ヤンデレ後輩男子の底なし溺愛包囲網からは……逃げられない【一話だけ大賞参加作品】
太陽が沈めば恋人たちの時間が始まる。
が、翠山陽希の熱を帯びた目は太陽が海に消えのるを待ちきれず、はやく彼女を貪りたいと急かすように小美地彩絵を見つめる。
砂浜には今、ふたりきり。はるか彼方から旅してきた波は傾いた陽を浴びて黄金に輝き、浜に打ち寄せては去っていく。
朱金の空は徐々に紺碧を増し、輝く一番星がさやかに彼らを照らしていた。
「愛してる」
彩絵の耳に届くその声は禁断の花の蜜のように甘い。
この後輩は背が高く、繊細な顔立ちは中性的で、仕事の優秀さもあって会社では人気が高い。その花びらのような唇がとろけるように囁き、優しげに垂れた紅茶色の目に映るのは彼女だけ。
そよりと風が吹き、彼の茶色の髪がきらきらと揺れた。
「愛してる、だからね」
陽希は彼女の頬を両手ではさみ、顔をそらせないようにしてから言う。
「だから、ほかの男を見ないで」
「翠山くん……」
彩絵は自身の頬に熱を感じた。内から生まれるそれを持て余し、みじろぐ。
これじゃ赤くなってるのが彼にバレちゃう。
そう思うのに、彼は手を離してくれない。
「陽希って呼んで」
「陽希くん」
「嬉しい、彩絵さん。愛してる」
彼の両手がゆるゆると頬を撫でて降りていき、首に触れる。
「華奢な首だね。すぐ折れてしまいそう」
彼は愛おしげに呟き、手だけで抱きしめるように包む……まるで首を締めるかのように。
急所を温かく包まれている緊張と彼の指の感触に、彩絵の背筋がぞくぞくと震えた。
彼の顔が近付く。
このままキスされちゃうのかな。
彼女はただどきどきして彼を見つめていた。
だけど。
「だけど、もしほかの男を見たら――」
彼が目を細め、複雑な色が浮かんだあと、暗く光った。
「そしたら殺すから」
キスと同時に視線で鋭く射抜かれ、愛おしげにやわらかく首を締められた。
***
話し声とパソコンのタイプ音とがさわさわと響き合い、空調の音がささやかに混じる。
都内のいつもの職場でいつものようにパソコンに向かい、彩絵はキーボードを打つ。
営業から頼まれた資料の作成だった。
見やすく使いやすくを心がけてデータを打ち、まとめていく。
彼女が勤めるオリタケ株式会社は明治時代に食器の生産からスタートして、今は工業機材やセラミックマテリアル事業などで宇宙開発にまで貢献する会社となっている。
「小美地さーん」
声をかけられ、彩絵は手を止めて振り返った。
そこには後輩の湯丘紀璃子がいた。入社二年目の二十四歳、はつらつとしたかわいい後輩だ。三十一歳の彩絵とは七歳も違うが、仲良くしている。
「もうすぐ定時ですけど、今日の合コン、ちゃんと来てくれますよね」
「先輩、合コン行くの?」
通りかかった陽希が立ち止まった。彼もまた彩絵の後輩であり、二十五歳だ。懐いてくれているから彩絵もまたかわいがっている。
生まれつきの薄い茶色の髪と紅茶のような色の瞳。その目は垂れて優しげだ。顔立ちは日本人離れしていて美しく中性的で背が高く、社内では人気ナンバーワンだ。営業成績も常にトップを争っている。
「ずっと彼氏いないって言うから、小美地さんのための合コンなの。金曜日だからゆっくりできるし」
紀璃子が上機嫌で答える。
「ええ!? 人数合わせって言ったじゃない。」
だから了承したのに、まさか自分のための合コンだったなんて。
「そう言わないと来てくれないじゃないですかあ。しかもオシャレしてきてって言ったのに」
「ごめん、これが精いっぱい」
彩絵は苦笑いとともに応えた。オフィスカジュアルで私服OKだが、派手にするわけにもいかないし、数年ほど色恋沙汰とは縁がない――というのは言い訳であまりオシャレに興味がないため、オシャレな服を持っていなかった。
「先輩はどんな服着ててもきれいですよ。大好きです」
陽希がにこにこと笑っていう。
「翠山くんはいつもいいフォローくれるよね。ありがとう」
彩絵もにっこりと笑って返す。お世辞を真に受けるような年齢ではないと示すように。
「俺は本気で言ってるのに」
「はいはい」
「またそうやって流して。心配だな、先輩がお持ち帰りされたらどうしよう」
「そんなことにはならないよ」
彩絵が苦笑すると、紀璃子はあきれたように言う。
「小美地さん、もっと自信もったほうがいいのに」
「ありがとう」
合コンはありがたくはないが、心配しくれている気持ちは嬉しかった。
「なんか盛り上がってる?」
外まわりから戻ってきた北影敬弥が声をかけてきた。
敬弥は営業のエースで陽希とトップを争っており、黒髪にブラックコーヒーのような瞳が印象的だ。
顔の良さもあり人気ナンバーワンを陽希と共有している。陽希派と敬弥派に分かれているが両者は仲が良い。
彩絵は敬弥とは同期であり営業と営業事務の関係でもあるから、なにかと彼と接触があり、仲良くしている。
「北影さんも言ってやってくださいよー。合コンなのにオシャレはこれが限界って言うんですよ」
「あー」
敬弥は彩絵の全身を見て顎に手をやる。
「あきらめたほうがいいな、これは」
「悪かったわね、ださくて」
「ダサいというか、地味。それにお前はいろいろ鈍感過ぎて男をわかってないからやばい」
敬弥に一刀両断され、彩絵はうっと胸を押さえる。
モテたいわけではないが、そこまではっきり言われるとショックだ。
「だけど先輩の個性ですから」
すかさず陽希がフォローを入れてくれて、彩絵はさすが翠山くん、と思った。
「ですけど男をわかってないのは同意です。合コンは辞めた方がいいですよ」
「そんなに駄目なんだ」
上げたあとにとどめを刺され、彩絵はがくりと肩を落とす。
「駄目ですよ、逃がしません。今日は絶対に来てもらいますからね!」
紀璃子は彩絵の腕をがっしりと掴む。
「うん、約束に穴を開けるわけにはいかないもんね」
「小美地さん、まさか幻の御曹司を狙ってたりしませんよね?」
ふと思う出したように紀璃子が言う。
「この社のどこかに御曹司が身分を隠して働いてるって噂の?」
「噂だけが先行してるやつだな」
彩絵に続いて敬弥が言う。
「そう、年齢も姿も不明。先輩のガードのかたさって、御曹司のために?」
「そんなわけないじゃない。ただ出会いがないだけなんだってば」
「じゃあ今日の合コンははずせませんよね。私は主催側なんで誰も狙ってないので、安心してください!」
勢いこむ紀璃子に、彩絵は苦笑した。
「ま、頑張ってこい。無駄だろうけど」
「北影くんまで……」
「そうだ小美地、この前のデータありがとう。おかげで今日も商談成立だ」
「良かった!」
彩絵は敬弥に顔を輝かせる。
「お前が作ったデータは営業を成功させるってもっぱらの噂だぞ」
「はは、またそんなこと言っておだてて、無理なスケジュールの仕事させる気でしょ」
「バレたか。またよろしくな」
敬弥は笑って彩絵の頭にぽんと手を置き、自席へ向かう。
なにげなく話をそらしてくれた、と彩絵は内心で敬弥に感謝する。
「俺も! 先輩の作ってくれた資料にいつも助けられてます!」
対抗するように陽希が言う。
「ありがとう、嬉しいわ」
慕ってくれる後輩がいるというのはなんともありがたい。仕事にも張り合いが出る。
「小美地さん、北影さんと仲いいですよねえ。本当につきあってないんですか?」
「ただの同期だからね。友達だよ」
「付き合ってるの?」と聞かれると困ってしまう。陽希とも仲がいいが、なぜか彼については聞かれたことがなかった。女性が年上だとそういう関係に見られにくいのかもしれない、と思っていた。
「それはともかく、合コン、心配だなあ。大好きな先輩がやばい目に遭ったら嫌ですし、やっぱりやめません?」
「大丈夫、変なことにはならないから」
心配そうに言う陽希に、彩絵は笑って返す。
にこにこしながら見ている紀璃子の目が、ぎらりと光った。
合コンはオシャレな居酒屋で行われ、紀璃子の友達というふたりの女性が合流した。
男性側は大手商社の営業が四人だ。
メンバーは全員年下で、見た瞬間、彼女はあきらめた。
多少なりとも期待はあった。恋をしたいというほどではないが、したくないわけでもない。出会いがあれば、それはそれで縁だと思っていた。
だが、自分は最初から射程圏外だろうし、彼女自身、年下は圏外だ。
紀璃子が主催だから、必然的に彼女の同年代が集まったのだろう。
だから裏方に徹することにした。
ドリンクがなくなれば次はどうかと聞いて店員を呼び、開いた皿があれば重ねて隅に寄せる。
男性陣は営業なだけあって話がうまく、場はなごやかに進んだ。
彩絵は聞き役に徹してうんうんと頷いてごまかした。
「あれ、彩絵さん、ちゃんと飲んでる?」
正面にいた黒髪の男に聞かれ、彩絵はグラスを持ち上げる。
「飲んでますよ」
「ぜんぜん減ってないじゃないですか。もっと飲みやすいの頼みましょうか。これとか」
そう言って、彼は店のタブレットで勝手に注文する。「待って、まだ飲み終わってないし」
「まだまだいけるっしょ!」
そう言って、男は笑う。
困ったな、と思いながら合わせるように笑みを返すと、黒髪の男は席を立った。
「まどろっこしい、席変わって。俺、小美地さん狙いだから」
「直球ストレート!」
笑いながら、彩絵の隣にいた女性が席を変わってしまう。男性が隣にいるなんて久しぶりで、彩絵はどきどきした。彼の名前は輪島宏太だったな、と思い出す。
「やだな、私はだいぶ年上なのに」
「三十一歳だっけ。いまどき五歳くらいの差なんて大したことないっしょ。ていうか俺、年上の人がタイプだし」
輪島はさらに距離を詰めて来て、届いたお酒を彩絵の手に持たせる。
「ほら、かんぱーい!」
そう言われてグラスを近付けられると、断れなかった。
かちんとグラスを合わせてから一口飲む。
お酒は苦手だが、それは甘くて飲みやすかった。
「おいしいかも」
「でしょ! この店はほかにもおいしいお酒いっぱいあるから」
輪島はにやりと笑った。
彩絵は彼になんども酒を勧められ、断りながらも気がつけばいつも以上に飲んでいた。
しまった、飲み過ぎだ。
くらくらする頭を抱え、彩絵は思ったが、もう遅い。
「二次会行く人ー!」
「はーい」
紀璃子の声にみんなが手を挙げる中、彩絵は手を挙げなかった。
「小美地さんは行かないんですか?」
紀璃子が聞いてくる。
「私は帰るね」
心なしか、舌がまわってないような気がした。目がとろんとして、眠気がある。
「じゃあ俺が送るよ」
輪島が言う。
「いいよ、ひとりで帰れるし」
まだそれくらいの理性は残っているはずだ。
「駄目だよ、女性のひとり歩きは危ないから」
「やだ、紳士!」
「送り狼じゃね?」
女性陣と男性陣からそれぞれ輪島にやじが飛んだ。
「あはは、私を相手にそれはないかなあ」
彩絵は笑って返す。
お会計を済ませると、二次会組と別れて、輪島と一緒に駅に向かった。
あまりに断るのも申し訳ない気がして、送るという言葉を断りきれなかったのだ。
夜の冷たい空気はほどよく酔いを醒ましてくれる気がする。
途中、彼が手を繋いできて、彩絵はどきっとした。
ふりほどくのも失礼な気がして、彩絵は緊張したまま手を引かれる。
「こっちのほうが近道なんだ」
輪島が言い、狭い路地を示した。暗くてなんだか怖い気がする。
「大通りのほうが安全じゃない?」
「俺がいるから大丈夫」
輪島は請け合い、ぐいぐいと彩絵の手を引っ張る。
仕方なくついていき、路地を出た先の光景に彩絵は驚いた。
カップルズホテルが立ち並ぶ道に出てしまっていたからだ。
驚く彩絵にかまわず、輪島は手を引いて歩いて行く。
彼の引く力が強くて足が追いつかずにもつれ、転びかかったときだった。
「あっ」
「危ない!」
輪島がすかさず抱き留め、転ばずに済んだ。
「すみません、足元がふらついて」
「やばいね。ちょっと休んでいこうか」
「え」
彼に手がぐいっと引かれて、ホテルの入口に差しかかる。
「大丈夫です、帰ります」
「大丈夫じゃないでしょ。ってか、最初からそのつもりだったでしょ」
輪島がにたにたと欲望を隠しもせずに言う。
「聞いてるよ、ここ数年男がいなかったから、男が欲しくて仕方ないんでしょ」
「違いますっ!」
慌てて否定した。が、彼はさらに彩絵の手を強く引く。
「清純ぶらなくっていいって。楽しもうぜ」
輪島の目が欲望にぎらつき、さらに引っ張る。
「いや!」
思わず大声で叫んだときだった。
「やめろ!」
男の声がして、輪島の手が何者かによって引き剥がされ、彩絵は抱き寄せられた。
「俺の彼女になにするんだよ」
彩絵の肩を抱いた男性を見て、彼女は驚いた。
「翠山くん!?」
「なんだよてめえ」
輪島が威嚇する。
「彼女の恋人。合コンが決まったあとに付き合い始めたから、今日は仕方なく参加しただけ。わかったらさっさと帰って」
彩絵は唖然とするが、笑みを浮かべた陽希に目で「黙って」と合図を送られ、なにも言えずに成り行きを見守る。
「なんだよ、フリーだって聞いてたのに」
ぶつくさと文句を言いながら、輪島は立ち去る。
あっさりあきらめてくれたことに安心し、彩絵はほっと息をついた。
「……ありがとう、助かった」
彩絵は陽希に素直に頭を下げる。
「まったく、心配して来てみれば、どうしてこんなことになってんですか」
「どうしてって……」
「どうせ、気を遣い過ぎて断れなかったんでしょ。先輩はいつもそうだから」
指摘されて、う、と言葉に詰まる。
「仕事でもそうですよね、そうやって抱えすぎて残業になって。いつもハラハラします」
「ごめん、そんな心配かけてたんだ……」
後輩にバレて心配までされて、カッコ悪いったらない。
「いいですよ、大好きな先輩のためなら俺はいくらでも心配しますから」
彩絵はきゅんとした。
彼はいつもこうやって言ってくれるから、なんどもきゅんきゅんさせられた。
とはいえあくまで後輩なので、それが恋に発展することはなかった。
彼だって気がないから言ってるだけだ。恋する相手にこんな簡単に「大好き」だと言うわけがない。
大通りに行くと、彼はタクシーを拾い、彩絵と一緒に乗り込む。
「今日は俺が送ります」
「そんな、悪いよ」
「あんなことがあったあとにひとりで帰せません」
「う……ありがと」
仕方なく、彩絵は彼の申し出を受け入れた。
「とりあえず綾名方面へ向かってください。国道を国立病院までまっすぐで」
彩絵が言うと、タクシーは出発した。
そうしてしばらくすると温かな車内で眠気が襲って来る。
抵抗できず、彩絵は安らかな眠りへと落ちた。
目が覚めると、真っ白なシーツが目に飛び込んで来た。
ベッドがやわらかくて、かけられた毛布がやわらかくてふわふわした。
気持ちいい、と毛布に頬を擦り、それからぼんやりと目が焦点を結ぶ。
「起きました?」
「——!」
焦点を結んだ先にいた男性に、彩絵は声にならない声を上げた。
「そんなに驚かないでくださいよ。ショック」
陽希は悲しそうに言い、手に持ったコーヒーカップをパソコンのデスクに置いた。
スエット姿の彼はパソコンデスクの椅子に座ってこちらを見ていたようだった。ノートパソコンにはゲームの画面があった。
「だ、だって、どうして……ていうか、ここって」
「俺んち。先輩、タクシーの中で寝ちゃったから家がわかんなくて。安心して、俺はあっちのソファで寝たから」
「そ、そうだったの、ごめん」
ならばここは彼の私室で、自分は彼のベッドを占領して寝ていたことになる。
しかし妙に大きなベッドだった。部屋が広いから違和感がないが、ダブルベッドだ。
部屋の窓からはカーテン越しに光が差し込んでいた。部屋はフローリングで、壁際には本棚があり、びっしりと本が並んでいる。
「メイクは買って来たメイク落としシートで落としておきました」
彩絵は両頬に手を当てて顔をひきつらせる。
「ご、ごめん、ありがとう、どうしよ、こんなすっぴん、ごめん!」
「かわいいですよ、先輩」
くすくすと笑いながら彼は言う。
「寝顔もかわいかった。ごはん三杯……ううん、軽く十杯はいける」
「ちょっとやめてよ」
彩絵は毛布をばっとかぶった。
「隠れないで出て来て。朝ごはんにしましょうよ」
くすくすと笑う彼に、彩絵はそっと毛布から顔を覗かせた。
朝日を浴びて、彼はにこやかに輝く笑顔を見せていた。
のそのそとベッドから降りて、彩絵は自分が彼と色違いのスエットに着替えていたことに気が付いた。
「まさか着替えも……?」
「それは先輩が自分でしてましたよ。寝ぼけながら目の前で着替えようとするから焦った」
「恥ずかしい……ごめんね」
「貴重な酔っ払った先輩を見られたからいいですよ」
そんな言われ方はなおさら恥ずかしくて、彩絵は小さく身を縮めた。
彼に連れられてダイニングキッチンに行くと、オシャレなテーブルセットがあり、椅子に座らされる。
「あ、これうちの製品」
「正解! さすが先輩」
「資料で何度も見たから」
ホワイトオークで作られたテーブルだが、天面はオリタケのセラミックだ。
「ごはん作るから、待っててください」
「……なにからなにまで、ごめんね」
先輩としての面目が丸つぶれだ。
「いいですよ。朝食はパンで良かったですか?」
「うん」
「じゃあちょっと待ってて」
言って、彼はキッチンに立つ。
準備はしてあったようで、トースターにクロワッサンが入っているのを確認してスタートし、といてある玉子でスクランブルエッグを作る。焼かれていたベーコンとウインナーを温め直し、紅茶のポットにお湯を入れて蒸らす。
料理を白い皿に盛り付け、冷蔵庫から取り出したサラダの小鉢を載せる。
最後に、チン、と鳴ったトースターからクロワッサンを出して皿に載せて彼女の前に置く。紅茶もまた白いカップに注がれて、ミルクピッチャーと一緒に置かれた。
「うう、自分で用意しなくてもいい朝食……うれしい」
「独り暮らしですもんね。俺もだけど」
「そうなの、誰かに作ってもらえるのってうれしい」
「これから毎日作ってあげますよ」
「やだ、プロポーズみたい」
彩絵が笑うと、陽希も一緒になって笑った。
「どうぞ、召し上がれ」
「ありがとう。食器は全部オリタケね。食器棚にあるのはオールドオリタケ?」
「よくわかりましたね」
彼は嬉しそうに目を細め、垂れた目の目じりがさらに下がった。
戦前まで海外に出荷されていたオリタケの食器たちをオールドオリタケと呼び、コレクターの間では人気がある。
彼が持つオールドオリタケは白地に繊細な金彩が美しいものだった。あの模様がすべて手作業によるものなのだから、当時の職人の技術の高さがうかがえる。
「オリタケの食器が好きで就職したんだもん、わかるわ。飾り方が完璧ですごい。朝食も完璧。まるでホテルみたい。いつもこうなの?」
「今日は特別。先輩がいるから」
にこにこと陽希が答える。
「そんなこと言われると勘違いしそう。いただきます」
両手を合わせてクロワッサンを手に取る。かじるとさくっと音がしてバターの風味が口に広がる。
「おいしい……。助けてもらった上に迷惑もかけちゃって……今度お礼するね」
「なら、俺とデートして」
「デート!?」
「デートってしたことなくて、してみたかったんです。駄目ですか?」
うるうると見つめられ、彩絵は言葉に詰まった。
そんな顔で見られたらかわいくて仕方がない。
「デートしたことないって、本当に?」
「本当ですよ。ぜんぜんモテなくて。魅力ないのかな」
「そんなことないよ」
彼がモテないわけないのに、謙遜だろうか。
「だったらお願いします。俺にデートの経験させてください!」
両手で拝まれると無碍にはできなくなってしまう。なにしろ彼は助けてくれた恩人だ。
「しょうがないなあ、かわいい後輩の頼みだから、特別だよ」
「やった!」
陽希は嬉しそうに目を細める。
「じゃ、早く食べて行きましょう!」
「え、今日?」
「駄目? 用事ある?」
また、うるうるな瞳の攻撃にずきゅんと胸を打ち抜かれる。彼のこれに逆らえる人はいるのだろうか。
「特にないけど……」
「じゃあ決まり。どこにしようかな。先輩と行きたいところはいっぱいあるから。ベタに動物園とか水族館? ショッピングか……いっそ鎌倉? でもイルミネーションにも行きたいし」
彼は嬉しそうにクロワッサンを口に放り込む。
彼にしっぽがあればぶんぶんと振っていそうだな、と彩絵はほほえましく思った。
食事を終えると、コンビニで買って来た、と化粧品の入った紙袋を渡された。
「ありがとう、あとで代金払うから」
「いいですよ、大したものじゃないから。あと、姉がいらないって置いていった服があるから、良かったら着てください」
そう言ってまた紙袋を渡されて、彩絵は慌てた。
「そんな、駄目だよ」
「先輩が着てくれなかったら捨てるだけですから。シャワーはあっちです」
紙袋を持った状態で浴室に押し込まれ、彩絵は戸惑う。
だが、結局は言葉に甘えてシャワーを浴びて出る。
渡された紙袋の中の化粧品を見て首をかしげた。
ブランド物で、コンビニで買えるはずのないものばかりだった。新品だから、元カノの持ち物だったわけではないだろう。これも実はお姉さんの置いて行った不用品なのだろうか。
服もまた新品のブランド物で、不思議なことにすべてサイズがピッタリだった。
お姉さん、私とサイズが同じなのかな。
彩絵は戸惑いながら浴室を出る。
「ありがとう、さっぱりした。ドライヤー借りていい?」
「髪は俺が乾かしてあげます」
「いいよ、自分でやるから」
「女性の髪を乾かすの、憧れだったんです。やらせてください」
「でも」
「それもお礼の一環ということで」
そう言われると、それ以上は断りづらい。
「じゃあ、お願いね」
「はい!」
彼は嬉々として洗面所でドライヤーを使い、彩絵の髪を乾かす。
さらさらと髪を撫で、優しく上手にドライヤーを当てる。
彼の指が首筋に当たると、背筋が甘美にぞくっとしてしまい、彩絵は焦った。
「先輩の髪、綺麗ですね」
「ありがとう」
彼の家のシャンプーとリンスのおかげかな、と彩絵は思う。自宅で使っているものより数段レベルの高いシャンプーセットだった。
「仕上げに」
彼は洗面台からボトルを取り、二回ほどプッシュして手に出すと、彩絵の髪になじませる。美容師のように両手で髪をはさんで撫でる手つきに、自分が彼の特別な存在だと錯覚してしまいそうだ。
「洗い流さなくていいトリートメントです。香りがよくて艶も出ますよ」
「至れり尽くせりね。ほんと、ありがとう」
「いいえ」
嬉しそうに陽希は答える。
「先輩が俺と同じ香りに……」
つぶやきは小さくて、彩絵の耳には届かなかった。
準備を終えると、陽希は彩絵を伴って地下駐車場へ行った。
彼が自分の車だと言ったのはコルベットで、彩絵は驚いた。全体的にかっこいいが、一見して鳥の翼のように見えるフラッグのエンブレムがまたかっこいい。
「すごい車に乗ってるのね」
「先輩、前にこの車がかっこいいとか言ってなかったですか?」
「そんなこと言ったかな」
会社で車の話題が出たことなど記憶にないのだが、スポーツタイプの車はたいていかっこいいから、そんなことを言ったことがあるかもしれない。
彼はドアを跳ね上げて、それも彩絵は驚いた。
「なんかすごいね」
「シザーズドアにしたほうがかっこいいかと思って改造しました」
車自体も高額だろうに、改造ではどれほどお金がかかるのだろうかと彩絵は思ってしまった。
「乗ってください」
「ありがとう。なんかどきどきする」
車は車高が低くて乗りにくかった。
ギアを見て、マニュアル車だ、とそれにも驚いた。
ドアを閉めた陽希は運転席に乗り込み、うれしそうに彩絵を見た。
「先輩が助手席にいるなんて、すごい緊張する!」
「やあね、大げさ」
彩絵はくすくすと笑う。
「江の島に行きましょう。一緒に海鮮丼を食べて、島を回るんです。夜はイルミネーションを見ましょう」
陽希の声は弾んでいて、エンジン音すらも楽し気だった。
帰りは遅くなりそうだが、彼があまりに楽しそうだから彩絵はなにも言えなかった。
江の島に到着したふたりはまず海鮮丼を食べた。
店を出たら猫がいたので思わずそちらに寄ってしまい、スマホで写真を撮りまくった。
青銅の鳥居の前ではスマホでツーショット写真を撮り、参道を上っていく。
「彩絵さんって呼んでいいですか? デート感を出したいんです!」
「……今日だけだよ」
「やった!」
陽希は跳ねるように悦び、彩絵の手を握る。
「手も握るの!?」
「デートですから」
陽希は満面の笑みで答える。
仕方ない、と諦めて彩絵は苦笑した。弟がいたらこんな感じかな、とほほえましくなり、冬の空気に冷えた手が、つないだところから徐々に温まっていく。
一緒にお土産物屋さんをひやかし、まる焼きたこせんべいを分け合って食べた。
天然石やトンボ玉を置いてあるお店では深海を模したものや猫を模したトンボ玉に目を輝かせた。カクテルガラスのシリーズも綺麗だ。
特に猫と肉球のセットのイヤリングがかわいい。
「うーん、買っちゃおうかな」
「俺が買ってあげます」
迷う彩絵に陽希が言う。
「いいよ、大丈夫」
自分で買うと言っても彼は買ってくれてしまいそうで、彩絵は買うのをあきらめた。
江の島神社に参拝したあとは庭園を見て、展望灯台はあとまわしにして岩屋を見に行った。
夕方になるとシーキャンドルと呼ばれる展望灯台に登り、暮れゆく海と遠く望む富士山を楽しんだ。
陽が沈んでイルミネーションが点灯すると、全面ガラス張りの階段を使って降りた。
イルミネーションを楽しみ、レストランに入った。昼間なら海が見えるらしいが、夜だから外は真っ暗でなにも見えない。だが、それすらもなんだか楽しい。
彩絵はお酒で失敗したし陽希は運転があるからふたりでノンアルコールビールで乾杯をした。
「彩絵さんはこれから、俺の前以外ではお酒は禁止にしてくださいね」
「本当の彼氏でもないのに、そんなこと言う?」
彩絵はくすくすと笑う。
「じゃあ本当の彼氏にしてくれますか?」
「ふふ、どうしようかな」
陽希の冗談に、彩絵は笑って返した。
彼はつきあってくれたお礼だからと食事を奢ってくれて、彩絵は恐縮してしまった。
彼が断固として代金を受け取ってくれないので、お礼は改めよう、とあきらめた。
店を出ると、温まった体が冷気で震えた。
「寒いね」
彩絵が言うと、
「そうだね」
と陽希が手を繋いできた。それだけでなんだか温かくなる気がする。
「こんな楽しいの久しぶりかも。連れて来てくれてありがとう」
店を出てから彩絵が礼を言うと、陽希は顔を輝かせた。
「嬉しいです、そう言って貰えて……またイルミネーションを見たいので、いいですか?」
「いいよ」
陽希は彩絵と手をつないだまま、またイルミネーションに向かった。
色とりどりの輝きに囲まれ、たくさんのカップルや家族連れがはしゃいでいる。
「たくさん歩いて疲れたんじゃない? 帰りの運転、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
にこにこと陽希が答える。
「さすが、若いわね」
「彩絵さんも若いですよ。すごく綺麗だし」
「ありがと」
彩絵は半ば苦笑して答えた。
「彩絵さんはほんと、わかってない」
少しすねたように陽希が言い、彩絵は首をかしげた。
「彩絵さんがどんなに魅力的か、朝までかかっても語り尽くせないのに」
「前から思ってたけど、翠山くんて、すごい褒め上手よね」
「陽希って呼んで」
「陽希くん」
今だけだと思って彩絵が言うと、彼はこれ以上はないというくらいの笑みを浮かべた。眼差しに甘さが漂い、彩絵はどきっとしてしてしまう。
後ろには宝石のようなオブジェが空中に配置され、グラデーションに輝いている。
ちょうど人が途切れてふたりきりになっていて、気付いた彩絵の心臓は鼓動を速めた。
「彩絵さん」
呼ばれて顔を上げると、さきほどよりも糖度を増した瞳が彼女を捉えた。
「好きです」
彩絵はまたどきっとして、そうじゃないから、と慌てて自分に言い聞かせる。
彼は恋愛として言ったわけじゃないんだから。
なんといっても六歳もの差があるのだ。大人として対応しないと。
「ありがとう、私も好きだよ」
彩絵はふふっと笑って答えた。先輩として好きだと言ってくれたのに恋愛と勘違いしそうになるなんて、恥ずかしくて仕方がない。
「……わかってないですよね」
「わかってるよ」
彩絵はにこっと笑って答える。
「絶対にわかってない!」
陽希が勢い込んで言うから、彩絵は目をぱちくりさせた。
「俺、彩絵さんを女性として好きだって言ってるのに」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
まさかそんな。
懐いてくれている後輩が、自分を好きだなんて。
「嘘……よね?」
「嘘じゃないです。最初からちゃんと、好きって言ってました」
目をぱちぱちと瞬かせ、彼を見る。
彼は真剣な目をそらしもせずに自分を見つめる。
耐えられず、彩絵は目をそらした。
「もう一回言います。好きです。俺と付き合ってください」
甘い、だけど真剣な声に、もう冗談だとは思えなくなっていた。
「え、だけど、え……?」
彩絵は混乱した。
ふたりの間に恋愛が入る余地などないと思っていた。
じゃれるように「好きです」と言ってくれるのがくすぐったくてかわいかったが、まさかあれは本気だったのだろうか。
「俺は最初からずっと、好きですって言って来ました。俺が彩絵さんを好きなのは会社の全員が知ってます。わかってなかったのは彩絵さんだけです」
「ええ!?」
彩絵は愕然とした。まさかそんなことになっているとは思いもしなかった。
「振り向いてくれるまで待とうと思ってましたけど、このままだといつになるかわかりません。合コンの件で思い知りました。きちんと告白したらわかってくれるかなって思って……」
言葉が途中で切れた。夜目にもわかるくらい真っ赤になっている彼が、なんだかかわいくて仕方がない。
だが、自分はもう三十を超えている。結婚を考えるならば、彼のような若い男性と付き合うわけにはいかない。彼はまだ結婚など眼中にないだろうから。
「私、年下は……」
「待って、言わないで」
慌てて彼が止める。
「年齢なんかで考えないで。俺自身を見て」
「え……?」
「俺、結婚も考えてるから」
「ええ!?」
「だってそうでしょ。彩絵さんの年齢なら結婚も視野に入るってわかってます。きちんと考えて、その上で言ってます。だから年齢だけで斬り捨てないで、一度考えてみてください」
彩絵は返事に詰まった。そこまで言われて即答で断るのが忍びなくて。
「今すぐは返事ができないなら、待ちます。だから俺とのこと、ちゃんと考えてください」
両手をぎゅっと握られて、彩絵は頷いた。
「わかった、考えてみる」
「良かった!」
彼は彩絵をぎゅっと抱きしめる。
髪にすりっと頬を寄せられ、彩絵の動悸が激しくなる。
抱きしめられる腕の力の強さ、改めて感じる背の高さ、肩幅の広さ。今まで感じなかった男らしさを感じてしまい、動悸が止まらない。
お前は男をわかってない、鈍感だ、と言った敬弥の声が蘇る。
本当に自分はわかってなかった。『後輩』でひとまとめにして、彼が『後輩の男性』であることを認識していなかったのだから。
ちゃんと考えないと。
どきどきしながら、彩絵は陽希に抱きしめられていた。
***
彩絵を家に送った陽希は、車を自宅マンションの駐車場に止めると、助手席の座面をそっと撫でた。
「今日ここに彩絵さんが座ってくれた……」
それだけで感無量だ。
しばらく撫でて名残を惜しんだあと、部屋に帰る。
彩絵がいた気配が消えているのが残念で仕方がない。
彼女が使った食器は、彼女がいる手前、洗うしかなかった。可能なら洗わずにとっておきたいところだが、それでは不衛生なのが痛いところだ。
洗ったとはいえ、彼女が初めて家に来て使った食器だ。記念にガラス戸棚に飾った。
自室に入ると彩絵が使っていたベッドの前に跪くように座った。彼女が使った毛布に頬ずりをすると、やわらかな感触に心が浮き立った。
「俺のベッドに彩絵さんが寝たんだ」
最高に幸せだ。
いつか一緒に寝られたら、と思って買ったダブルベッドだ。一緒には寝られなかったが、彼女が寝たというだけで体中が熱くなる。
「彩絵さん、情にもろくて流されがちなくせに、変に思い込みが強いからなあ……俺はずっとただの後輩だった」
なのに、今日は名前を呼び合い、デートをして。告白をして抱きしめるところまで進んだ。抱擁を拒否されなかった。このまま押して行けば、すぐ落とせそうな気がする。今まで遠慮していたのがバカみたいだ。
「ああ、早く結婚したい」
陽希は毛布をぎゅっと抱きしめてから、自室を出た。
彼は自室を出ると、もうひとつの部屋に入る。
そこは白い家具が取り揃えられ、窓にはピンクのカーテンがかかっていた。天井には花の形をした照明。
チェストには小さな観葉植物が飾られている。
扉が閉められたクローゼットには彼女のためのブランドの洋服がたくさん並んでいる。
「彩絵さん……早く一緒に住みたい。彩絵さんの部屋はもう作ってあるから」
彼はひとり、うっとりと呟いた。
***
月曜日、彩絵はどきどきしながら出社した。
陽希に会ったとき、どういう顔をすればいいのかわからない。
朝は彼から『おはよう』とスタンプが来て、ただそれだけでどきっとしてしまったくらいだ。
フロアに行くと、最初に会ったのは紀璃子だった。
「小美地さん、金曜日はあれからどうしました?」
ぎく、と彩絵は動きを止める。
「……なにもないよ」
かろうじてそう答えた。彼女とあの男の関係がわからないし、自分の恥でもある気がして、なにをどう告げていいのかわからない。
「残念。小美地さんに春が来るように、かなり推しておいたんですよ」
「そうなの……?」
頭の中に輪島の失礼な発言がよぎる。男に飢えている、と彼女が吹き込んだのだろうか。
陽希によれば彼が彩絵を好きなのは全社員が知っていたらしいし、その状態で合コンに誘うものだろうか。
「彼、年上が好みって言ってたから小美地さんとぴったりだと思ったのに」
残念そうに言う紀璃子に、彩絵は内心で首を振った。
思いやってくれる彼女がそんな変なことをするわけがない。合コンに誘ってくれたのは彩絵の眼中に陽希がいないと思ったのだろうし、実際、土曜日まで彩絵は陽希を男性として見ていなかった。飢えていると思われたのは、輪島が妙な解釈をしたいせいだろう。
「ごめんね、期待に沿えなくて。合コンはもういいわ」
「そんなあ。小美地さんが心配」
「大丈夫だから」
彩絵は安心させるように笑って答えた。
朝礼を終えて仕事を始めてすぐ、陽希が寄って来た。
「彩絵さん」
彩絵はびくっとした。
名前で呼ぶのはあの日だけのはずなのに。急に名前で呼ばれると周囲になにかあったと思われてしまいそうだ。
「おはよう」
ぎこちなく挨拶を返すと、彼はさっと周囲を見回し、ラッピングされた小さな紙袋を彩絵に渡す。
「プレゼント」
「え?」
「昨日のイヤリング、買っておいたんです。あとでつけてね」
彩絵が買おうか迷ってやめた猫のイヤリングだ。
「だけど」
「早く受け取って。みんなにバレちゃいますよ。それともバレたい?」
彼の垂れた目にいたずらっぽい光が宿る。
プレゼントのやりとりを見られたりしたら、からかわれてしまうだろうし、陽希のファンになにを言われるかわからない。
「ごめんね、ありがとう」
彩絵は仕方なく受け取った。これのお礼もしなくちゃ、と思いながら。
「謝らなくていいのに」
陽希は首を傾げ、それから仕事モードに戻った。
「打ち合わせで使うから、ヴィーナスシリーズの在庫のデータ、確認して送ってもらえないですか?」
「わかったわ」
ヴィーナスシリーズは美の女神のヴィーナスをイメージして作られた食器のシリーズだ。金彩と薔薇の絵を使ったゴージャスな美しさが売りだった。
「彩絵さんにはヴィーナスシリーズよりもローゼリィシリーズが似合うかな」
こそっと耳打ちして、陽希が去っていく。
それだけで彩絵は耳まで真っ赤になってしまった。
仕事モードからのふいうちなんて卑怯だ。早く収まって。そう思うのに、動悸は簡単には収まらない。
ローゼリィシリーズは白い野薔薇をイメージしており、上品で可憐なかわいらしさがある食器だった。まるで自分が上品で可憐と言われているかのようで照れてしまう。
今までの彼ならみんなの前でからっと公言していたから、ぜんぜん色気を感じなかった。耳元で囁かれるだけでどうして艶を感じてしまうのだろう。
仕事に集中しないと。
必死でパソコンに向かう彩絵を、敬弥がけげんな顔をして見ていた。
昼休みになると、彩絵はひとりで食堂に向かった。
食事を済ませてスマホを見ると、陽希からメッセージが来ていた。
ランチに食べたとんかつの写真とともに、今度一緒にとんかつを食べに行きましょうね、と書かれている。
ふふ、と彩絵は笑みをこぼす。おしゃれなお店ではないところが女慣れしてない感じがしてかわいい。
彼の垂れた目の笑顔を思い出し、彩絵の胸は温かさで満ちた。
スマホがまた震えた。メッセージを確認すると、今度は敬弥からだ。
『陽希となんかあった?』
短く尋ねるその文章に、心臓が止まりそうになった。
なんでこんなに早くばれるんだろう。
「小美地さん、ここいいですか?」
声をかけられて顔を上げると、向かいの席に紀璃子がカツ丼の載ったトレイを持って立っていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
きれいな笑顔を見せて紀璃子が座る。
「私はもう食べ終わるところなんだけどね」
「一緒に食べたかっのに」
紀璃子は口をとがらせたあと、あ、となにかを思い出したような声をあげた。
「聞いて下さいよ、小美地さんを送って行った輪島さん、今日、階段から落ちたらしいんですよ」
「ええ!? 大丈夫なの?」
「二、三段くらい落ちて足をくじいただけですんだらしいんですけど、誰かに押されたって言ってるんですよ」
彩絵は恐怖に震えた。
「多分、朝のラッシュだから誰かとぶつかっただけなんでしょうけどね。気をつけないと」
「そうね」
怖い目に遭わされた男性ではあるが、だからと言ってその人がどうにかなるのを望むわけでもない。
なんだか落ちつかなくて、彩絵はコップの水を飲んだ。
「小美地さんって、会社内に好きな人いますよね」
聞かれて、彩絵は水を噴きそうになった。
「い、いないよ」
「だってそう考えないと理屈が合わないっていうか……」
探るように言う紀璃子に、彩絵はどきどきしながら水を飲み直す。
「わかった、北影さんでしょ!」
彩絵はまた水を噴きそうになり、咳き込んだ。
「ち、違うよ!」
「その慌てっぷりは、正解ですね!」
「違うってば」
「隠さなくてもいいのに。そうじゃないかな、ってずっと思ってたんですよねー」
紀璃子はひとりでうんうんと頷く。
「私、協力してあげますよ」
「違うからやめて」
「遠慮しなくていいですよ!」
にやにやと紀璃子は笑う。
彩絵は頭を抱えた。なんと言ったら納得してくれるんだろう。
この状態で陽希に告白されたことを知られたら、とんでもなくめんどくさいことになりそうだ。それとも、陽希とくっつけようとしてくるのだろうか。
「たぶん、北影さんも小美地さんのこと好きだと思うんですよね」
「ないない!」
彩絵は笑って手を振った。
「小美地さん、鈍感だからなー」
また鈍感って言われた。
彩絵は軽く落ち込む。
「まあここは私に任せてください」
「絶対になにもしないで。お願いだから」
彩絵は必死に頼み込む。
「大丈夫です、影からサポートするだけですから」
「だから……」
否定しようとしたときだった。
「紀璃子〜、今ごはんなんだ」
他部署の紀璃子の友人が彼女に話しかけてくる。
そのまま彼女が紀璃子の隣に座り、否定はできなくなってしまった。
合コンに参加させた強引さで、また紀璃子がなにかをしなければいいのだけど。
席を立ってからも不安は残り、敬弥からのメッセージのこともあり、午後の仕事はなかなか集中できなかった。
が、翠山陽希の熱を帯びた目は太陽が海に消えのるを待ちきれず、はやく彼女を貪りたいと急かすように小美地彩絵を見つめる。
砂浜には今、ふたりきり。はるか彼方から旅してきた波は傾いた陽を浴びて黄金に輝き、浜に打ち寄せては去っていく。
朱金の空は徐々に紺碧を増し、輝く一番星がさやかに彼らを照らしていた。
「愛してる」
彩絵の耳に届くその声は禁断の花の蜜のように甘い。
この後輩は背が高く、繊細な顔立ちは中性的で、仕事の優秀さもあって会社では人気が高い。その花びらのような唇がとろけるように囁き、優しげに垂れた紅茶色の目に映るのは彼女だけ。
そよりと風が吹き、彼の茶色の髪がきらきらと揺れた。
「愛してる、だからね」
陽希は彼女の頬を両手ではさみ、顔をそらせないようにしてから言う。
「だから、ほかの男を見ないで」
「翠山くん……」
彩絵は自身の頬に熱を感じた。内から生まれるそれを持て余し、みじろぐ。
これじゃ赤くなってるのが彼にバレちゃう。
そう思うのに、彼は手を離してくれない。
「陽希って呼んで」
「陽希くん」
「嬉しい、彩絵さん。愛してる」
彼の両手がゆるゆると頬を撫でて降りていき、首に触れる。
「華奢な首だね。すぐ折れてしまいそう」
彼は愛おしげに呟き、手だけで抱きしめるように包む……まるで首を締めるかのように。
急所を温かく包まれている緊張と彼の指の感触に、彩絵の背筋がぞくぞくと震えた。
彼の顔が近付く。
このままキスされちゃうのかな。
彼女はただどきどきして彼を見つめていた。
だけど。
「だけど、もしほかの男を見たら――」
彼が目を細め、複雑な色が浮かんだあと、暗く光った。
「そしたら殺すから」
キスと同時に視線で鋭く射抜かれ、愛おしげにやわらかく首を締められた。
***
話し声とパソコンのタイプ音とがさわさわと響き合い、空調の音がささやかに混じる。
都内のいつもの職場でいつものようにパソコンに向かい、彩絵はキーボードを打つ。
営業から頼まれた資料の作成だった。
見やすく使いやすくを心がけてデータを打ち、まとめていく。
彼女が勤めるオリタケ株式会社は明治時代に食器の生産からスタートして、今は工業機材やセラミックマテリアル事業などで宇宙開発にまで貢献する会社となっている。
「小美地さーん」
声をかけられ、彩絵は手を止めて振り返った。
そこには後輩の湯丘紀璃子がいた。入社二年目の二十四歳、はつらつとしたかわいい後輩だ。三十一歳の彩絵とは七歳も違うが、仲良くしている。
「もうすぐ定時ですけど、今日の合コン、ちゃんと来てくれますよね」
「先輩、合コン行くの?」
通りかかった陽希が立ち止まった。彼もまた彩絵の後輩であり、二十五歳だ。懐いてくれているから彩絵もまたかわいがっている。
生まれつきの薄い茶色の髪と紅茶のような色の瞳。その目は垂れて優しげだ。顔立ちは日本人離れしていて美しく中性的で背が高く、社内では人気ナンバーワンだ。営業成績も常にトップを争っている。
「ずっと彼氏いないって言うから、小美地さんのための合コンなの。金曜日だからゆっくりできるし」
紀璃子が上機嫌で答える。
「ええ!? 人数合わせって言ったじゃない。」
だから了承したのに、まさか自分のための合コンだったなんて。
「そう言わないと来てくれないじゃないですかあ。しかもオシャレしてきてって言ったのに」
「ごめん、これが精いっぱい」
彩絵は苦笑いとともに応えた。オフィスカジュアルで私服OKだが、派手にするわけにもいかないし、数年ほど色恋沙汰とは縁がない――というのは言い訳であまりオシャレに興味がないため、オシャレな服を持っていなかった。
「先輩はどんな服着ててもきれいですよ。大好きです」
陽希がにこにこと笑っていう。
「翠山くんはいつもいいフォローくれるよね。ありがとう」
彩絵もにっこりと笑って返す。お世辞を真に受けるような年齢ではないと示すように。
「俺は本気で言ってるのに」
「はいはい」
「またそうやって流して。心配だな、先輩がお持ち帰りされたらどうしよう」
「そんなことにはならないよ」
彩絵が苦笑すると、紀璃子はあきれたように言う。
「小美地さん、もっと自信もったほうがいいのに」
「ありがとう」
合コンはありがたくはないが、心配しくれている気持ちは嬉しかった。
「なんか盛り上がってる?」
外まわりから戻ってきた北影敬弥が声をかけてきた。
敬弥は営業のエースで陽希とトップを争っており、黒髪にブラックコーヒーのような瞳が印象的だ。
顔の良さもあり人気ナンバーワンを陽希と共有している。陽希派と敬弥派に分かれているが両者は仲が良い。
彩絵は敬弥とは同期であり営業と営業事務の関係でもあるから、なにかと彼と接触があり、仲良くしている。
「北影さんも言ってやってくださいよー。合コンなのにオシャレはこれが限界って言うんですよ」
「あー」
敬弥は彩絵の全身を見て顎に手をやる。
「あきらめたほうがいいな、これは」
「悪かったわね、ださくて」
「ダサいというか、地味。それにお前はいろいろ鈍感過ぎて男をわかってないからやばい」
敬弥に一刀両断され、彩絵はうっと胸を押さえる。
モテたいわけではないが、そこまではっきり言われるとショックだ。
「だけど先輩の個性ですから」
すかさず陽希がフォローを入れてくれて、彩絵はさすが翠山くん、と思った。
「ですけど男をわかってないのは同意です。合コンは辞めた方がいいですよ」
「そんなに駄目なんだ」
上げたあとにとどめを刺され、彩絵はがくりと肩を落とす。
「駄目ですよ、逃がしません。今日は絶対に来てもらいますからね!」
紀璃子は彩絵の腕をがっしりと掴む。
「うん、約束に穴を開けるわけにはいかないもんね」
「小美地さん、まさか幻の御曹司を狙ってたりしませんよね?」
ふと思う出したように紀璃子が言う。
「この社のどこかに御曹司が身分を隠して働いてるって噂の?」
「噂だけが先行してるやつだな」
彩絵に続いて敬弥が言う。
「そう、年齢も姿も不明。先輩のガードのかたさって、御曹司のために?」
「そんなわけないじゃない。ただ出会いがないだけなんだってば」
「じゃあ今日の合コンははずせませんよね。私は主催側なんで誰も狙ってないので、安心してください!」
勢いこむ紀璃子に、彩絵は苦笑した。
「ま、頑張ってこい。無駄だろうけど」
「北影くんまで……」
「そうだ小美地、この前のデータありがとう。おかげで今日も商談成立だ」
「良かった!」
彩絵は敬弥に顔を輝かせる。
「お前が作ったデータは営業を成功させるってもっぱらの噂だぞ」
「はは、またそんなこと言っておだてて、無理なスケジュールの仕事させる気でしょ」
「バレたか。またよろしくな」
敬弥は笑って彩絵の頭にぽんと手を置き、自席へ向かう。
なにげなく話をそらしてくれた、と彩絵は内心で敬弥に感謝する。
「俺も! 先輩の作ってくれた資料にいつも助けられてます!」
対抗するように陽希が言う。
「ありがとう、嬉しいわ」
慕ってくれる後輩がいるというのはなんともありがたい。仕事にも張り合いが出る。
「小美地さん、北影さんと仲いいですよねえ。本当につきあってないんですか?」
「ただの同期だからね。友達だよ」
「付き合ってるの?」と聞かれると困ってしまう。陽希とも仲がいいが、なぜか彼については聞かれたことがなかった。女性が年上だとそういう関係に見られにくいのかもしれない、と思っていた。
「それはともかく、合コン、心配だなあ。大好きな先輩がやばい目に遭ったら嫌ですし、やっぱりやめません?」
「大丈夫、変なことにはならないから」
心配そうに言う陽希に、彩絵は笑って返す。
にこにこしながら見ている紀璃子の目が、ぎらりと光った。
合コンはオシャレな居酒屋で行われ、紀璃子の友達というふたりの女性が合流した。
男性側は大手商社の営業が四人だ。
メンバーは全員年下で、見た瞬間、彼女はあきらめた。
多少なりとも期待はあった。恋をしたいというほどではないが、したくないわけでもない。出会いがあれば、それはそれで縁だと思っていた。
だが、自分は最初から射程圏外だろうし、彼女自身、年下は圏外だ。
紀璃子が主催だから、必然的に彼女の同年代が集まったのだろう。
だから裏方に徹することにした。
ドリンクがなくなれば次はどうかと聞いて店員を呼び、開いた皿があれば重ねて隅に寄せる。
男性陣は営業なだけあって話がうまく、場はなごやかに進んだ。
彩絵は聞き役に徹してうんうんと頷いてごまかした。
「あれ、彩絵さん、ちゃんと飲んでる?」
正面にいた黒髪の男に聞かれ、彩絵はグラスを持ち上げる。
「飲んでますよ」
「ぜんぜん減ってないじゃないですか。もっと飲みやすいの頼みましょうか。これとか」
そう言って、彼は店のタブレットで勝手に注文する。「待って、まだ飲み終わってないし」
「まだまだいけるっしょ!」
そう言って、男は笑う。
困ったな、と思いながら合わせるように笑みを返すと、黒髪の男は席を立った。
「まどろっこしい、席変わって。俺、小美地さん狙いだから」
「直球ストレート!」
笑いながら、彩絵の隣にいた女性が席を変わってしまう。男性が隣にいるなんて久しぶりで、彩絵はどきどきした。彼の名前は輪島宏太だったな、と思い出す。
「やだな、私はだいぶ年上なのに」
「三十一歳だっけ。いまどき五歳くらいの差なんて大したことないっしょ。ていうか俺、年上の人がタイプだし」
輪島はさらに距離を詰めて来て、届いたお酒を彩絵の手に持たせる。
「ほら、かんぱーい!」
そう言われてグラスを近付けられると、断れなかった。
かちんとグラスを合わせてから一口飲む。
お酒は苦手だが、それは甘くて飲みやすかった。
「おいしいかも」
「でしょ! この店はほかにもおいしいお酒いっぱいあるから」
輪島はにやりと笑った。
彩絵は彼になんども酒を勧められ、断りながらも気がつけばいつも以上に飲んでいた。
しまった、飲み過ぎだ。
くらくらする頭を抱え、彩絵は思ったが、もう遅い。
「二次会行く人ー!」
「はーい」
紀璃子の声にみんなが手を挙げる中、彩絵は手を挙げなかった。
「小美地さんは行かないんですか?」
紀璃子が聞いてくる。
「私は帰るね」
心なしか、舌がまわってないような気がした。目がとろんとして、眠気がある。
「じゃあ俺が送るよ」
輪島が言う。
「いいよ、ひとりで帰れるし」
まだそれくらいの理性は残っているはずだ。
「駄目だよ、女性のひとり歩きは危ないから」
「やだ、紳士!」
「送り狼じゃね?」
女性陣と男性陣からそれぞれ輪島にやじが飛んだ。
「あはは、私を相手にそれはないかなあ」
彩絵は笑って返す。
お会計を済ませると、二次会組と別れて、輪島と一緒に駅に向かった。
あまりに断るのも申し訳ない気がして、送るという言葉を断りきれなかったのだ。
夜の冷たい空気はほどよく酔いを醒ましてくれる気がする。
途中、彼が手を繋いできて、彩絵はどきっとした。
ふりほどくのも失礼な気がして、彩絵は緊張したまま手を引かれる。
「こっちのほうが近道なんだ」
輪島が言い、狭い路地を示した。暗くてなんだか怖い気がする。
「大通りのほうが安全じゃない?」
「俺がいるから大丈夫」
輪島は請け合い、ぐいぐいと彩絵の手を引っ張る。
仕方なくついていき、路地を出た先の光景に彩絵は驚いた。
カップルズホテルが立ち並ぶ道に出てしまっていたからだ。
驚く彩絵にかまわず、輪島は手を引いて歩いて行く。
彼の引く力が強くて足が追いつかずにもつれ、転びかかったときだった。
「あっ」
「危ない!」
輪島がすかさず抱き留め、転ばずに済んだ。
「すみません、足元がふらついて」
「やばいね。ちょっと休んでいこうか」
「え」
彼に手がぐいっと引かれて、ホテルの入口に差しかかる。
「大丈夫です、帰ります」
「大丈夫じゃないでしょ。ってか、最初からそのつもりだったでしょ」
輪島がにたにたと欲望を隠しもせずに言う。
「聞いてるよ、ここ数年男がいなかったから、男が欲しくて仕方ないんでしょ」
「違いますっ!」
慌てて否定した。が、彼はさらに彩絵の手を強く引く。
「清純ぶらなくっていいって。楽しもうぜ」
輪島の目が欲望にぎらつき、さらに引っ張る。
「いや!」
思わず大声で叫んだときだった。
「やめろ!」
男の声がして、輪島の手が何者かによって引き剥がされ、彩絵は抱き寄せられた。
「俺の彼女になにするんだよ」
彩絵の肩を抱いた男性を見て、彼女は驚いた。
「翠山くん!?」
「なんだよてめえ」
輪島が威嚇する。
「彼女の恋人。合コンが決まったあとに付き合い始めたから、今日は仕方なく参加しただけ。わかったらさっさと帰って」
彩絵は唖然とするが、笑みを浮かべた陽希に目で「黙って」と合図を送られ、なにも言えずに成り行きを見守る。
「なんだよ、フリーだって聞いてたのに」
ぶつくさと文句を言いながら、輪島は立ち去る。
あっさりあきらめてくれたことに安心し、彩絵はほっと息をついた。
「……ありがとう、助かった」
彩絵は陽希に素直に頭を下げる。
「まったく、心配して来てみれば、どうしてこんなことになってんですか」
「どうしてって……」
「どうせ、気を遣い過ぎて断れなかったんでしょ。先輩はいつもそうだから」
指摘されて、う、と言葉に詰まる。
「仕事でもそうですよね、そうやって抱えすぎて残業になって。いつもハラハラします」
「ごめん、そんな心配かけてたんだ……」
後輩にバレて心配までされて、カッコ悪いったらない。
「いいですよ、大好きな先輩のためなら俺はいくらでも心配しますから」
彩絵はきゅんとした。
彼はいつもこうやって言ってくれるから、なんどもきゅんきゅんさせられた。
とはいえあくまで後輩なので、それが恋に発展することはなかった。
彼だって気がないから言ってるだけだ。恋する相手にこんな簡単に「大好き」だと言うわけがない。
大通りに行くと、彼はタクシーを拾い、彩絵と一緒に乗り込む。
「今日は俺が送ります」
「そんな、悪いよ」
「あんなことがあったあとにひとりで帰せません」
「う……ありがと」
仕方なく、彩絵は彼の申し出を受け入れた。
「とりあえず綾名方面へ向かってください。国道を国立病院までまっすぐで」
彩絵が言うと、タクシーは出発した。
そうしてしばらくすると温かな車内で眠気が襲って来る。
抵抗できず、彩絵は安らかな眠りへと落ちた。
目が覚めると、真っ白なシーツが目に飛び込んで来た。
ベッドがやわらかくて、かけられた毛布がやわらかくてふわふわした。
気持ちいい、と毛布に頬を擦り、それからぼんやりと目が焦点を結ぶ。
「起きました?」
「——!」
焦点を結んだ先にいた男性に、彩絵は声にならない声を上げた。
「そんなに驚かないでくださいよ。ショック」
陽希は悲しそうに言い、手に持ったコーヒーカップをパソコンのデスクに置いた。
スエット姿の彼はパソコンデスクの椅子に座ってこちらを見ていたようだった。ノートパソコンにはゲームの画面があった。
「だ、だって、どうして……ていうか、ここって」
「俺んち。先輩、タクシーの中で寝ちゃったから家がわかんなくて。安心して、俺はあっちのソファで寝たから」
「そ、そうだったの、ごめん」
ならばここは彼の私室で、自分は彼のベッドを占領して寝ていたことになる。
しかし妙に大きなベッドだった。部屋が広いから違和感がないが、ダブルベッドだ。
部屋の窓からはカーテン越しに光が差し込んでいた。部屋はフローリングで、壁際には本棚があり、びっしりと本が並んでいる。
「メイクは買って来たメイク落としシートで落としておきました」
彩絵は両頬に手を当てて顔をひきつらせる。
「ご、ごめん、ありがとう、どうしよ、こんなすっぴん、ごめん!」
「かわいいですよ、先輩」
くすくすと笑いながら彼は言う。
「寝顔もかわいかった。ごはん三杯……ううん、軽く十杯はいける」
「ちょっとやめてよ」
彩絵は毛布をばっとかぶった。
「隠れないで出て来て。朝ごはんにしましょうよ」
くすくすと笑う彼に、彩絵はそっと毛布から顔を覗かせた。
朝日を浴びて、彼はにこやかに輝く笑顔を見せていた。
のそのそとベッドから降りて、彩絵は自分が彼と色違いのスエットに着替えていたことに気が付いた。
「まさか着替えも……?」
「それは先輩が自分でしてましたよ。寝ぼけながら目の前で着替えようとするから焦った」
「恥ずかしい……ごめんね」
「貴重な酔っ払った先輩を見られたからいいですよ」
そんな言われ方はなおさら恥ずかしくて、彩絵は小さく身を縮めた。
彼に連れられてダイニングキッチンに行くと、オシャレなテーブルセットがあり、椅子に座らされる。
「あ、これうちの製品」
「正解! さすが先輩」
「資料で何度も見たから」
ホワイトオークで作られたテーブルだが、天面はオリタケのセラミックだ。
「ごはん作るから、待っててください」
「……なにからなにまで、ごめんね」
先輩としての面目が丸つぶれだ。
「いいですよ。朝食はパンで良かったですか?」
「うん」
「じゃあちょっと待ってて」
言って、彼はキッチンに立つ。
準備はしてあったようで、トースターにクロワッサンが入っているのを確認してスタートし、といてある玉子でスクランブルエッグを作る。焼かれていたベーコンとウインナーを温め直し、紅茶のポットにお湯を入れて蒸らす。
料理を白い皿に盛り付け、冷蔵庫から取り出したサラダの小鉢を載せる。
最後に、チン、と鳴ったトースターからクロワッサンを出して皿に載せて彼女の前に置く。紅茶もまた白いカップに注がれて、ミルクピッチャーと一緒に置かれた。
「うう、自分で用意しなくてもいい朝食……うれしい」
「独り暮らしですもんね。俺もだけど」
「そうなの、誰かに作ってもらえるのってうれしい」
「これから毎日作ってあげますよ」
「やだ、プロポーズみたい」
彩絵が笑うと、陽希も一緒になって笑った。
「どうぞ、召し上がれ」
「ありがとう。食器は全部オリタケね。食器棚にあるのはオールドオリタケ?」
「よくわかりましたね」
彼は嬉しそうに目を細め、垂れた目の目じりがさらに下がった。
戦前まで海外に出荷されていたオリタケの食器たちをオールドオリタケと呼び、コレクターの間では人気がある。
彼が持つオールドオリタケは白地に繊細な金彩が美しいものだった。あの模様がすべて手作業によるものなのだから、当時の職人の技術の高さがうかがえる。
「オリタケの食器が好きで就職したんだもん、わかるわ。飾り方が完璧ですごい。朝食も完璧。まるでホテルみたい。いつもこうなの?」
「今日は特別。先輩がいるから」
にこにこと陽希が答える。
「そんなこと言われると勘違いしそう。いただきます」
両手を合わせてクロワッサンを手に取る。かじるとさくっと音がしてバターの風味が口に広がる。
「おいしい……。助けてもらった上に迷惑もかけちゃって……今度お礼するね」
「なら、俺とデートして」
「デート!?」
「デートってしたことなくて、してみたかったんです。駄目ですか?」
うるうると見つめられ、彩絵は言葉に詰まった。
そんな顔で見られたらかわいくて仕方がない。
「デートしたことないって、本当に?」
「本当ですよ。ぜんぜんモテなくて。魅力ないのかな」
「そんなことないよ」
彼がモテないわけないのに、謙遜だろうか。
「だったらお願いします。俺にデートの経験させてください!」
両手で拝まれると無碍にはできなくなってしまう。なにしろ彼は助けてくれた恩人だ。
「しょうがないなあ、かわいい後輩の頼みだから、特別だよ」
「やった!」
陽希は嬉しそうに目を細める。
「じゃ、早く食べて行きましょう!」
「え、今日?」
「駄目? 用事ある?」
また、うるうるな瞳の攻撃にずきゅんと胸を打ち抜かれる。彼のこれに逆らえる人はいるのだろうか。
「特にないけど……」
「じゃあ決まり。どこにしようかな。先輩と行きたいところはいっぱいあるから。ベタに動物園とか水族館? ショッピングか……いっそ鎌倉? でもイルミネーションにも行きたいし」
彼は嬉しそうにクロワッサンを口に放り込む。
彼にしっぽがあればぶんぶんと振っていそうだな、と彩絵はほほえましく思った。
食事を終えると、コンビニで買って来た、と化粧品の入った紙袋を渡された。
「ありがとう、あとで代金払うから」
「いいですよ、大したものじゃないから。あと、姉がいらないって置いていった服があるから、良かったら着てください」
そう言ってまた紙袋を渡されて、彩絵は慌てた。
「そんな、駄目だよ」
「先輩が着てくれなかったら捨てるだけですから。シャワーはあっちです」
紙袋を持った状態で浴室に押し込まれ、彩絵は戸惑う。
だが、結局は言葉に甘えてシャワーを浴びて出る。
渡された紙袋の中の化粧品を見て首をかしげた。
ブランド物で、コンビニで買えるはずのないものばかりだった。新品だから、元カノの持ち物だったわけではないだろう。これも実はお姉さんの置いて行った不用品なのだろうか。
服もまた新品のブランド物で、不思議なことにすべてサイズがピッタリだった。
お姉さん、私とサイズが同じなのかな。
彩絵は戸惑いながら浴室を出る。
「ありがとう、さっぱりした。ドライヤー借りていい?」
「髪は俺が乾かしてあげます」
「いいよ、自分でやるから」
「女性の髪を乾かすの、憧れだったんです。やらせてください」
「でも」
「それもお礼の一環ということで」
そう言われると、それ以上は断りづらい。
「じゃあ、お願いね」
「はい!」
彼は嬉々として洗面所でドライヤーを使い、彩絵の髪を乾かす。
さらさらと髪を撫で、優しく上手にドライヤーを当てる。
彼の指が首筋に当たると、背筋が甘美にぞくっとしてしまい、彩絵は焦った。
「先輩の髪、綺麗ですね」
「ありがとう」
彼の家のシャンプーとリンスのおかげかな、と彩絵は思う。自宅で使っているものより数段レベルの高いシャンプーセットだった。
「仕上げに」
彼は洗面台からボトルを取り、二回ほどプッシュして手に出すと、彩絵の髪になじませる。美容師のように両手で髪をはさんで撫でる手つきに、自分が彼の特別な存在だと錯覚してしまいそうだ。
「洗い流さなくていいトリートメントです。香りがよくて艶も出ますよ」
「至れり尽くせりね。ほんと、ありがとう」
「いいえ」
嬉しそうに陽希は答える。
「先輩が俺と同じ香りに……」
つぶやきは小さくて、彩絵の耳には届かなかった。
準備を終えると、陽希は彩絵を伴って地下駐車場へ行った。
彼が自分の車だと言ったのはコルベットで、彩絵は驚いた。全体的にかっこいいが、一見して鳥の翼のように見えるフラッグのエンブレムがまたかっこいい。
「すごい車に乗ってるのね」
「先輩、前にこの車がかっこいいとか言ってなかったですか?」
「そんなこと言ったかな」
会社で車の話題が出たことなど記憶にないのだが、スポーツタイプの車はたいていかっこいいから、そんなことを言ったことがあるかもしれない。
彼はドアを跳ね上げて、それも彩絵は驚いた。
「なんかすごいね」
「シザーズドアにしたほうがかっこいいかと思って改造しました」
車自体も高額だろうに、改造ではどれほどお金がかかるのだろうかと彩絵は思ってしまった。
「乗ってください」
「ありがとう。なんかどきどきする」
車は車高が低くて乗りにくかった。
ギアを見て、マニュアル車だ、とそれにも驚いた。
ドアを閉めた陽希は運転席に乗り込み、うれしそうに彩絵を見た。
「先輩が助手席にいるなんて、すごい緊張する!」
「やあね、大げさ」
彩絵はくすくすと笑う。
「江の島に行きましょう。一緒に海鮮丼を食べて、島を回るんです。夜はイルミネーションを見ましょう」
陽希の声は弾んでいて、エンジン音すらも楽し気だった。
帰りは遅くなりそうだが、彼があまりに楽しそうだから彩絵はなにも言えなかった。
江の島に到着したふたりはまず海鮮丼を食べた。
店を出たら猫がいたので思わずそちらに寄ってしまい、スマホで写真を撮りまくった。
青銅の鳥居の前ではスマホでツーショット写真を撮り、参道を上っていく。
「彩絵さんって呼んでいいですか? デート感を出したいんです!」
「……今日だけだよ」
「やった!」
陽希は跳ねるように悦び、彩絵の手を握る。
「手も握るの!?」
「デートですから」
陽希は満面の笑みで答える。
仕方ない、と諦めて彩絵は苦笑した。弟がいたらこんな感じかな、とほほえましくなり、冬の空気に冷えた手が、つないだところから徐々に温まっていく。
一緒にお土産物屋さんをひやかし、まる焼きたこせんべいを分け合って食べた。
天然石やトンボ玉を置いてあるお店では深海を模したものや猫を模したトンボ玉に目を輝かせた。カクテルガラスのシリーズも綺麗だ。
特に猫と肉球のセットのイヤリングがかわいい。
「うーん、買っちゃおうかな」
「俺が買ってあげます」
迷う彩絵に陽希が言う。
「いいよ、大丈夫」
自分で買うと言っても彼は買ってくれてしまいそうで、彩絵は買うのをあきらめた。
江の島神社に参拝したあとは庭園を見て、展望灯台はあとまわしにして岩屋を見に行った。
夕方になるとシーキャンドルと呼ばれる展望灯台に登り、暮れゆく海と遠く望む富士山を楽しんだ。
陽が沈んでイルミネーションが点灯すると、全面ガラス張りの階段を使って降りた。
イルミネーションを楽しみ、レストランに入った。昼間なら海が見えるらしいが、夜だから外は真っ暗でなにも見えない。だが、それすらもなんだか楽しい。
彩絵はお酒で失敗したし陽希は運転があるからふたりでノンアルコールビールで乾杯をした。
「彩絵さんはこれから、俺の前以外ではお酒は禁止にしてくださいね」
「本当の彼氏でもないのに、そんなこと言う?」
彩絵はくすくすと笑う。
「じゃあ本当の彼氏にしてくれますか?」
「ふふ、どうしようかな」
陽希の冗談に、彩絵は笑って返した。
彼はつきあってくれたお礼だからと食事を奢ってくれて、彩絵は恐縮してしまった。
彼が断固として代金を受け取ってくれないので、お礼は改めよう、とあきらめた。
店を出ると、温まった体が冷気で震えた。
「寒いね」
彩絵が言うと、
「そうだね」
と陽希が手を繋いできた。それだけでなんだか温かくなる気がする。
「こんな楽しいの久しぶりかも。連れて来てくれてありがとう」
店を出てから彩絵が礼を言うと、陽希は顔を輝かせた。
「嬉しいです、そう言って貰えて……またイルミネーションを見たいので、いいですか?」
「いいよ」
陽希は彩絵と手をつないだまま、またイルミネーションに向かった。
色とりどりの輝きに囲まれ、たくさんのカップルや家族連れがはしゃいでいる。
「たくさん歩いて疲れたんじゃない? 帰りの運転、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
にこにこと陽希が答える。
「さすが、若いわね」
「彩絵さんも若いですよ。すごく綺麗だし」
「ありがと」
彩絵は半ば苦笑して答えた。
「彩絵さんはほんと、わかってない」
少しすねたように陽希が言い、彩絵は首をかしげた。
「彩絵さんがどんなに魅力的か、朝までかかっても語り尽くせないのに」
「前から思ってたけど、翠山くんて、すごい褒め上手よね」
「陽希って呼んで」
「陽希くん」
今だけだと思って彩絵が言うと、彼はこれ以上はないというくらいの笑みを浮かべた。眼差しに甘さが漂い、彩絵はどきっとしてしてしまう。
後ろには宝石のようなオブジェが空中に配置され、グラデーションに輝いている。
ちょうど人が途切れてふたりきりになっていて、気付いた彩絵の心臓は鼓動を速めた。
「彩絵さん」
呼ばれて顔を上げると、さきほどよりも糖度を増した瞳が彼女を捉えた。
「好きです」
彩絵はまたどきっとして、そうじゃないから、と慌てて自分に言い聞かせる。
彼は恋愛として言ったわけじゃないんだから。
なんといっても六歳もの差があるのだ。大人として対応しないと。
「ありがとう、私も好きだよ」
彩絵はふふっと笑って答えた。先輩として好きだと言ってくれたのに恋愛と勘違いしそうになるなんて、恥ずかしくて仕方がない。
「……わかってないですよね」
「わかってるよ」
彩絵はにこっと笑って答える。
「絶対にわかってない!」
陽希が勢い込んで言うから、彩絵は目をぱちくりさせた。
「俺、彩絵さんを女性として好きだって言ってるのに」
「え?」
思わず聞き返してしまった。
まさかそんな。
懐いてくれている後輩が、自分を好きだなんて。
「嘘……よね?」
「嘘じゃないです。最初からちゃんと、好きって言ってました」
目をぱちぱちと瞬かせ、彼を見る。
彼は真剣な目をそらしもせずに自分を見つめる。
耐えられず、彩絵は目をそらした。
「もう一回言います。好きです。俺と付き合ってください」
甘い、だけど真剣な声に、もう冗談だとは思えなくなっていた。
「え、だけど、え……?」
彩絵は混乱した。
ふたりの間に恋愛が入る余地などないと思っていた。
じゃれるように「好きです」と言ってくれるのがくすぐったくてかわいかったが、まさかあれは本気だったのだろうか。
「俺は最初からずっと、好きですって言って来ました。俺が彩絵さんを好きなのは会社の全員が知ってます。わかってなかったのは彩絵さんだけです」
「ええ!?」
彩絵は愕然とした。まさかそんなことになっているとは思いもしなかった。
「振り向いてくれるまで待とうと思ってましたけど、このままだといつになるかわかりません。合コンの件で思い知りました。きちんと告白したらわかってくれるかなって思って……」
言葉が途中で切れた。夜目にもわかるくらい真っ赤になっている彼が、なんだかかわいくて仕方がない。
だが、自分はもう三十を超えている。結婚を考えるならば、彼のような若い男性と付き合うわけにはいかない。彼はまだ結婚など眼中にないだろうから。
「私、年下は……」
「待って、言わないで」
慌てて彼が止める。
「年齢なんかで考えないで。俺自身を見て」
「え……?」
「俺、結婚も考えてるから」
「ええ!?」
「だってそうでしょ。彩絵さんの年齢なら結婚も視野に入るってわかってます。きちんと考えて、その上で言ってます。だから年齢だけで斬り捨てないで、一度考えてみてください」
彩絵は返事に詰まった。そこまで言われて即答で断るのが忍びなくて。
「今すぐは返事ができないなら、待ちます。だから俺とのこと、ちゃんと考えてください」
両手をぎゅっと握られて、彩絵は頷いた。
「わかった、考えてみる」
「良かった!」
彼は彩絵をぎゅっと抱きしめる。
髪にすりっと頬を寄せられ、彩絵の動悸が激しくなる。
抱きしめられる腕の力の強さ、改めて感じる背の高さ、肩幅の広さ。今まで感じなかった男らしさを感じてしまい、動悸が止まらない。
お前は男をわかってない、鈍感だ、と言った敬弥の声が蘇る。
本当に自分はわかってなかった。『後輩』でひとまとめにして、彼が『後輩の男性』であることを認識していなかったのだから。
ちゃんと考えないと。
どきどきしながら、彩絵は陽希に抱きしめられていた。
***
彩絵を家に送った陽希は、車を自宅マンションの駐車場に止めると、助手席の座面をそっと撫でた。
「今日ここに彩絵さんが座ってくれた……」
それだけで感無量だ。
しばらく撫でて名残を惜しんだあと、部屋に帰る。
彩絵がいた気配が消えているのが残念で仕方がない。
彼女が使った食器は、彼女がいる手前、洗うしかなかった。可能なら洗わずにとっておきたいところだが、それでは不衛生なのが痛いところだ。
洗ったとはいえ、彼女が初めて家に来て使った食器だ。記念にガラス戸棚に飾った。
自室に入ると彩絵が使っていたベッドの前に跪くように座った。彼女が使った毛布に頬ずりをすると、やわらかな感触に心が浮き立った。
「俺のベッドに彩絵さんが寝たんだ」
最高に幸せだ。
いつか一緒に寝られたら、と思って買ったダブルベッドだ。一緒には寝られなかったが、彼女が寝たというだけで体中が熱くなる。
「彩絵さん、情にもろくて流されがちなくせに、変に思い込みが強いからなあ……俺はずっとただの後輩だった」
なのに、今日は名前を呼び合い、デートをして。告白をして抱きしめるところまで進んだ。抱擁を拒否されなかった。このまま押して行けば、すぐ落とせそうな気がする。今まで遠慮していたのがバカみたいだ。
「ああ、早く結婚したい」
陽希は毛布をぎゅっと抱きしめてから、自室を出た。
彼は自室を出ると、もうひとつの部屋に入る。
そこは白い家具が取り揃えられ、窓にはピンクのカーテンがかかっていた。天井には花の形をした照明。
チェストには小さな観葉植物が飾られている。
扉が閉められたクローゼットには彼女のためのブランドの洋服がたくさん並んでいる。
「彩絵さん……早く一緒に住みたい。彩絵さんの部屋はもう作ってあるから」
彼はひとり、うっとりと呟いた。
***
月曜日、彩絵はどきどきしながら出社した。
陽希に会ったとき、どういう顔をすればいいのかわからない。
朝は彼から『おはよう』とスタンプが来て、ただそれだけでどきっとしてしまったくらいだ。
フロアに行くと、最初に会ったのは紀璃子だった。
「小美地さん、金曜日はあれからどうしました?」
ぎく、と彩絵は動きを止める。
「……なにもないよ」
かろうじてそう答えた。彼女とあの男の関係がわからないし、自分の恥でもある気がして、なにをどう告げていいのかわからない。
「残念。小美地さんに春が来るように、かなり推しておいたんですよ」
「そうなの……?」
頭の中に輪島の失礼な発言がよぎる。男に飢えている、と彼女が吹き込んだのだろうか。
陽希によれば彼が彩絵を好きなのは全社員が知っていたらしいし、その状態で合コンに誘うものだろうか。
「彼、年上が好みって言ってたから小美地さんとぴったりだと思ったのに」
残念そうに言う紀璃子に、彩絵は内心で首を振った。
思いやってくれる彼女がそんな変なことをするわけがない。合コンに誘ってくれたのは彩絵の眼中に陽希がいないと思ったのだろうし、実際、土曜日まで彩絵は陽希を男性として見ていなかった。飢えていると思われたのは、輪島が妙な解釈をしたいせいだろう。
「ごめんね、期待に沿えなくて。合コンはもういいわ」
「そんなあ。小美地さんが心配」
「大丈夫だから」
彩絵は安心させるように笑って答えた。
朝礼を終えて仕事を始めてすぐ、陽希が寄って来た。
「彩絵さん」
彩絵はびくっとした。
名前で呼ぶのはあの日だけのはずなのに。急に名前で呼ばれると周囲になにかあったと思われてしまいそうだ。
「おはよう」
ぎこちなく挨拶を返すと、彼はさっと周囲を見回し、ラッピングされた小さな紙袋を彩絵に渡す。
「プレゼント」
「え?」
「昨日のイヤリング、買っておいたんです。あとでつけてね」
彩絵が買おうか迷ってやめた猫のイヤリングだ。
「だけど」
「早く受け取って。みんなにバレちゃいますよ。それともバレたい?」
彼の垂れた目にいたずらっぽい光が宿る。
プレゼントのやりとりを見られたりしたら、からかわれてしまうだろうし、陽希のファンになにを言われるかわからない。
「ごめんね、ありがとう」
彩絵は仕方なく受け取った。これのお礼もしなくちゃ、と思いながら。
「謝らなくていいのに」
陽希は首を傾げ、それから仕事モードに戻った。
「打ち合わせで使うから、ヴィーナスシリーズの在庫のデータ、確認して送ってもらえないですか?」
「わかったわ」
ヴィーナスシリーズは美の女神のヴィーナスをイメージして作られた食器のシリーズだ。金彩と薔薇の絵を使ったゴージャスな美しさが売りだった。
「彩絵さんにはヴィーナスシリーズよりもローゼリィシリーズが似合うかな」
こそっと耳打ちして、陽希が去っていく。
それだけで彩絵は耳まで真っ赤になってしまった。
仕事モードからのふいうちなんて卑怯だ。早く収まって。そう思うのに、動悸は簡単には収まらない。
ローゼリィシリーズは白い野薔薇をイメージしており、上品で可憐なかわいらしさがある食器だった。まるで自分が上品で可憐と言われているかのようで照れてしまう。
今までの彼ならみんなの前でからっと公言していたから、ぜんぜん色気を感じなかった。耳元で囁かれるだけでどうして艶を感じてしまうのだろう。
仕事に集中しないと。
必死でパソコンに向かう彩絵を、敬弥がけげんな顔をして見ていた。
昼休みになると、彩絵はひとりで食堂に向かった。
食事を済ませてスマホを見ると、陽希からメッセージが来ていた。
ランチに食べたとんかつの写真とともに、今度一緒にとんかつを食べに行きましょうね、と書かれている。
ふふ、と彩絵は笑みをこぼす。おしゃれなお店ではないところが女慣れしてない感じがしてかわいい。
彼の垂れた目の笑顔を思い出し、彩絵の胸は温かさで満ちた。
スマホがまた震えた。メッセージを確認すると、今度は敬弥からだ。
『陽希となんかあった?』
短く尋ねるその文章に、心臓が止まりそうになった。
なんでこんなに早くばれるんだろう。
「小美地さん、ここいいですか?」
声をかけられて顔を上げると、向かいの席に紀璃子がカツ丼の載ったトレイを持って立っていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
きれいな笑顔を見せて紀璃子が座る。
「私はもう食べ終わるところなんだけどね」
「一緒に食べたかっのに」
紀璃子は口をとがらせたあと、あ、となにかを思い出したような声をあげた。
「聞いて下さいよ、小美地さんを送って行った輪島さん、今日、階段から落ちたらしいんですよ」
「ええ!? 大丈夫なの?」
「二、三段くらい落ちて足をくじいただけですんだらしいんですけど、誰かに押されたって言ってるんですよ」
彩絵は恐怖に震えた。
「多分、朝のラッシュだから誰かとぶつかっただけなんでしょうけどね。気をつけないと」
「そうね」
怖い目に遭わされた男性ではあるが、だからと言ってその人がどうにかなるのを望むわけでもない。
なんだか落ちつかなくて、彩絵はコップの水を飲んだ。
「小美地さんって、会社内に好きな人いますよね」
聞かれて、彩絵は水を噴きそうになった。
「い、いないよ」
「だってそう考えないと理屈が合わないっていうか……」
探るように言う紀璃子に、彩絵はどきどきしながら水を飲み直す。
「わかった、北影さんでしょ!」
彩絵はまた水を噴きそうになり、咳き込んだ。
「ち、違うよ!」
「その慌てっぷりは、正解ですね!」
「違うってば」
「隠さなくてもいいのに。そうじゃないかな、ってずっと思ってたんですよねー」
紀璃子はひとりでうんうんと頷く。
「私、協力してあげますよ」
「違うからやめて」
「遠慮しなくていいですよ!」
にやにやと紀璃子は笑う。
彩絵は頭を抱えた。なんと言ったら納得してくれるんだろう。
この状態で陽希に告白されたことを知られたら、とんでもなくめんどくさいことになりそうだ。それとも、陽希とくっつけようとしてくるのだろうか。
「たぶん、北影さんも小美地さんのこと好きだと思うんですよね」
「ないない!」
彩絵は笑って手を振った。
「小美地さん、鈍感だからなー」
また鈍感って言われた。
彩絵は軽く落ち込む。
「まあここは私に任せてください」
「絶対になにもしないで。お願いだから」
彩絵は必死に頼み込む。
「大丈夫です、影からサポートするだけですから」
「だから……」
否定しようとしたときだった。
「紀璃子〜、今ごはんなんだ」
他部署の紀璃子の友人が彼女に話しかけてくる。
そのまま彼女が紀璃子の隣に座り、否定はできなくなってしまった。
合コンに参加させた強引さで、また紀璃子がなにかをしなければいいのだけど。
席を立ってからも不安は残り、敬弥からのメッセージのこともあり、午後の仕事はなかなか集中できなかった。