この再会、運命ですか?
ランチ休憩を終えて戻ってくると、いつになく社内がざわついていた。
「戻りました。なんだかさわがしいですね」
総務部の島のデスクの椅子を引きながら、隣の席の千佳子さんに声をかける。
「おかえり、里依紗。戻ってくるタイミングがちょっと遅かったね」
パソコンのキーボードを打つ手を止めた千佳子さんが、私を振り向いて残念そうに眉尻をさげた。
「何かあったんですか?」
「まぁね。ちょうど二十分くらい前に訪ねてきた国際弁護士さんが、想定外にイケメンだったから、女子社員が興奮して浮き足立ってる」
「弁護士さん……?」
「ほら、定期的に来るじゃない。外国企業と交わす英文契約書の作成とかチェックをお願いしてる国際法律事務所の弁護士さん。里依紗も取り継いだことあるでしょ」
「あぁ……」
千佳子さんの言葉に、小さく頷く。
私が務める大手損保会社は、国内だけでなくアメリカ、ヨーロッパ、アジアなど日本企業のある国にいくつか海外拠点を置いている。
うちには専属の弁護士さんがいないから、契約書などの国際文書を作るときには、国際弁護士事務所にスポットでの依頼をする。
定期的に来てくれるのは、同じオフィス内にある国際弁護士事務所の方だ。
「そういえばときどき来られてますよね。でも、いつも来られてるのは結構なおじさまだったような……」
総務の席はオフィスの入り口に近いから、私や千佳子さんはよく来客の案内を頼まれる。
三ヶ月ほど前にうちを訪ねてきた弁護士さんは、私の父よりも年上かなと思われるくらいの、温和な雰囲気の方だった。
応接室までご案内を担当したけど、女子社員が騒ぐような風貌ではなかったと思う。
「それが、今回は担当が変わったみたい。年は三十歳前後で、背がすらっと高くて、女子ウケしそうな顔の眼鏡のイケメン」
「へぇー」
「へぇー、って。全然興味なさそうね」
適当な相槌を返す私の横顔を見ながら、千佳子さんがクスリと笑う。
「だって、騒いだところで絶対に縁なんかないじゃないですか。イケメンの弁護士さんと、なんて」
「わかんないよー。同じビルで勤めてる弁護士さんだし。顔だけでも売っとけば、お近付きになれるかもじゃん」
笑ってそう言う千佳子さんの目は、手元の書類を追っている。
私と軽く世間話をしながら彼女が考えているのは、来客中のイケメン弁護士ではなくて仕事のことだ。
「そういう千佳子さんだって、全然興味ないんでしょ」
笑いながら、千佳子さんとくっついたデスクの間に置いてあるトレーから、午後から処理する予定だった書類を取り出す。
「私は結婚してるからねー」
書類から視線をあげた千佳子さんが、結婚指輪を嵌めた左手をひらひらさせた。
「ですよね。今日は飯田さん、社内だし、千佳子さんが他の男性のことで騒いでたら気分を害しちゃいますよね」
「そんなことないけど。まぁ、私は元から夫以外にあんまり興味ない」
千佳子さんは、さらっとそう言うと、私とのおしゃべりをやめて仕事に集中し始めた。
ふたつ上の千佳子さんは、美人だけど飾ったところがなくて、性格もさっぱりしていて、部署のなかでも一番付き合いやすい。
一年前に、うちの会社の営業部に勤める飯田さんと社内結婚をしていて、ふたりはかなりの仲良し夫婦だ。
職場ではお互いに業務連絡以外で口をきかないけれど、昼休みに飯田さんがデスクや休憩室で千佳子さんの作ったお弁当を嬉しそうに食べているのを見るたび、幸せそうだなーと、微笑ましくなる。
パソコンのキーボードの上を滑り出した、千佳子さんのネイルの施された綺麗な手。その左薬指でさりげなく輝いている指輪を数秒眺めたあと、私も溜まっている書類の処理とメール対応に取りかかった。
作業に集中していると、しばらくして社内がまた少し騒がしくなる。
パソコンから顔を上げると、ちょうど応接室から社長が弁護士さんとともに出てくるところだった。
応接室の前で社長と会釈を交わす弁護士さんの横顔を見て、あれ? と思う。
なんとなく、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。
社長に見送られてオフィスを出て行く彼の横顔をぼんやり眺めていると、千佳子さんが私の肩をトントンッと突いてきた。
「興味ないって言ってたわりに、結構じーっと見つめてるじゃない。女の子たちが騒ぐのもわかるって感じでしょ」
「たしかにかっこいい人ですよね」
「そうなんだ。里依紗もあんな感じの人がタイプ?」
「別に、そういうわけじゃないですよ」
「でも、里依紗にしてはめずらしくじーっと見てたじゃない」
オフィスの外へと消えて行く弁護士さんの背中をチラッと見ながら、千佳子さんがニヤニヤとする。
「いや、ほんとにそういうんじゃないんです。なんかあの人、見覚えがあるような気がして……」
「同じビルで働いてるから、エントランスとかエレベーターで見かけたんじゃない? もしくは、見覚えがあるって脳が錯覚するくらいにタイプとか」
「だから、そういうんじゃないですってば」
小声でずっとからかってくる千佳子さんに、口を尖らせながら反論していると、弁護士さんが出て行ったドアから入れ違いに宅配便のお兄さんが入ってきた。
「お世話になってます。サイン、お願いします」
そういえば、今日は頼んでいた事務用品が届く日だ。
「あ、はい。行きます!」
千佳子さんのからかいから逃れるために、率先して荷物の受け取りに立ち上がる。
「いつもありがとうございます」
顔馴染みのお兄さんに挨拶して、伝票にサインする。お兄さんが剥がしてくれた一枚目の伝票を受け取ったとき、オフィスのドアが開いて誰かが入ってきた。
「それじゃ、失礼します」
軽く頭を下げて笑顔で去っていくお兄さんに頭を下げ返して顔を上げると、背の高いスーツの男性が私のほうにまっすぐ近付いてくる。
胸元に金のバッチを付けたその人は、ついさっきオフィスから出て行ったばかりの国際法律事務所の弁護士さんだ。
「すみません。ゲスト証を提げたまま出てしまったので、お返ししたくて」
たまたまオフィスの入り口近くに立っていた私に、彼がはずかしそうに笑いかけてくる。
さっきうちのオフィスを去っていくときは、横顔しか見えなかったけど……。
間近で正面から見ると、彼はキリッと引き締まった、整った顔立ちをした男性だ。
「あなたに預けていいですか?」
思わず見惚れてしまった私に、彼が困り顔でゲスト証を差し出してくる。
「あ、はい。お預かりします」
慌てて両手を出してゲスト証を受け取ると、彼が筋の通った鼻にのせた細縁眼鏡の奥で少し目を細めた。
「この会社に勤めてたんだな」
「え?」
「あのあと、ニューヨーク観光は楽しめた?」
「ニューヨーク……」
「ああ、もう忘れちゃってるか」
ぽかんとつぶやく私を見て、彼が微苦笑する。
それからおもむろにスーツの内ポケットに手を入れると、焦茶の革の名刺入れを取り出した。
「新野国際法律事務所の鷹見 琉生です。御社にはこれからしばらくお世話になる予定なので、どうぞよろしく」
彼が私に名刺を差し出してくる。
それをおずおずと受け取ると、彼が軽く会釈して私に背を向けた。
颯爽と立ち去っていく彼の背中を見つめながら、ふと、三ヶ月前にもこんなふうに堂々と歩いていく背中を見送ったことを思い出す。
あのときの彼は眼鏡をかけていなかったし、私服だったから気付かなかったけど……。
私は三ヶ月前にも、彼に会ってる。
マンハッタンのミッドタウンで。
◆
今からちょうど三ヶ月前。一週間の夏休みを利用して、私は姉が住んでいるアメリカに遊びに行った。
五つ年上の姉は国際結婚をして、二年前からアメリカのニュージャージー州に移住した。
ニュージャージー州はアメリカの東海岸側に位置する州で、ハドソン川を挟んだお隣が、マンハッタンもあるニューヨーク州。
姉夫婦は、対岸にマンハッタンの街が見渡せるハドソン川沿いのアパートに住んでいる。
学生時代から海外志向が強くてフットワークの軽かった姉は、短期留学だとかワーキングホリデーだとかであちこちを巡っていたけれど。私にとって、三ヶ月前のアメリカ渡航は人生二度目くらいの海外旅行だった。
一週間の滞在中、姉と夫のジェームズは私をマンハッタンの主だった観光地へと連れて行ってくれた。
セントラルパーク、メトロポリタン美術館、五番街、ブルックリン。姉夫婦の住むニュージャージー州側からリバティー島に渡って、自由の女神も見に行った。
ほかにも、有名なステーキ屋さんやオイスターバーにも連れて行ってもらったりして。一週間のアメリカ滞在は、姉夫婦のおかげでものすごく充実したものになった。
だけど帰国の前日だけ、姉夫婦がふたりとも仕事の予定が入り、一日フリーの日ができてしまった。
そんな私のために姉が取ってくれていたのが、ブロードウェイのチケット。
「せっかくだから、見ておいでよ。基本的に公演は夜なんだけど、このミュージカルは昼間の公演があるんだよね。昼間なら、里依紗もひとりで行って帰って来れるでしょ」
姉が取ってくれていたチケットは、有名なアニメーション映画が元になっているミュージカルだった。
本場のブロードウェイは見たいけど、ひとりでマンハッタンになんで行って大丈夫だろうか。
私はあまり英語が得意じゃない。
観光先のスタバに入って注文したときも、発音が悪いせいで全然伝わらなくて、トールのアイスラテを頼むだけで一苦労だった。
「お姉ちゃんなしで、大丈夫かな……」
「大丈夫、大丈夫。うちのアパートの前のメイン通りからバスに乗れば、ミッドタウンに近いポートオーソリティーの駅まで一本だから。終点だし、絶対に迷わないよ。マンハッタンの街は網の目状になってて、通りごとにストリート名が書いてあるから。それ見て行けば、目的地までちゃんと辿り着ける」
「ほんとに大丈夫かなー」
「大丈夫よ。せっかく海外来たんだから。何事も経験、経験!」
バイタリティーの強い姉に笑顔でバシバシと肩を叩かれて、その日、私はドキドキしながらひとりでマンハッタンの街へと乗り込んだのだ。
姉が言っていたとおり、マンハッタンに行くのは案外簡単だった。
ポートオーソリティーの駅でバスを降りると、スマホのマップと標識を頼りに駅の外に出る。
駅の出入り口を抜けた目の前は、たくさんの車が行き交う大通り。ガラス張りの高層ビル。
あたりまえだけど、周囲は外国の人だらけで、飛び交う英語の中に、たまに違う言語も混ざっている。
都会の雰囲気に圧倒されつつ、きょろきょろしながら劇場へと向かう。
姉が言っていたとおり、目的地までの行き方は簡単で迷うことはなかった。けれど早く着きすぎてしまったようで、劇場はまだ空いていない。
あたりを見渡すとすぐそこがタイムズスクエアで、繁華街の中心地となる交差点が少し先に見えている。
時間があるから、行ってみようかな……。
人の流れに任せて、賑わっている通りへと足を進める。
実は、この旅行中に一度、私はこの場所に訪れている。
姉が「ビルボードやネオンサインがピカピカしているところを見るなら夜のほうがいい」と言うので、数日前に観光の最後にタイムズスクエアに立ち寄ったのだ。
観光客がたくさん集まっていて、夜なのに昼間以上に明るくて。テレビでしか見たことのないニューヨークらしい景色に圧倒された。
たくさんの人が行き交っていることは変わらないが、昼間のタイムズスクエアは夜とはまた雰囲気が違う。
ブランドの看板や通りの景色をスマホで撮影しながらきょろきょろしていると、「Hey, miss!」と呼びかけられた。
立ち止まって振り向くと、体格のガッチリとした黒人の男性が近付いてくる。
早口の英語で何か話しかけられたが、何を言っているのかよくわからない。
なんとなく「どこから来たのか?」と訊ねられているような気がする。
「Japan」
小さな声で答えると、その男性が「コンニチハ」と片言の日本語で挨拶をしてきた。
日本語を勉強されてる人なのかな……。
不審に思いながらも愛想笑いを浮かべると、男性が何かを差し出してきた。
なんの変哲もないプラスチックケースに入ったCDだ。
ぽかんとしていると、彼がまたバーッと早口で何か喋って、そのCDを私に向けながら「free」だと言う。
このCDを無料でくれるってこと……?
頭に疑問符を浮かべていると、背の高い黒髪の男性が私と黒人男性のあいだに割り込んできた。
「それ、受け取らないほうがいいよ。何言われてもスルーして」
割り込んできた彼が、日本語で私に忠告してくる。
サングラスをかけていて目元がはっきり見えないけれど、服装の雰囲気や話し方からして日本人だ。
戸惑っていると、彼が黒人男性にひとこと言って、私の手を引っ張る。
後ろから黒人男性が大きな声で話しかけながら追いかけてきたけど、突然現れた日本人の彼は、私の手を引いてスタスタと進む。
CDを渡そうとしてきた男を撒くと、彼が道の端に寄って立ち止まった。
「一人旅?」
サングラスを外しながら振り向いた彼が、私に訊ねてくる。
その瞬間、彼に目を奪われた。
アメリカに来て一週間。たくさんの人種を見て、髪の色や瞳の色、容姿が綺麗な人がたくさんいると思ったけれど、目の前の彼は、そういった人たちに引けを取らないくらい整った顔立ちをしていた。
思わず見惚れて言葉を失っていると、彼が黒褐色の瞳をいぶかしそうに細める。
「気づいてた? さっきのあれ、何も知らなそうな観光客を狙った詐欺だよ」
「詐欺?」
「そう。この街で、知らない人から渡されるものを気安く受け取らないほうがいい。さっきのも、最初は自作のCDを無料配布してるって言って渡してきて、そのあとで『特別にサインを入れてやったから金を払え』とかって不当な金を要求してくる。断ったら仲間が来て囲まれて、逃げられなくなることもある。大金と引き換えに渡されたCDは、ほとんどの場合、中身が空っぽだ」
淡々とした口調で話される説明を聞きながら、ぞっとした。
たまたま通りかかった彼が気付いてくれなかったら危なかった。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「君、きょろきょろ、ふらふらしながら何の警戒心もなく歩いてたでしょ。日中は観光客も多いし、この辺の治安もだいぶマシになってきてるけど、一人なら気を付けたほうがいいよ」
「はい」
子どもみたいに注意されて、しょぼんとなる。
「これからどこかに行く予定?」
「あぁ、はい。今日はブロードウェイを見に来たんです。もうすぐ劇場に入れると思うので、それを見たらうろちょろせずに帰ります」
やっぱり、海外での一人観光は私にはハードルが高いんだな。
肩を落としながらそう答えると、彼が私を見下ろしてクスッと笑った。
「隙を見せないように気を付けていれば大丈夫だと思うけど」
「そうですかね」
「うん。じゃぁ、俺はこの先の市立図書館に用があるから。ブロードウェイ、楽しんで」
「あ、はい。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げると、彼がサングラスをかけ直して手を振ってから去って行く。
旅行者ではなくて、きっとニューヨークで生活している人なのだろう。
堂々と歩き去って行く彼の背中は、街の風景に馴染んでいてかっこよかった。
もう二度と会えないだろうな。
初めて会って少しだけなのに。
異国で言葉が通じる人に出会った安心感もあるのか、彼との別れを淋しく思う。
今までの人生で一目惚れなんてしたことないし、社会人になってからはまともに恋もしていない。
だから、人混みの中に消えていく彼の後ろ姿をいつまでも目で追ってしまう自分の気持ちに戸惑った。
まさか、また会えるなんて……。
夢みたいな再会に、ひさしぶりに胸が高鳴った。
「戻りました。なんだかさわがしいですね」
総務部の島のデスクの椅子を引きながら、隣の席の千佳子さんに声をかける。
「おかえり、里依紗。戻ってくるタイミングがちょっと遅かったね」
パソコンのキーボードを打つ手を止めた千佳子さんが、私を振り向いて残念そうに眉尻をさげた。
「何かあったんですか?」
「まぁね。ちょうど二十分くらい前に訪ねてきた国際弁護士さんが、想定外にイケメンだったから、女子社員が興奮して浮き足立ってる」
「弁護士さん……?」
「ほら、定期的に来るじゃない。外国企業と交わす英文契約書の作成とかチェックをお願いしてる国際法律事務所の弁護士さん。里依紗も取り継いだことあるでしょ」
「あぁ……」
千佳子さんの言葉に、小さく頷く。
私が務める大手損保会社は、国内だけでなくアメリカ、ヨーロッパ、アジアなど日本企業のある国にいくつか海外拠点を置いている。
うちには専属の弁護士さんがいないから、契約書などの国際文書を作るときには、国際弁護士事務所にスポットでの依頼をする。
定期的に来てくれるのは、同じオフィス内にある国際弁護士事務所の方だ。
「そういえばときどき来られてますよね。でも、いつも来られてるのは結構なおじさまだったような……」
総務の席はオフィスの入り口に近いから、私や千佳子さんはよく来客の案内を頼まれる。
三ヶ月ほど前にうちを訪ねてきた弁護士さんは、私の父よりも年上かなと思われるくらいの、温和な雰囲気の方だった。
応接室までご案内を担当したけど、女子社員が騒ぐような風貌ではなかったと思う。
「それが、今回は担当が変わったみたい。年は三十歳前後で、背がすらっと高くて、女子ウケしそうな顔の眼鏡のイケメン」
「へぇー」
「へぇー、って。全然興味なさそうね」
適当な相槌を返す私の横顔を見ながら、千佳子さんがクスリと笑う。
「だって、騒いだところで絶対に縁なんかないじゃないですか。イケメンの弁護士さんと、なんて」
「わかんないよー。同じビルで勤めてる弁護士さんだし。顔だけでも売っとけば、お近付きになれるかもじゃん」
笑ってそう言う千佳子さんの目は、手元の書類を追っている。
私と軽く世間話をしながら彼女が考えているのは、来客中のイケメン弁護士ではなくて仕事のことだ。
「そういう千佳子さんだって、全然興味ないんでしょ」
笑いながら、千佳子さんとくっついたデスクの間に置いてあるトレーから、午後から処理する予定だった書類を取り出す。
「私は結婚してるからねー」
書類から視線をあげた千佳子さんが、結婚指輪を嵌めた左手をひらひらさせた。
「ですよね。今日は飯田さん、社内だし、千佳子さんが他の男性のことで騒いでたら気分を害しちゃいますよね」
「そんなことないけど。まぁ、私は元から夫以外にあんまり興味ない」
千佳子さんは、さらっとそう言うと、私とのおしゃべりをやめて仕事に集中し始めた。
ふたつ上の千佳子さんは、美人だけど飾ったところがなくて、性格もさっぱりしていて、部署のなかでも一番付き合いやすい。
一年前に、うちの会社の営業部に勤める飯田さんと社内結婚をしていて、ふたりはかなりの仲良し夫婦だ。
職場ではお互いに業務連絡以外で口をきかないけれど、昼休みに飯田さんがデスクや休憩室で千佳子さんの作ったお弁当を嬉しそうに食べているのを見るたび、幸せそうだなーと、微笑ましくなる。
パソコンのキーボードの上を滑り出した、千佳子さんのネイルの施された綺麗な手。その左薬指でさりげなく輝いている指輪を数秒眺めたあと、私も溜まっている書類の処理とメール対応に取りかかった。
作業に集中していると、しばらくして社内がまた少し騒がしくなる。
パソコンから顔を上げると、ちょうど応接室から社長が弁護士さんとともに出てくるところだった。
応接室の前で社長と会釈を交わす弁護士さんの横顔を見て、あれ? と思う。
なんとなく、どこかで見たことがあるような気がしたのだ。
社長に見送られてオフィスを出て行く彼の横顔をぼんやり眺めていると、千佳子さんが私の肩をトントンッと突いてきた。
「興味ないって言ってたわりに、結構じーっと見つめてるじゃない。女の子たちが騒ぐのもわかるって感じでしょ」
「たしかにかっこいい人ですよね」
「そうなんだ。里依紗もあんな感じの人がタイプ?」
「別に、そういうわけじゃないですよ」
「でも、里依紗にしてはめずらしくじーっと見てたじゃない」
オフィスの外へと消えて行く弁護士さんの背中をチラッと見ながら、千佳子さんがニヤニヤとする。
「いや、ほんとにそういうんじゃないんです。なんかあの人、見覚えがあるような気がして……」
「同じビルで働いてるから、エントランスとかエレベーターで見かけたんじゃない? もしくは、見覚えがあるって脳が錯覚するくらいにタイプとか」
「だから、そういうんじゃないですってば」
小声でずっとからかってくる千佳子さんに、口を尖らせながら反論していると、弁護士さんが出て行ったドアから入れ違いに宅配便のお兄さんが入ってきた。
「お世話になってます。サイン、お願いします」
そういえば、今日は頼んでいた事務用品が届く日だ。
「あ、はい。行きます!」
千佳子さんのからかいから逃れるために、率先して荷物の受け取りに立ち上がる。
「いつもありがとうございます」
顔馴染みのお兄さんに挨拶して、伝票にサインする。お兄さんが剥がしてくれた一枚目の伝票を受け取ったとき、オフィスのドアが開いて誰かが入ってきた。
「それじゃ、失礼します」
軽く頭を下げて笑顔で去っていくお兄さんに頭を下げ返して顔を上げると、背の高いスーツの男性が私のほうにまっすぐ近付いてくる。
胸元に金のバッチを付けたその人は、ついさっきオフィスから出て行ったばかりの国際法律事務所の弁護士さんだ。
「すみません。ゲスト証を提げたまま出てしまったので、お返ししたくて」
たまたまオフィスの入り口近くに立っていた私に、彼がはずかしそうに笑いかけてくる。
さっきうちのオフィスを去っていくときは、横顔しか見えなかったけど……。
間近で正面から見ると、彼はキリッと引き締まった、整った顔立ちをした男性だ。
「あなたに預けていいですか?」
思わず見惚れてしまった私に、彼が困り顔でゲスト証を差し出してくる。
「あ、はい。お預かりします」
慌てて両手を出してゲスト証を受け取ると、彼が筋の通った鼻にのせた細縁眼鏡の奥で少し目を細めた。
「この会社に勤めてたんだな」
「え?」
「あのあと、ニューヨーク観光は楽しめた?」
「ニューヨーク……」
「ああ、もう忘れちゃってるか」
ぽかんとつぶやく私を見て、彼が微苦笑する。
それからおもむろにスーツの内ポケットに手を入れると、焦茶の革の名刺入れを取り出した。
「新野国際法律事務所の鷹見 琉生です。御社にはこれからしばらくお世話になる予定なので、どうぞよろしく」
彼が私に名刺を差し出してくる。
それをおずおずと受け取ると、彼が軽く会釈して私に背を向けた。
颯爽と立ち去っていく彼の背中を見つめながら、ふと、三ヶ月前にもこんなふうに堂々と歩いていく背中を見送ったことを思い出す。
あのときの彼は眼鏡をかけていなかったし、私服だったから気付かなかったけど……。
私は三ヶ月前にも、彼に会ってる。
マンハッタンのミッドタウンで。
◆
今からちょうど三ヶ月前。一週間の夏休みを利用して、私は姉が住んでいるアメリカに遊びに行った。
五つ年上の姉は国際結婚をして、二年前からアメリカのニュージャージー州に移住した。
ニュージャージー州はアメリカの東海岸側に位置する州で、ハドソン川を挟んだお隣が、マンハッタンもあるニューヨーク州。
姉夫婦は、対岸にマンハッタンの街が見渡せるハドソン川沿いのアパートに住んでいる。
学生時代から海外志向が強くてフットワークの軽かった姉は、短期留学だとかワーキングホリデーだとかであちこちを巡っていたけれど。私にとって、三ヶ月前のアメリカ渡航は人生二度目くらいの海外旅行だった。
一週間の滞在中、姉と夫のジェームズは私をマンハッタンの主だった観光地へと連れて行ってくれた。
セントラルパーク、メトロポリタン美術館、五番街、ブルックリン。姉夫婦の住むニュージャージー州側からリバティー島に渡って、自由の女神も見に行った。
ほかにも、有名なステーキ屋さんやオイスターバーにも連れて行ってもらったりして。一週間のアメリカ滞在は、姉夫婦のおかげでものすごく充実したものになった。
だけど帰国の前日だけ、姉夫婦がふたりとも仕事の予定が入り、一日フリーの日ができてしまった。
そんな私のために姉が取ってくれていたのが、ブロードウェイのチケット。
「せっかくだから、見ておいでよ。基本的に公演は夜なんだけど、このミュージカルは昼間の公演があるんだよね。昼間なら、里依紗もひとりで行って帰って来れるでしょ」
姉が取ってくれていたチケットは、有名なアニメーション映画が元になっているミュージカルだった。
本場のブロードウェイは見たいけど、ひとりでマンハッタンになんで行って大丈夫だろうか。
私はあまり英語が得意じゃない。
観光先のスタバに入って注文したときも、発音が悪いせいで全然伝わらなくて、トールのアイスラテを頼むだけで一苦労だった。
「お姉ちゃんなしで、大丈夫かな……」
「大丈夫、大丈夫。うちのアパートの前のメイン通りからバスに乗れば、ミッドタウンに近いポートオーソリティーの駅まで一本だから。終点だし、絶対に迷わないよ。マンハッタンの街は網の目状になってて、通りごとにストリート名が書いてあるから。それ見て行けば、目的地までちゃんと辿り着ける」
「ほんとに大丈夫かなー」
「大丈夫よ。せっかく海外来たんだから。何事も経験、経験!」
バイタリティーの強い姉に笑顔でバシバシと肩を叩かれて、その日、私はドキドキしながらひとりでマンハッタンの街へと乗り込んだのだ。
姉が言っていたとおり、マンハッタンに行くのは案外簡単だった。
ポートオーソリティーの駅でバスを降りると、スマホのマップと標識を頼りに駅の外に出る。
駅の出入り口を抜けた目の前は、たくさんの車が行き交う大通り。ガラス張りの高層ビル。
あたりまえだけど、周囲は外国の人だらけで、飛び交う英語の中に、たまに違う言語も混ざっている。
都会の雰囲気に圧倒されつつ、きょろきょろしながら劇場へと向かう。
姉が言っていたとおり、目的地までの行き方は簡単で迷うことはなかった。けれど早く着きすぎてしまったようで、劇場はまだ空いていない。
あたりを見渡すとすぐそこがタイムズスクエアで、繁華街の中心地となる交差点が少し先に見えている。
時間があるから、行ってみようかな……。
人の流れに任せて、賑わっている通りへと足を進める。
実は、この旅行中に一度、私はこの場所に訪れている。
姉が「ビルボードやネオンサインがピカピカしているところを見るなら夜のほうがいい」と言うので、数日前に観光の最後にタイムズスクエアに立ち寄ったのだ。
観光客がたくさん集まっていて、夜なのに昼間以上に明るくて。テレビでしか見たことのないニューヨークらしい景色に圧倒された。
たくさんの人が行き交っていることは変わらないが、昼間のタイムズスクエアは夜とはまた雰囲気が違う。
ブランドの看板や通りの景色をスマホで撮影しながらきょろきょろしていると、「Hey, miss!」と呼びかけられた。
立ち止まって振り向くと、体格のガッチリとした黒人の男性が近付いてくる。
早口の英語で何か話しかけられたが、何を言っているのかよくわからない。
なんとなく「どこから来たのか?」と訊ねられているような気がする。
「Japan」
小さな声で答えると、その男性が「コンニチハ」と片言の日本語で挨拶をしてきた。
日本語を勉強されてる人なのかな……。
不審に思いながらも愛想笑いを浮かべると、男性が何かを差し出してきた。
なんの変哲もないプラスチックケースに入ったCDだ。
ぽかんとしていると、彼がまたバーッと早口で何か喋って、そのCDを私に向けながら「free」だと言う。
このCDを無料でくれるってこと……?
頭に疑問符を浮かべていると、背の高い黒髪の男性が私と黒人男性のあいだに割り込んできた。
「それ、受け取らないほうがいいよ。何言われてもスルーして」
割り込んできた彼が、日本語で私に忠告してくる。
サングラスをかけていて目元がはっきり見えないけれど、服装の雰囲気や話し方からして日本人だ。
戸惑っていると、彼が黒人男性にひとこと言って、私の手を引っ張る。
後ろから黒人男性が大きな声で話しかけながら追いかけてきたけど、突然現れた日本人の彼は、私の手を引いてスタスタと進む。
CDを渡そうとしてきた男を撒くと、彼が道の端に寄って立ち止まった。
「一人旅?」
サングラスを外しながら振り向いた彼が、私に訊ねてくる。
その瞬間、彼に目を奪われた。
アメリカに来て一週間。たくさんの人種を見て、髪の色や瞳の色、容姿が綺麗な人がたくさんいると思ったけれど、目の前の彼は、そういった人たちに引けを取らないくらい整った顔立ちをしていた。
思わず見惚れて言葉を失っていると、彼が黒褐色の瞳をいぶかしそうに細める。
「気づいてた? さっきのあれ、何も知らなそうな観光客を狙った詐欺だよ」
「詐欺?」
「そう。この街で、知らない人から渡されるものを気安く受け取らないほうがいい。さっきのも、最初は自作のCDを無料配布してるって言って渡してきて、そのあとで『特別にサインを入れてやったから金を払え』とかって不当な金を要求してくる。断ったら仲間が来て囲まれて、逃げられなくなることもある。大金と引き換えに渡されたCDは、ほとんどの場合、中身が空っぽだ」
淡々とした口調で話される説明を聞きながら、ぞっとした。
たまたま通りかかった彼が気付いてくれなかったら危なかった。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「君、きょろきょろ、ふらふらしながら何の警戒心もなく歩いてたでしょ。日中は観光客も多いし、この辺の治安もだいぶマシになってきてるけど、一人なら気を付けたほうがいいよ」
「はい」
子どもみたいに注意されて、しょぼんとなる。
「これからどこかに行く予定?」
「あぁ、はい。今日はブロードウェイを見に来たんです。もうすぐ劇場に入れると思うので、それを見たらうろちょろせずに帰ります」
やっぱり、海外での一人観光は私にはハードルが高いんだな。
肩を落としながらそう答えると、彼が私を見下ろしてクスッと笑った。
「隙を見せないように気を付けていれば大丈夫だと思うけど」
「そうですかね」
「うん。じゃぁ、俺はこの先の市立図書館に用があるから。ブロードウェイ、楽しんで」
「あ、はい。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げると、彼がサングラスをかけ直して手を振ってから去って行く。
旅行者ではなくて、きっとニューヨークで生活している人なのだろう。
堂々と歩き去って行く彼の背中は、街の風景に馴染んでいてかっこよかった。
もう二度と会えないだろうな。
初めて会って少しだけなのに。
異国で言葉が通じる人に出会った安心感もあるのか、彼との別れを淋しく思う。
今までの人生で一目惚れなんてしたことないし、社会人になってからはまともに恋もしていない。
だから、人混みの中に消えていく彼の後ろ姿をいつまでも目で追ってしまう自分の気持ちに戸惑った。
まさか、また会えるなんて……。
夢みたいな再会に、ひさしぶりに胸が高鳴った。