ついさっき別れた人がスマホを置き忘れて、そこから始まる復縁Love
「あの、別れたいんだけど……」

 深夜のファミリーレストランの向かい合った席で、私が切り出せば、彼……三ヶ月前から付き合い始めた市川くんの目は、驚きのためかゆっくり大きく開かれた。

 そんな市川くんの反応は、正直に言うと意外だった。

 ……けれど、すぐに元通り……冷たい温度のない視線を私に向けた。

 なんだ。少しだけ、期待してしまった。

 もしかしたら、別れたくないって言ってくれるのかと思った。

 がっかりしてしまった気持ちを奮い立たせて、私はなるべく涙目にならないように表情を保っていた。

 泣きたくない。自分から言い出したことだから。

「わかった。ゆうりがそう言うなら、仕方ない……金、置いとく」

 市川くんはズボンのポケットから財布を取り出し、千円を机の上に置いて立ち上がった。

 そんな待って行かないでと言い出しそうになる気持ちを、必死で押さえて私は微笑んだ。市川くんはスマートな手付きで財布を仕舞い、私と目を合わせる。

 ……わからない。別れる時にも、市川くんが今、何を考えているのか……私のことを、どう思って居るのか。

 これまでも、わからないままだった。

「ごめんね。せっかく……付き合ってくれたのに」

 告白したのはこちらからだし、市川くんは『付き合いたい』と言った私の望みを叶えてくれた。それなのに『別れたい』と言ったのも私から。

 市川くんは私が言った二つの望みを、すんなりと了承してくれただけ。

 そんな彼に感謝の気持ちこそあれ、恨んでなんかない。

「……元気で」

 こんな時にも平静な市川くんはそう言い残して、未練なんてどこにも感じさせることもなく去って行った。

 泣きそうになった私は慌てて、黒い窓の外へと目を向けた。道路に光るのは、無数の車のライト。やけにキラキラと、きらめいているように思える。

 ぽたっと机の上に落ちた涙で、それは目が潤んでいたせいだと気がつく。

「はーあ……呆気、なかったなあ……」

 ため息交じりの小声の嘆きにも、あまりにも悲しくて、逆に笑えてしまいそうだった。

 ほんの一言『わかった』で終わった。

 別れたいと言い出した理由も、詮索されることもなかった。これは、市川くんが気にしなければ聞かれることもない話だけど、私の事を好きでもなんでもなかったんだと再確認出来てより悲しかった。

 ……本当に、呆気なかった。私たちの恋は。

 市川一馬くんは私の居る支社に転勤になった営業で、彼を初めて見た時から好意を抱いてしまうような素敵な男性だった。

 清潔感を感じさせる整った外見に、学生時代には何かスポーツでもしていたのか、鍛えられているやけに逞しい長身。

 どうやら、独身で彼女も居ないらしい。そんな彼にまつわる噂話に聞けば、市川くんを好きにならない理由はない。

 彼が転勤後半年経ってからあった支社長の送別会の後、勇気を出して告白をしたのは自然の流れだった。

 その時にすぐに頷いてくれて、連絡先を交換した。

 私は女子校女子大で女だらけの中、苦手という訳でもなく奥手に育ってしまい彼氏が出来るのは、これで初めてのことで、勝手がわからなかった。

 けど、友人に相談すると市川くんの行動は、私のことを好きだとはとても思えないらしい。

 数人の女性が周囲を取り巻いているくらいモテている男性に、遊ばれているのではないかと。

 確かに、はっきりと私の事が好きだと、一度も言われていない……これは、私が好きで彼に付き合って欲しいと言われたから、ただ頷いてくれただけで仕方ないことだと思っていた。

 これから少しずつわかってくれたら良いなと、そう思って居た。

 私とデートで一緒に居たとしても、不意に離れて誰かと電話している時がある……これは、営業だから休日も対応で、休日にも大変だと思っていた。

 なかなか市川くんの住む部屋に、呼んで貰えない。今は部屋が汚いからと言われて、誘っても貰えない。だから、市川くんが何処に住んでいるのかすら私は知らない。

 もしかしたら、同棲している彼女が居るのかもしれない。

 友人に言わせれば、すべてが怪しくて、これからも付き合うのならば、絶対に追求すべきと言っていた。

 共に働く会社では、そんな二人の関係は秘密になっている……これは、私が提案したことだけど、市川くんは「気を使わせてしまうから、その方が良いよね」と簡単に頷いていた。

 私は告白こそは勇気を出してしたものの、そこの疑いある部分を積極的に市川くんに追求することは出来なかった。

 それに、これが一番重要な点で私たちは二人とも成人した会社員だと言うのに、一夜だって共にしていない。

 もしかしたら、断りづらいと思っているだけであまり好きでもないのに、付き合ってくれただけかもしれない。

 私だけが一方的に好きで居たって、彼が好きでないのなら、この関係を終わらせるべきだと思った。

 だから、ついさっき別れを告げた……今までの三ヶ月が一言で終わった。呆気なかった。

 これまでのいろんな出来事が頭の中をまわり、はあと大きくため息をついた私は、こんな場所で泣いてしまう訳にはいかないし、部屋に戻ろうと思った。

 ……とにかく、温かい布団の中に逃げ込んでしまいたい。そして、終わってしまった恋を嘆きたい。一人だけの、誰にも邪魔されない空間で。

 意を決した私は立ち上がって、机の上に置かれた店の伝票と、市川くんが残していった千円を手に取ろうとした。

「え?」

 椅子の上には、市川くんのスマートフォンが残されていた。咄嗟に自分のスマートフォンから彼に連絡をしようとして、自分のあまりの馬鹿さ加減にため息をついた。

 今連絡なんて、繋がる訳がない。市川くんのスマートフォンは、ここに残されているのに。

 市川くんのスマートフォンは、画面が小さくポケットに簡単に入るくらいの大きさだ。きっと、財布を出す時に一緒に出てしまったのかもしれない。

 私はとりあえず、市川くんのスマートフォンを手に取り、店の外へと出た。

 ひんやりとした空気が頬に触れて、私はこれからどうするべきかと途方に暮れた。市川くんが出て行って時間が経っているし、追い掛けても間に合う訳がない。

「……どうしよう」

 市川くんの家は行ったこともないし、何処にあるか知らない。けど、今日は金曜日で会社で会えるのは、三連休明けの火曜日になってしまう。

 スマートフォンがないと、困るよね。私なら困るし、もしかしたら、何か家族に緊急事態が発生してもわからないままに終わってしまう。

 これは、責任重大だった。

 決して……そうしようとして、そうした訳ではないけれど、話があるからと私の駅の近くにあるファミレスに仕事帰りの彼を呼び出したのは自分なのだ。

 私はとりあえず、駅の方向に向かった。市川くんはここに住んで居る訳ではないから、電車で帰宅することには間違いないのだ。

 もしかしたら、彼だってスマートフォンを忘れたことに気がついて、引き返して来ているかもしれない。

 私が住むこの駅で、市川くんと時折散歩したことがある。彼は営業だから出先からの直帰が多くて、夕飯だけ食べようと言ってくれる日が多かった。

 そして、夕飯だけ食べてマンションの出入り口まで来て帰って行く。

 そういえば……市川くんは態度は冷たく見えると思えば、必ず家までは送ってくれた。夜遅くになれば女性を家まで送ることは、当然の嗜みなのかもしれないけれど……わからない。

 とにかく、初めての彼とは別れてしまった……市川くんと知り合ってからの、あの毎日浮き立つような甘酸っぱい気持ちを……また、いつか味わうことが出来るのだろうか。

 ……もう、一生恋出来なかったらどうしよう。

 堪えていた涙がこみ上げて、駅の近くにある公園を通りがかった、その時。

「うううううっ……うううっ……あああああっ……」

 え。誰か、泣いてる? 男泣きで、すごく聞き覚えのある声で。

 私には信じられなかった。だって、これって……ついさっき別れたあの人の。

 ……もしかして……市川くん?

「無理だっ……別れたいと言われた時に縋り付いたら、復縁出来る可能性が終わるのに……ここで……ここで我慢すれば、また付き合えるかもしれないのにっ……何もせずにっ……耐えるしかないのに」

 道にまで聞こえて来た大きな声に、私は耳を疑った。

 もし、この声が市川くんのものだとすると、彼は私の言った『別れたい』にすんなり頷いた理由は、いつか復縁したかったからになってしまう。

 だから、まさかって……まさかって思った。私のことなんて、好きでないはずの人なのにって。

 これは、違う人で、期待なんて、裏切られて、がっかりするだけかもって……けど、私の足は考えるより先に、大きな声で嘆く男性の前へと勝手に進んで居た。

「……市川くん?」

 信じられない。名前を呼ばれた彼が顔を上げれば、やっぱりそれは、つい先ほど別れたばかりの市川くんだった。

「ゆうり!? どうして」

 やっぱり、公園のベンチで腰掛けて大きな声で泣いていたのは、市川くんだった。

 彼は私が差し出したハンカチを無言で受け取り、一瞬迷った後に涙を拭いていた。

 絶望を感じて叫んでいた様子の男性は、やっぱり……市川くんだった。

 嘘でしょう。本当に? この事態が、まったく理解出来ていない。

 市川くんって……私にこれまで冷たい態度で、他の女性を匂わせるような、怪しい動きが絶えなくて……それなのに、どうしてこんな……こんなことを?

 今目の前にある現実が、信じられなかった。

 市川くんはこれまでに私のことを好きなんだろうと感じさせたことなんてなかったし、いつも気のない素振りで……嫌われているのかなって……いつも、そう思って……。

「……あの」

 私は少し距離を空けて、彼の隣に座って、どうしようここで何を言おうかと躊躇った。

「うん。ごめん……もうこれは誤魔化しが利かないから、ちゃんと説明する事にした」

 市川くんはやけに落ち着いた様子で、淡々と語り出した。

「市川くん……その」

 ここで言いたくないのなら言わない方が良いし、私も無理に言わせたくなかったから、何をどう言って良いかわからなかった。

「うん。俺、実は社会人デビューなんだ」

「え?」

「大学生までまったく、モテなくて……それで、営業部に配属されてから、身だしなみに気を付けるようになって……先輩に勧められて身体も鍛えるようになると、自分でも割と見栄えするなって思って……」

「そっ……そうなんだ」

 もうこうなったらすべてぶっちゃけてやるとばかりに、淡々とした口調の市川くんの目は据わっていた。落ち着いているのかなと思ったけれど、実はやぶれかぶれになっているだけのようだった。

「けど、本社の人間関係では俺が新人の頃イケてなかったって知っているから、そういう目で見られるの嫌で。こっちに転勤したら、絶対可愛い彼女を作ろうと思って。狙っていたゆうりに告白されて嬉しくて……長続きさせたいって相談したんだ」

「そうなの? 市川くん……私と付き合っても、嬉しそうに見えなかったけど」

 付き合う前からも私を狙っていただのと様々な新事実が飛び出し、私は驚き過ぎて市川くんの話を理解するだけで精一杯だった。

 嬉しそうではなかった……いつも、気のない素振りで、礼儀正しいけれど、距離は置かれているようで。

「そういう……浮かれている男は女の目から見るときもいって思われて、せっかく付き合えたのに嫌われるって言われて……」

「思わないよ!」

 好きな人と恋人になれて浮かれない訳ないのに、何を言い出しているんだろうと思った。

「ちが……先輩にっ……先輩に言われたんだ。付き合い初めにもあまり優しくせずに冷たいくらいにあしらっていたら、ゆうりは俺に嵌まって離れて行かなくなるからって」

「冷たくされると、嫌だと思うけど……」

 それは誰だって、嫌だと思う。冷たくされて嬉しい人なんて居るの?

「そういう女の子だって、今日初めて知って……前に言われていたんだ。もし、突然別れを告げられても……別れる時に縋ると連絡来なくなるから、そこでも何もするなって……けど、あまりにも悲しくて、耐えられなくて」

「デートの時に、たまに電話してた人って、もしかして先輩なの?」

 あれって、他に女性が居た訳でもなんでもなくて、相談相手……前に所属していた、本社の営業部の先輩?

「うん……先輩。性欲丸出しにして焦っている奴なんて、女から見たらきもいだけだから、余裕持って付き合えって……そうしたら、絶対、上手く行くからって……いや、上手く行かなかったけど……」

「先輩のこと……信じてたんだ?」

「うん。良い先輩なんだ。女性にもめちゃくちゃモテるから、アドバイス貰ってたんだ」

 ……私はこれまでの市川くんの行動の流れがなんとなく掴めて、ふーっと大きく息をついた。

 市川くんも恋愛慣れしていなくて、初めての彼女にどう接して良いのかわからなかった……? だから、経験豊富な頼れる先輩に相談して、私をつなぎ止めようとしていた?

 なんだ。

 なんだって思った。私、これまで悩んでいた事が、全部が全部馬鹿みたい。

 私は市川くんを見た。

 さっきまで泣いていたから、とんでもない事になっている顔……どれだけ苦悩して、私に縋ろうとするのを押さえていたのか。これを見てしまえば、文句なんて言えないよね。

「市川くん。あの……良かったら、私の部屋に来る? もう遅いし……その顔で電車乗れないし」

 私がそう言うと、市川くんの目はわかりやすく輝いた。

 それを見て、確信した。

 これまでの市川くん像は、彼の先輩の指導によって作り出された偽りの存在。本当の市川くんは頼れる人の言うことを全部信じてしまう、純粋な可愛い人だったんだ。

「……けど、あの……俺たち」

「うん。私たち、確かに十分前……ううん。十五分ほど前に別れたかもしれないけど、もう一度付き合おう? 市川くん」

「ゆうり……それで、良いの?」

 市川くんは恐る恐る私に確認し、私は微笑んで彼の手を取った。

「うん。良いよ。復縁しよ。なんだか、全部が嘘みたいだけど」

 私たち二人は手を繋いで、私の住むマンションにまで帰った。いつもは出入り口で帰ってしまうけれど、市川くんも一緒にエレベーターへと乗り込み、三階にある部屋へと向かった。

「……緊張する」

 エレベーターの静かな昇降音の中、ぽつりと市川くんはこぼして、私は彼に微笑んだ。

「緊張なんて……しなくても、大丈夫」

 私の部屋にやって来た市川くんは、何から何まで目新しいようで、きょろきょろと見回していた。市川くんのこれまでの話通り、やっぱり女の子の部屋に来るのも初めてのようだ。

「お茶入れるね。お風呂入る?」

「えっ……良いの?」

 市川くんは慌てて居たので、私は逆に質問した。

「……もしかして、帰るつもりなの?」

「いやっ……帰らなくて良いなら、それが良いけど……」

 なんとも歯切れ悪く言ったので、私は無言のままで浴室の湯沸かしボタンを押して、コーヒーを入れようと思った。

 所在なく部屋の中に立ち尽くす市川くんは、社会人デビューだったなんて信じられないくらいに、見栄えが良くて私が好きになった彼そのままだった。

 ……泣きすぎて、目が少し腫れていることを除いては。

「はい。そういえば、スマートフォン。返すね」

 私は鞄の中にあった、ファミレスに忘れられていた市川くんのスマートフォンを返した。

「えっ……忘れてた? 気がつかなかった」

 スマートフォンを見て、市川くんは驚いていた。

 そして、私もなんだか罪悪感を覚えていた。

 だって、現代の代表的な連絡手段……スマートフォンがあるかないかまで忘れてしまうような、大きな衝撃を与えるような事をしたのは私だもの。

「あの……なんだか、ごめんなさい。市川くん。私、誤解してて……いつも冷たくて、何を考えているかわからなくて……それに、他に女性居るのかもって思ったら、好きだけど別れた方が良いのかと思って」

 市川くんは私なんかの手に負えるような人ではないのかもって、そう思って居た。正確にはそういう人に指導を受けていただけで、真面目で純粋な人だった訳だけど。

 ほんの少し前まで、私はもう大事な恋をなくしたって思い込んでいた……けど、今はもう違う。

「いや! 何言ってるの。俺が全部悪いのに……スマートフォン、忘れてて良かった。ゆうりと誤解が解けて、本当に良かった」

 市川くんは泣き笑いをしていて、私はそんな彼を見て堪らなくなった。やり方は間違えていたけれど、私のことを好きで居てくれたのは、間違いなかったもの。

「市川くん! ごめんね」

 勢い余って私が彼に抱きつくと、市川くんは慣れない手付きで抱きしめ返してくれた。

「俺が悪いんだ。ごめんね。もっと、先輩みたいに上手くやれたら良かったんだけど」

「私が付き合いたいのは、先輩じゃなくて市川くんだよ! そんなこと言わないで」

 私が顔を見上げると、いつの間にか私たちの唇はくっついていた。唇には濡れた感触がしたと思えば、すぐに熱い舌は割り入って来て、閉じていた歯列を舐め始めた。

「っ……」

 慌てて彼の名前を呼ぼうと思って口を開けば、中にあった舌を絡め取られて、私たちはいつの間にかお互いに舌を絡め合っていた。
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