事と猫の世話の両立は俺にできるのだろうか。
 俺はためらいながら、キャリーを受け取った。

「飼うんですか?」
「――いえ。貰い手を探そうかと」
「だったら、これ」

 彼女は斜めがけしているショルダーバッグからパンフレットを出して俺に渡した。

「動物病院のお医者さんがくれました。参考になると思います」

 見るとそれは、この辺りで活動している猫の保護猫団体のリストだ。

「助かります。ありがとう」

 礼を言い、ふと気づく。

「二万三千円ってもしかして動物病院の」
「いえ、動物病院は一万五千円で、残りはミルクと餌などとタクシー――お言葉に甘えて使わせていただきました――です。勝手にすみません。でもネットで調べたら、まず獣医に連れていくように書いてあるサイトが多くて。ノミはもちろん、寄生虫もいるらしくて。猫エイズも。あとは健康診断もしてもらいました――これ、診断結果とお薬です」
「……ということは」
「はい、いました。お腹の中に寄生虫が。しばらくしたら出て来るそうです。ノミとダニは駆除済みです」

 顔には出さなかったが、それを聞いて俺は「ひえっ」となった。虫全般が苦手だし、特にああいうにょろにょろ系は……。

 彼女の話は続く。淡々と、わかりやすく話をする人だ。

「診断書や餌のやり方、子猫の生活についてなど、このクリアファイルに入っています。親切な獣医さんでした。ケージは買わなかったので、うちにあった大きな段ボール、持ってきました。中にトイレと砂、ミルク、離乳食、哺乳瓶、おもちゃ、一通り必要なものを入れてあります。何かご質問、ありますか?」

 またまっすぐ見つめられ、俺はどきりとした。そんな場合じゃないのに。

「――いえ、大丈夫だと思います」
「よかった。じゃあ、これ、領収証です。お知らせしたとおり二万三千円ですが、ご確認下さい」

 彼女は遠慮がちにクリップで止めた束を差し出し、その様子を俺は好ましいと思い、レシートの確認はせずに、

「こちらこそ、ご確認お願いします」
 とスーツの内ポケットから、銀行の袋に入れた二万三千円を取り出して渡した。だが彼女も中身は見ず、「ありがとうございます」とバッグにしまい、「それでは、これで」と会釈した。
「今日は、本当にありがとうございました」
 俺は頭を下げた。
 そうして俺たちは、ごみ収集所の左右に別れた。

 だが数メートル歩いた後。

 振り向くと、なんと彼女も俺を振り返っていて、「猫ちゃんのお世話、頑張ってください! とても賢い子だって、先生、言ってました。私もそう思いました。一日とてもお利口さんでした。トイレもちゃんとできますよ」と明るく手を振った。


 キャリーケースを右腕にかけ、段ボールを両腕で抱え、俺はアパートの階段を上った。すると、サビトラが小さな鳴き声を出した。階段を上った振動で目を覚ましたのだろうか。
 ケースをのぞくと、さっきまで丸まっていたサビトラがちんまりとした三角形になって座り、きょとんとした顔で俺を見上げている。

「そうかお前は賢いか。それならきっといい飼い主が見つかるから、それまで仲良くやろうな」

 思わず語りかける。
 するとサビトラは――ここからはまるでスローモーションのようだった――カッと目を見開き、耳まで裂けるかと思うほど大きく口を開いた。豹変。まるで般若のような形相。全身の毛を逆立て、背を丸めて立つ姿は戦闘態勢だというのは猫素人の俺でもわかる。
 小さな般若は、「ウウウー」と喉から絞り出すような声で唸った後、俺に向かって全身全霊で「シャーーー‼」と威嚇した。
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