檻の中の狂愛
 静寂な祈りの間に、柔らかな光が注いでいた。

 私は膝をつき、手を組みながら祈りを捧げる。しかし、指先に宿る神聖な光は、以前よりもずっと弱々しくなっていた。
 かつては手を翳せば傷が癒え、温かな光が周囲を満たしていたのに、今では微かな輝きが指の隙間から零れるだけ。

(……やっぱり、もう限界ね)

 二十七歳まで聖女を務めた者など、歴史を遡ってもほとんどいない。普通なら二十歳前後で力が尽き、次の聖女に役目を引き継ぐものだ。私は例外中の例外として教会に留まり、長きにわたって民のために祈り、癒しを施してきた。

 だが、それもそろそろ終わるのだろう。

 このことを自覚したのは数週間前。神官たちに力の翳りが出ていることを告げると、皆が驚き、そしてこの話はすぐに教会全体へと広まった。そればかりか、王宮にまで伝わり、国王陛下の耳にまで届いたというのだから大事だ。

(……静かに引退させてほしいわ)

 自分が聖女ではなくなる日が来る。考えたことは何度もあったが、いざ現実味を帯びると、どこか心がざわついた。もちろん、引退できること自体は喜ばしい。やっと自由になれる。やっと、好きなことができる。

 だけど——何をする?

「……はぁ」

 祈りの間を出た私は、思わずため息を漏らした。
 聖女でいる間は結婚が禁じられているため、私は独身のままこの歳になってしまった。聖女を降りれば、元聖女という肩書を持つ女性は幸福の象徴として扱われ、貴族や王族にもらい受けられるのが常だ。だけど、さすがにこの歳になってしまうと、貰い手はないだろう。

(結婚しないとなると、やはり田舎にでも引きこもるのが無難かしら)

 のんびりと庭で花を育て、余生を穏やかに過ごすのも悪くない。そんな考えが浮かぶものの、長く教会に閉じこもっていた者が果たしてうまくやっていけるのか……。
 心配事は尽きず、自由になれるというのに、どうにも心が晴れない。

「セリーヌ様?」

 深く考え込んでいたせいか、声をかけられたことに一瞬反応が遅れたが、私はすぐに返事をする。

「……ごめんなさい。なにかしら?」
「この後、王宮の騎士がいらっしゃる時間です。治癒の準備をなさったほうがよろしいかと」
「あぁ……そうですね」

 慌てて立ち上がり、裾を整える。今日は定期的に行われる騎士たちの治癒の日だった。戦場で傷を負った者たちが教会を訪れ、聖女の手で治療を受ける。私にとっても長年の務めのひとつだ。
 廊下を歩きながら、私は自然と一人の騎士の姿を思い浮かべた。

(……エリオット様、また来るかしら)

 教会に頻繁に顔を出す王宮騎士の中でも、ひと際目立つ存在。それがエリオット・ヴァルフォード様だ。
 彼は孤児から騎士へと成り上がり、数々の戦果を上げ、ついには伯爵位まで手にした人物。王都でも有名な存在であり、その外見の美しさもあって、聖女仲間や教会の使用人たちの間では人気が高い。
 実際、治療の時間になると、彼の姿を見つけた女性神官や聖女たちがこっそりとささやき合っているのをよく目にする。

「今日もエリオット様がいらっしゃるかしら?」
「もしまた怪我をしていたら、今度は私が担当したいわ!」
「でも、セリーヌ様が指名されることが多いのよね……」

 ——そんな会話が、あちこちから聞こえてくるほど、彼は話題の中心にいる人でもある。
 とはいえ、私が彼の治療を担当する機会が多いのは、指名ではなく神官が決めたことのはずなのだけど。

 治癒の間に入ると、すでに何人かの騎士が集まっていた。その中に、エリオット様の姿もあった。
 遠目にも目を惹く堂々とした佇まい。鎧の隙間から覗く逞しい腕には、新しい傷が刻まれていた。

 神官が私のもとへと騎士たちを案内する。
 私は次々に騎士たちを治癒し、やがてエリオット様の番となった。 彼は騎士の礼をし、ほんの少し私と目を合わせた後、黙って跪く。
 聖女と治療対象の間で私語は禁じられている。
 エリオット様はいつも、跪く前に私と視線を交わし、何か言いたげに口を開きかける。だが、言葉を告げることはない。
 そして私もまた、聞くことができない。

 そんなもどかしさをお互いに抱えながらも、今日も私は黙って治癒の光を掌に宿し、彼の傷へと手を翳した。
 淡い光が傷に染み込んでいく。

(……私語が許されるなら、彼は私に何を伝えたかったのだろうか)

 そんな考えが浮かび、私は手元に意識を戻す。

(何を考えているの、私……)

 気を取り直して治療に集中する。
 やがて治癒の光が消える。傷跡は跡形もなくなっているのを確認した私は、そっと礼をして次を促した。
 エリオット様も静かに一礼し、言葉を交わすことなくその場を後にした。

 こうして何度、彼の背を見送ったのだろう。エリオット様を初めて治癒してから今日まで、約十年間繰り返された時間。
 だけど、その時間もまもなく終わる。

 彼の言葉を聞けないまま——。

   ◇ ◇ ◇

 部屋に入ると、そこには椅子に腰かけ、落ち着いた雰囲気で待つ第二王子アレクシス殿下の姿があった。

 変わらぬ端正な顔立ちと、品のある佇まい。王族としての風格を備えつつも、柔和な微笑みを湛えたその表情は、十年前の記憶と変わらない。
 私は静かに礼をし、向かいの席に腰を下ろした。

「突然の訪問、お許しください」

 そう言って、殿下は私に向かって丁寧に頭を下げた。

「いえ、とんでもありません」

 私は慌てて言い、恐れ多くてすぐに顔を上げてもらう。

「貴女が聖女を引退されると聞き、居てもたってもいられなくて……。どうしても、貴女に直接お伝えしたいことがあり、参りました」
「伝えたいこと……?」

 殿下が私に? 疑問に思っていると、殿下は静かに言葉を続けた。

「セリーヌ殿。私は、貴女を私の妃として迎えたい」

 一瞬、心臓が跳ねた。

(……妃?それって……)

 何かの聞き間違いかと思ったが、殿下の真剣な眼差しを見る限り、そうではないことは明白だった。

「私はずっと、貴女に想いを寄せていました」

 殿下の言葉に驚く。もしかして、殿下もあのときのことを覚えているのだろうか——

「私と舞踏会で会った時のことは、覚えていますでしょうか。貴女は緊張しながらも健気に振る舞い、私の差し上げた菓子を幸せそうに食べる姿が、とても可愛らしかった」
「あの時は……、殿下のおかげで緊張が和らいだのを今でも覚えております」

 私の言葉に、殿下は微笑みを見せてうなずいた。 

「それは良かった。少ししか言葉を交わせませんでしたが、それでも、貴女の聡明さと、聖女の力に目覚めていないはずのあの頃から、慈愛に満ちた雰囲気に惹かれました。貴女といると、不思議と心が穏やかになる——ずっと一緒にいたいと、そう思った相手は、後にも先にも貴女だけです」

 私は口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。まさか、そんなふうに思っていてくださったなんて……。

「しかし、求婚を打診しようとした矢先、貴女は聖女に召されてしまった」

 たしか、あの晩餐会のすぐ後に私は聖女の力に目覚め、教会へ召集されたのだった。

「聖女として国を支えてくださる貴女を、私はずっと見守るしかありませんでした。聖女である間は結婚が許されませんからね」

 殿下は穏やかに微笑む。

「ですから、貴女が聖女を降りると聞いた今——私はすぐに貴女を迎えるために動くと決めました」

 あまりの急展開に、私は何も答えられずにいた。すると、殿下は静かに続けた。

「急にこのような話をして、戸惑われたことと思います。まだ、聖女を降りるわけではありませんから、すぐに返事を求めるつもりはありません。ただ、貴女の意思を尊重したい」

 その言葉に、私は僅かに息をついた。

「ありがとうございます、殿下」

 時間をくれるというなら有難い。なぜなら、不安がありすぎるから……。

(……私は、結婚などできるのかしら。なにより、王族になんて……)

 長年聖女として生きてきた私は、一般の令嬢のような社交のマナーを身につけていない。なにより、愛を知る機会すらなかった。誰かと家庭を築く未来を、具体的に思い描いたことも——。

 そのとき。
 ふと、脳裏をよぎったのは、青い瞳の騎士のことだった。

 傷を癒されるたびに、私をじっと見つめていた視線。
 何度も、何かを言いたげに口を開きかけていた彼の姿。

(……なぜ今、エリオット様のことを思い出したの?)

 自分自身に困惑する。
 沈黙が続いたせいか、殿下が心配そうに声をかけてくれた。

「セリーヌ殿?」
「申し訳ありません。少し……考えごとをしておりました」
「構いません。ゆっくりと考えてください」

 殿下はそう言い、静かに部屋を後にした。

 彼の背が見えなくなった後、私は小さく息を吐く。

(……私は、どうすればいいの?)

 求婚という事実を前に、心が乱れるのを感じた。
 けれど、揺らいでいるのはそれだけではない気がして——私は、そっと胸に手を当てた。


   ◇ ◇ ◇


 剣を握る手に、わずかに力がこもる。
 訓練場には数人の騎士がいたが、周囲のざわめきは耳に入らなかった。
 今、自分の意識を占めているのは、たったひとつの事実——
 セリーヌ様が、第二王子の婚約者に選ばれたということだった。

(ふざけるな!)

 何度も胸の内でその言葉を繰り返す。

 どれだけ待ったと思っている。セリーヌ様が聖女を降りる日を——。
 
   ◇ ◇ ◇

 セリーヌ様と初めて出会ったのは、自分がまだ幼い頃だった。
 孤児院にいるのが嫌で、何度も脱走を繰り返していた。だが、所詮は幼い子供の逃亡。外の世界で生きていけるはずもない。
 それでも、あの場所に閉じ込められているのが耐えられなくて、何度も逃げ出しては連れ戻された。
 
 何度目かの脱走のその日——雪が降る寒い日だった。
 街の隅で寒さに震え、空腹で動けなくなり、「このまま死ねたらいい」とさえ思っていたその瞬間。
 目の前に、柔らかな光が舞い降りた。

「あなた、大丈夫?」

 透き通るような金の髪。青空のように澄んだ瞳。
 まるで聖母のように微笑みながら、彼女は何のためらいもなく、自分の持っていたクッキーを差し出した。

「お腹が空いてるなら、これを食べて」

 傍にいた従者が困ったような顔をしながらも、彼女の願いを仕方なく聞き入れた様子でパンも手渡してくれた。
 貴族の子女なら、道端で倒れた孤児を忌避するのが当然だというのに。彼女は、何の躊躇いもなく手を差し伸べてくれた。
 傍にいた従者は「またか」という表情をしていたので、これが彼女の当たり前なのかもしれない。
 だけど、彼女の中の当たり前の一人だったとしても、自分の存在が、初めて誰かに認められた気がした。
 
 このときから——彼女のために生きようと決めた。

 貴族令嬢と孤児では、到底釣り合わないことはわかっていた。
 だから、騎士になった。
 誰よりも強くなれば、彼女を守ることができる。
 誰よりも功績を上げれば、貴族としての地位を得られる。
 彼女に見合う男になるために、どんな苦痛も耐え抜いた。
 そして、ついに騎士として名を上げ、伯爵位を得た。
 
 これで、やっと彼女の隣に立てる——そう思った矢先。
 彼女が聖女として教会に召されることが決まった。
 
(……あの時ほど絶望したことはなかった)
 
 聖女になった彼女は、もはや誰のものにもなれない。
 触れることすら許されない存在になってしまった。
 それでも、自分は彼女を待つことに決めた。
 
 聖女は長くても二十歳を過ぎれば役目を終える。
 その時が来たら、必ず迎えに行く。
 そう誓って、ずっと見守り続けた。
 
 だが——彼女は異例の長さで聖女を続け、ついに二十七歳になった。
 しかし、ようやく引退の兆しが見え始めた。
 
 だから、自分はすぐに教会に婚姻の打診をするつもりだった。
 
 なのに——。

(第二王子が、先に動いた……!)
 
   ◇ ◇ ◇

「エリオット様?」

 声をかけられ、ハッとする。
 見ると、部下の騎士がこちらを心配そうに見つめていた。

「先ほどから、随分荒い剣さばきをなさっていますが……大丈夫ですか?」
「……問題ない」

 低く返し、剣を鞘に収める。
 確かに、自分でもわかるほど剣さばきが乱れていた。
 
(……冷静になれ)
 
 訓練場を後にし、人気のない廊下を歩く。
 壁に手をつき、深く息を吐いた。
 
「はは……」
 
 自嘲気味に笑う。
 だが、すぐに笑みは消えた。
 
 もし、本当にセリーヌ様が第二王子の妃になるのなら——。
 もう二度と、彼女のそばにはいられない。
 もう二度と、彼女を見つめることすら許されない。
 
 そんなことは、耐えられるわけがない。
 
(……どうする)
 
 このまま何もせず指をくわえて二人の結婚式を見届ける? 
 そんなことができるはずがない。
 
 だが、相手は王族。
 今回ばかりは正面から対決しても勝てる相手ではない。
 
 考えろ。方法はあるはずだ。 
 冷静に、論理的に。今、必要なのは感情ではない。 
 セリーヌ様を手に入れる方法——それだけを考えろ。
 
(……動くか)
 
 まだ、終わりではない。
 
 そう——これからが、本当の始まりだ。
 

   ◇ ◇ ◇

 
 その夜——教会から、聖女セリーヌが消えた。
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