今夜、きみの手の上で
「日和、合コン行こうよ」
「えー、私はもっと運命的な出会いがいいの」
会社の近くの居酒屋。同期入社で今年社会人二年目になった私と萌ちゃんは、レモンサワーとハイボールを飲みながら華金を楽しんでいる。入社してから一度も恋愛の進捗がない私に、萌ちゃんはいつも呆れながら合コンとかマッチングアプリとかを紹介してくれるけれど、私はいつも通り首を横に振る。
「運命的な出会いって、例えば何?」
「街で困ってる私を助けてくれた人が、次の日同じ会社の同じ部署に転職してきたとかー、本屋さんで同じ本に手を伸ばして仲良くなったとかー」
「うん、そんなことってないから」
私の想定している運命的な出会いを教えろと言うから話したのに、萌ちゃんはうんざりした顔で残っていたハイボールを一気に飲んだ。
「そんなのじゃ一生彼氏できないからね」
「まだ運命人に出会ってないだけだもん」
「はいはい、もういいよ」
私も口を尖らせながらレモンサワーを飲む。隣のテーブルでは、大学生くらいの男女グループが、ゲームに負けたら飲む、みたいな若い飲み会をしている。私も大学生の頃は、運命的な出会いをしてみたいなんてメルヘンな夢を語ってもぎりぎり許してもらえたけれど、社会人になったらみんな結婚とか今後のキャリアとか現実的な話を始めるから、私はついていけなくなってしまった。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
そろそろお店を出ようかという話になり、お手洗いに向かう。
と、お手洗いから出てきてすれ違った男の子が、ふらふらとお店の出口に向かっていくのが見えた。
荷物も持っていなさそうだけど大丈夫かなと心配になったのと、かなり酔っていたのが気になって思わず追いかけた。
普段なら知らない人にこんなことしないと思うけれど、今回思わず体が動いたのは、彼が隣で飲んでいた大学生グループの中の一人だったから。かなり飲まされていたけれど、こんなにふらふらになっていたとは。
一度席に戻って、持っていたペットボトルのお水を持って外に出た。
「あの、大丈夫?」
居酒屋の入り口を出てすぐ、出入り口には邪魔にならないように少し避けたところに座りこんでいた彼に声を掛ける。彼は驚いたように顔を上げた。
「これ、よかったら飲んで。買ったばっかりで開けてないから大丈夫!いっぱいお水飲んだらちょっと楽になるよ」
「ありがとう、ございます」
差し出したミネラルウォーターのペットボトルを、ゆっくり受け取る彼。前髪で隠れていた彼の顔が見えて、思わずドキッとした。
白くてきめ細かい肌、すっと通った鼻筋、透き通るような瞳、薄い唇。見とれてしまうくらい綺麗な顔に、こっちも急に酔いが回ってきた気がする。
「じゃ、じゃあ、気を付けてね!」
「あ……」
慌ててその場から離れて、席に戻る。
「どうしたの?何かあった?」
心配してくれる萌ちゃんに、何でもないよと答え、居酒屋を出た。
・・・
「そろそろ社会人2年目も終わりだけど、日和は彼氏できた?」
3月31日。年度末を終えて解放感に溢れている私たちは、会社の飲み会に来ている。色々な部署の人が集まっている中、同期で仲良しの萌ちゃんがハイボールのグラスを持って隣に座る。そして分かり切った質問をしてくる。
「できてないってば」
「どうするの?来週の月曜からは新卒も入ってきて私たちもう3年目だよ。まだ運命なんて夢見てるの?」
ちょうど1年くらい前、萌ちゃんと居酒屋で運命を信じてると言って馬鹿にされたりしたけれど、やっぱりまだ運命的な出会いはできていない。というか、正直に言うと諦めかけている。高校生の時は少女漫画を読んでは憧れていたけれど、あれは夢の世界の話で、現実はそんなに甘くないんだなぁと、あまりにも出会いのない社会人生活で思い知った。
「南沢ちゃん、飲んでるー?」
同じ部署の先輩がビールジョッキを持って隣に座り、カンパーイ、とグラスを合わせてくる。
「飲んでまーす」
にこにこ笑いながら自分のグラスに入っていたレモンサワーを飲み干すと、いいねぇ、と追加のレモンサワーを注文された。やばい、今日は年度末なうえに金曜日だからってみんな酔ってる。
「うう……死にそう……」
結局3次会まで開催された飲み会が終わり、駅のホームでベンチに座る。
気持ち悪い。持っていたペットボトルの水も飲み終わってしまったし、近くに自販機も見当たらない。
絶望していると、目の前に影が落ちて、すっとペットボトルが差し出された。
「え……」
私が今一番欲しかった、新品の天然水のボトル。その腕を辿って視線を上げると、綺麗な顔の男の子が立っていた。少し長い前髪からのぞいた顔が、あまりにも綺麗で呼吸を忘れてしまうかと思った。
……なんか、どこかで見たことあるような。
考えたけれど酔った頭では何も思い出せず、差し出されたお水を受け取る。
「いいんですか?」
「はい、気を付けて帰ってください」
「ありがとう、ございます」
受け取ったお水を一気に飲んだら、少しだけ気持ち悪いのが治まった。彼は気付いたら逆方面の電車に乗ってしまっていて、私も電車が来たので乗り込む。また会えるかなって、彼が乗ったはずの電車を見つめながら考えた。
・・・
「今日から営業部にも5名の新入社員が配属になります。じゃあ前に出て、一人ずつ挨拶して」
4月最初の月曜日、私たちの会社にもたくさんの新入社員が入社した。午前中に入社式を終えて、午後から各部署に配属されるらしい。私がいるのは営業部で、営業事務をやっている。部長の紹介で、新品のスーツ姿の男女が前に出てくる。なんだかフレッシュで眩しいな、なんて思っていると。
「えっ」
つい小さく声が漏れてしまって、周りの数人が私の方を見るから、慌ててすみません、と下を向く。
……でも、やっぱりそうだ。
すっと通った鼻筋、透き通るような瞳、薄い唇。金曜日は長かった前髪は少し短くなっているけれど、酔っていた私にお水をくれた、その時の彼と、今新入社員として紹介された彼の顔が重なる。
嘘だ、そんなことってある?いやでも、あの顔を1日2日で忘れるわけない。
そう思ってじっと見つめていた視線がばれてしまったのか、ふと目が合う。瞬間、柔らかく微笑んだ顔に、ああ、やっぱりこの前の彼なんだと確信する。
さすがにこれって運命じゃない?なんて思ってしまうけれど、もう3年目になる私が新卒の男の子に運命感じてるなんて気持ち悪いよね、とすぐ我に返った。
「北見李斗です。営業部希望だったのでここで働くことができて嬉しいです。これからよろしくお願いいたします」
彼の自己紹介に、女子社員たちが色めき立っているのがわかった。そりゃあそうだよね、こんな格好いい人なかなかいないもんね。彼とどうこうなることはないけれど、職場にイケメンがいるに越したことはない。私もうんうん、と微笑みながら拍手を送った。
新入社員は今日は部署の紹介とか教育係の人との打ち合わせをしていてフロアにあまりいなかったので話す機会がなかったけれど、初日ということで歓迎会が開催された。新入社員は真ん中、私は端の方にいたので最初は話す機会がなかったけれど、徐々にみんな打ち解けて、席を代わったりしている中。
「隣いいですか?」
ビールのグラスを持った北見くんが隣に座ってきたので、慌てて姿勢を正す。
「あ、はじめまして!3年目の南沢です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
お互いにお辞儀をして、顔を上げたら目が合って、どちらからともなく笑ってしまった。
「あの、金曜日に助けてくれた人だよね……?」
「あ、覚えてたんですね」
「本当に助かりました。ありがとう!」
「全然。無事に帰れました?」
「はい、おかげさまで……」
「それはよかったです」
スーツの上着を脱いでシャツとネクタイになった姿が、きらきら眩しい。それがこの綺麗な横顔のせいなのか、運命的な出会いのせいなのかはよくわからない。
だって金曜日に助けてくれたイケメンが、名前も聞けなかった彼が、翌週同じ会社に入社してくるって運命過ぎない?
十字路でぶつかった意地悪な男子が同じクラスの転校生だったくらい運命じゃない?
「南沢さんって趣味とかあるんですか?」
「うーん、映画見たり音楽聞いたり、本読んだりとか。本当にインドアなんだよね」
「僕も、映画も音楽も読書も好きです」
「え、そうなの!?嬉しい!営業部ってみんな体育会系の人ばっかりだから、趣味の合う人いなかったんだよね。ちなみにどんなのが好きなの?」
「洋画より日本映画の方が好きです。音楽はバンドが好きで」
「え、私も!私、映画用のSNSアカウントも持ってるくらい映画好きで。嬉しい!今度ゆっくり語り合おうね!」
「ぜひお願いします」
Z世代と呼ばれる新入社員に気を遣っているのか、今日の飲み会は一次会で解散になった。
北見くんとの会話を思い出しながら、電車で思わずにやけてしまう。いい気分だなぁ、なんて思いながら、SNSアプリを起動する。苗字から一文字取っただけの『南』という名前の趣味アカウント。知り合いに教えてはいないので、ネットで繋がった同じ趣味のフォロワーばかりだ。映画をメインに、好きなバンドのライブに行ったとか、最近読んだ本とかも載せている。
タイムラインをスクロールしていると、気になっていた映画公開の告知ポストが流れて来て、『待ってた!土曜日に最寄の映画館観に行こ~』と引用投稿して、スマホを閉じた。
・・・
「はあ、最高だった……」
土曜日。早速気になっていた映画を観に、家から一番近い駅のショッピングモールにある映画館に行った。映画のお供はキャラメルポップコーンとストレートのアイスティーと決めている。
大学生の男女が出会って、恋に落ちて、社会人になって、別々の道を行く切ないラブストーリー。私の好きなバンドの曲になんだか雰囲気が似ている気がして、シアターを出てすぐにイヤホンを取り出し、スマホでその曲を再生する。
そのままSNSアプリを開いて、『映画最高だった!sumireの曲に雰囲気似てる気がして聴きたくなっちゃった』と投稿した。さっきの映画の余韻に浸って音楽を聴いて、映画のグッズコーナーを見ていると。
「南沢さん?」
突然声を掛けられて、驚いて振り返ると、耳に差していたイヤホンを片方外して、驚いた顔をしている北見くんがいた。
「ええ!?どうしてここに……」
「これ、観に来たんです。南沢さんも本当に映画好きなんですね」
クスリと笑って、ちょうどさっき私も観ていた映画の半券を見せる彼は、休日だからスーツじゃなくて私服で、黒を基調としたシンプルな服装にドキッとしてしまう。
「私も同じの見てた、」
「じゃあ同じシアターにいたんですね。この映画、sumireの曲に似ててすぐ音楽聴いちゃいました」
ふっと笑う彼に、目を見張る。
「え、なんて……」
彼が見せたスマホの画面には、まさに今私の左耳からも流れているこの曲。こんな偶然があるの?
これが運命じゃなかったら、何だって言うの?
「私も、同じこと思って、同じ曲聴いて……」
スマホの画面を見せると、北見くんも驚いた顔を見せる。
「なんか、運命みたいに気が合いますね」
もうだめだ、こんなの、恋に落ちるなっていうほうが無理。
「南沢さん、よかったらこの後お昼ご飯どうですか?映画の感想話したいです」
「い、行こう!」
映画館の入っているショッピングモールの中のイタリアンに入って、ランチを食べる。ソファー側に座らせてくれるし、私が迷っていたメニューを両方頼んで半分こしてくれるし、北見くんは少女漫画のヒーローみたいだった。話していてわかったけれど、同じバンドが好きで、推理小説が好きなのも同じらしい。
「今日は楽しかったです。また月曜日、よろしくお願いします」
「うん、お疲れ様」
こんなことってあるのかなと、家に帰りながら考える。酔っ払っているところを助けてくれたイケメンが、同じ会社に入社してきて、趣味もぴったり同じで、同じ映画館で同じ映画を観て、同じ曲を聴きたくなって。そんな偶然って、本当にあるのだろうか。これが運命じゃなかったら、なんだっていうんだろうか。北見くんに迷惑をかけないように距離感には注意しようと思うものの、気付いたらプレイリストはラブソングばかりになっていた。
・・・
「はぁ、緊張する……」
「南沢ちゃんの方が先輩なのに新入社員の北見の方が落ち着いてるな」
19時、タクシー。今日は担当の取引先との接待に、部長と北見くんと私の3人で向かっている。元々私が事務の担当をしていたところで、営業は男の先輩がやっていた。でも3月末で先輩が部署異動してしまって、次の担当は北見くんになるらしい。新メンバーになるから決起会をしようということで、新担当の北見くんと、引き続き事務担当をする私も接待に呼ばれた。事務担当で接待に呼ばれることはあまりないから緊張してしまう。いざとなっらた部長がどうにかしてくれるとは言っているけれど、失礼のないようにしなくちゃ!そう意気込んでいる私の隣で、北見くんは落ち着いている。
「北見くんは緊張しないの!?」
「してますよ」
「してないよね!?」
「顔に出ないタイプなんです」
綺麗な横顔は少しも動じていなくて、本当か?と疑ってしまう。そんな私たちの姿を、部長がくすくす笑いながら見ていた。
「南沢さん結構飲めるね」
「この日本酒も美味しいから飲んでみる?」
「あ、ありがとうございます!」
最初に結構飲めそうな雰囲気を出してしまったのが間違いだったかもしれない。おすすめの日本酒を何杯か飲んで、酔っているはずだけど緊張のせいかあまり酔いが回ってこない。これ以上飲みたくないなぁと思いながらも断って空気を壊すこともできず、結局おちょこを受け取ってしまう。
「いやぁ、楽しかったですね。これからもよろしくお願いします」
結果、取引先の人たちは上機嫌で帰って行った。
「じゃあ俺はあっちだから。君たちもタクシーで帰っていいからね。交通費出るから」
部長を見送った瞬間、はぁー、と道路の端に座り込む。
「大丈夫ですか?すごい飲んでたけど……」
「大丈夫じゃないかも。急に酔いが回ってきた……」
くらくらする頭。視界がぼやけているし、気持ち悪い。
頑張って立ち上がろうとしたけれど足元がふらついて、転びそうになったところを北見くんが支えてくれた。
北見くんはあまり酔っていないみたいで、冷静にタクシーを止めて、一緒に乗り込んだ。
「住所言えますか?」
運転手さんに住所を伝えて、タクシーが発進してからはっと気づく。
「え、北見くんの家はどこ?こっちなの?」
「送りますよ、家まで」
「そんなのいいよ!申し訳ないよ!」
「いいです。心配なんで」
あまりにもはっきり言うから、私も引き下がって、起こした体をもう一度背もたれに埋めた。
「……」
少しの沈黙。タクシーの窓から走り去っていく夜景を見ていると、窓の反射で北見くんの横顔が見えた。
窓に映る彼の視線が私に向く。お酒が回っているからか、それとも本当にそうだったのかわからないけれど、北見くんがなんだか、甘い目をしていた気がして。
何となく左手を、北見くんと私の隙間に置く。北見くんも反対側の窓を見たから彼の表情は見えなくなって、その代わりに、私の左手に重なった体温。上から大きな手で包み込まれて、私も指を絡めて握り返す。
酔いなんて醒めちゃうくらい心臓が脈打って、体中が熱くなる。きゅ、と少し力を込めれば、同じくらいの力が返ってくる。触れ合う体温がだんだん同じ温度になって、なんだか息が苦しくなった。
「着きましたよ」
運転手さんの言葉でハッと我に返り、慌ててお財布を探しているうちに、北見くんが払ってくれていた。
一人暮らしの私のマンション。タクシーを降りる時に繋いでいた手は離れて、熱を失った手のひらには外の空気がやけにひんやりと感じる。ここまでで大丈夫だよと、言うのがもったいなくて言わないでいたら、北見くんは部屋の前まで送ってくれた。
「あの、ありがとう」
「こちらこそ、お疲れさまでした」
さっきのは、どういう意味なのとか。私のこと、どう思ってるのとか。
聞きたいことはたくさんあるのに、お酒のせいかうまく言葉が出てこない。
鍵を開けて、ドアを開けて、振り返る。
このまま、一緒に来てくれたらいいのに。じっと見つめると、北見くんは初めて、少し照れたように目をそらした。
「そんな顔しないでください。我慢できないです」
「……しなくても、いいのに」
そう言えば、少し動揺したのがわかる。
「酔った勢いって思われたくないので、玄関までにします」
ギイ、と閉まったドア。オートロックの鍵がかかる。玄関までってどういうことなんだろうと思ったけれど、靴は脱がないって意味なのかなと、靴を脱ごうとしない彼を見て思った。
狭い玄関で向かい合う。少しだけ、手が触れる。北見くんからは、シトラスの匂いがした。
「その香水、私も持ってるかも」
「本当ですか?お揃いですね」
ねえ、どうして?どうしてこんなに、一緒なの?
これが運命じゃなかったら、他に何なの?
「きたみくん」
「はい、南沢さん」
「……こんなに一緒だと、運命みたいって思っちゃうよ」
恥ずかしくて顔を上げられない。頭の上から、低くて透き通った声が降ってくる。
「思わせてるんですよ。運命“みたい”でしょ」
「え……?」
「なんでもないです」
よくわからなくて顔を上げた私に、北見くんは片方の口角を上げて、いたずらっぽく笑う。
「私のこと、好きってこと?」
「はい」
「……私、メルヘンだから重いよ。運命とか信じてるし、最初で最後の恋がいいとか、割と本気で思ってるよ」
「僕もです」
「……死ぬまで、一緒にいてくれる?」
冗談のつもりで、そう言ったら。
「死んだくらいで僕から逃げられると思う?」
目を細めて、口角を上げて。余裕たっぷりの表情で、私を見下ろす彼がいた。
私は彼のことを、まだ全然知らなかった。
1年前、萌ちゃんと飲んでいた居酒屋の隣のテーブルにいた大学生グループに彼がいたことも、私たちの会話を彼が聞いていたことも。彼が酔っ払った私を助けたのも、私の会社に入社したのも、本当は偶然じゃなかったってことも。
私の趣味用SNSアカウントに、いつしか『北』って名前の初期アイコンのフォロワーがいたことも。
彼が、私が思うよりずっと前から、ずっと大きな想いを抱えていたことも、全部。
まだ、私は知らない。
これは仕組まれた運命で、私はずっと彼の手のひらのうえにいるってことも。
……知らなくていいよって、彼は笑うだろう。