極上F1レーサーは、ママと息子と夢を追う
湿った雪がぱらぱらと舞い落ちる。
「今夜はしんしんと降り積もります。暖かくしてお休みください」
テレビから天気予報のお兄さんの声が聞こえる。外は氷点下の気温だけど、家の中は嘘みたいに暖かい。
彼と私はこたつに横になりながら、ごろごろとぬくもりを享受する。
「隼人とクリスマスを過ごせるのもこれで最後かぁ」
「別れるようなこと言うなよ、薫」
「私は土日関係ない仕事に就くし、隼人も年が明けたらインターンが始まるんでしょ? 寂しいなぁ。休日合わなくなっちゃうね」
「……そうだな」
隼人は窓の外に目を向けながら呟いた。
恋人の隼人は自動車メーカーに就職が決まった。一報を聞いたときは、なんて彼らしいんだろうと吹き出してしまったことをよく覚えている。
彼の部屋にはスポーツカーのカタログやエンブレムのタペストリーがそこかしこに飾られているし、スマホやパソコンの待ち受けも私の知らない外国人のレーサーという、根っからの車好きなのだ。
「でも、これで満足はしていない」
「満足って?」
隼人は真剣な眼差しで遠くを見ている。
「憧れている男がいる。いつか必ず、あの男を越えてみせる」
彼がそばにあった黒いミニカーを天井のシーリングライトへかざすと、車の後ろから光が放射線状に広がった。
「……今はまだ、遠いけどな」
「できるよ、隼人なら」
「君は簡単に言うけどな」
「簡単でしょ?」
私はくるりと向きを変え、彼の胸に顔を埋めた。
「隼人はバイトも仕事もすぐに決めてくるし、何か欲しいものがあれば無駄遣いせずに貯金する。隼人にできないことなんてないよ」
「……言い過ぎ」
上を見れば彼はほんのり頬を染め口元を手で覆っていて、私は堪らずに胸に寄せた頭をぐりぐりと擦った。
「可愛いー!」
「うるさい」
私には隼人の話は分からない。
だけど、一生懸命な隼人はかっこよくて憧れで。
ずっと隣で見守っていたいと思っていた。
◇◇◇
澄み渡った青い空の下に大きなサーキットが広がっている。モーターレースを明日に控えた会場では、色とりどりにカラーリングを施したレーシングカーがハイスピードでコースを駆け抜ける。
「わぁ!! はやい、はやい!」
車を目で追う息子の琉生の瞳は、太陽を浴びたみたいにキラキラと輝く。今月三歳になる琉生は、男児の例に漏れず車が大好きだ。四六時中ミニカーを手放さないし、どこへ行くにも一緒だ。
誕生日のお祝いも兼ねて車で二時間の距離にあるこのサーキットへ遊びに来たのだが、今日も右手にはしっかりとミニカーを握りしめている。スタイリッシュなブラックのスポーツカーが、彼の一番のお気に入りだ。
「ねぇママ! かっこいいよ! みて!」
「青いのもある! 赤いのも! わあーっ!!」
興奮してピョンピョン飛び跳ねている琉生を見ていると、連れて来て良かったと心から思う。
会社員の傍ら一人で子どもを育てる私は、あまり贅沢させてあげられない。両親が揃っている家庭と同じものを与えてやりたいけど、私一人では限界がある。今日ここに旅行に訪れたのも一年に一回の贅沢であり、私にとっては奮発した方なのだ。
「旅行先が、よりによってサーキットとはね……」
「ん? なぁにママ」
「ううん。気のせい」
はしゃぐ琉生を見ながら私は苦笑いした。
琉生の父親も車が大好きで、ミニカーをコレクションして部屋に飾っていた。学生の頃は二人でよくレーシングゲームで遊んだし、クリスマスやバレンタインには車の形のケーキやチョコを一緒に作ったのも良い思い出だ。
けれども、付き合って三年になる頃突然彼は消えてしまった。
当時の私は激務が続き、彼の家に行ってもトンボ返り。私としては月イチのデートを心待ちに毎日頑張っていたのだが、彼としては物足りなかったのかも知れない。おうちデートがほとんどで、新車や高級車の展示会に一緒に行くこともできなかった。
(もっと彼といる時間を増やそう。そろそろ将来のことも考えたいし、他の部署に異動させてもらえないかな)
海外出張へ向かう飛行機の中で私は決心した。
しかし、出張を終え真っ先に向かったアパートに彼の姿はなく、部屋の鍵が開くことはなかった。
「なんで……」
私は呆然と立ち尽くした。
実家に帰ったとか他の誰かとシェアハウスしているとか、色々な可能性を考えたが、私に告げずにいなくなったことは紛れもない事実だった。
込み上げる涙を抑えることができず、コンクリートの地面ににぱらぱらと落ちる。何がダメだったのか、いつから愛想つかされていたのか、考えても考えても答えは出なかった。記憶の彼はいつも明るく笑っていて、私のことを避けてるようには見えなかったから。
「隼人……」
隼人と会えなくなったストレスで、私は食欲も落ちみるみる痩せていった。頭もガンガンするし、身体も重い。置き手紙のひとつくらいあっても良かったんじゃない?
いつまで経っても治まらない体調不良にだんだんイライラするようになっていたとき。医者はまさかの言葉を告げる。
「妊娠されてますね」
「……え?」
「ここじゃ分からないから、あとは産婦人科で診てもらってね」
「……は、はい!」
驚きと戸惑いはもちろんあったが、それ以上に嬉しくて胸がいっぱいになった。隼人はそばにいないけれど、隼人が残してくれた子どもを大切にしようと自分に誓ったのだ。
琉生が生まれてもうすぐ三年。
電話番号は変えていないが、隼人からの連絡はない。今や、彼は過去の人である。
「そろそろお昼にしようか。えっと……レストランはどっちだったかな」
「あっちだよ!」
琉生は遠くのパステルカラーの建物を指さした。
このサーキットはレーシングコースだけでなく、子供向けの遊具やアクティビティが豊富で宿泊施設も隣接し、広大な敷地面積を有している。
パンフレットを広げてみたが現在地がいまいち分からず、私は首を傾げた。ニコニコする琉生を信じ、私は彼について行くことにした。
「ありがとう! ママを案内してくれる?」
「うん!」
琉生の小さな手のひらをぎゅっと握りしめた。レストラン棟への道すがらにも、クラシックカーや大型バイクが展示してあり、琉生はその度に足を止めて食い入るように見つめていた。真剣な眼差しが尊くて、幼さの残るふっくらとした頬が愛しくて、私はひたすらシャッターを切った。
(この時間がずっと続けばいいのになぁ……)
「ねぇ、ママ、ぼくトイレ!」
「え?」
レストランまであと少しというとき、琉生は突然シャツの袖を引っ張った。見れば、今にも漏れそうに股を抑え足をジタバタさせている。
「えっ、ちょっと待って! もう少しだから!」
「もれるー!」
「きゃああああ!」
私は焦る琉生を両手で抱き抱えた。久しぶりに抱き上げた身体はずっしりと重く、思わずうめき声が漏れた。
辺りには何の用途か分からない白い建物がふたつ。何の看板も表示もないから関係者以外は立ち入り禁止だろう。
「ママ、ねぇはやく!」
「待ってってば!」
琉生は今、トイレトレーニング中だ。
日中はほとんどパンツで過ごしているけど、たまに間に合わないこともあるし、夜はオムツが必須。まだまだ手のかかる年齢でトイレには付き添わなければならない。
私は琉生を一旦降ろし、リュックを前に背負うとしゃがんで後ろを向いた。
「走るからおんぶしよ!」
「……ん」
琉生は素直に頷くと、私の背に身体をもたれかけた。
「よし、しっかりつかまってて」
気合を入れて立ち上がった瞬間──背中にしっとりとした感触がした。
「……あ」
ドクドクと心臓の音が聞こえる。
琉生を背中に背負ったまま、私の身体はフリーズした。
(どうしよう。着替えホテルに預けちゃった……替えのパンツ……も、キャリーケースの中だ。着替えるしかない……けど、どこで? 私のシャツやズボンにも染みてるよね、どうしよう……私の分まで持ってきてないよ……)
「ママ……」
後ろで、琉生の不安気な声がして、私はハッとして首を振った。
「大丈夫! ホテルですぐ着替えよ!」
努めて明るく声をかけたが、ホテルは大きな敷地の反対側だ。敷地内を巡回バスが走っているものの、濡れた身体では乗ることはできない。頑張って歩いて行くしかない。
ポケットから再びパンフレットを取り出した。
レストランのからの距離を指で測ると、一時間くらいはかかるとみた。
「遠……」
あまりの距離に足が動かない。ただでさえ広大な敷地を眺め歩いていたため、すでに足が棒のようなのだ。これ以上歩くなんてなんの修行なのか。
「……」
こんなとき、もうひとり人手がいたら違っていただろう。何か打開策を提案してくれたり、子どもの抱っこによる腕や足の疲労も半分になるかも知れない。
脳裏に琉生の父親の顔が浮かび……ハッとしてふくらはぎをパチンと叩いた。
「琉生、ママに頑張れって言って」
「ま、ママがんばれ……」
「もう一回」
「ママ、がんばって!」
琉生にはパパがいないのだから、どうあがいたってやるしかない。
私は唇を噛み締め、重い足を上げた。
「大丈夫ですかー?」
上の方で、若い男性の声がした。
声のする白い建物を見上げれば、五階の窓から黒い服を着た髪の長い男性が身を乗り出している。
低く甘いその声はどこかで聞き覚えがある気がしたが、今は思い出にふけっている余裕はない。
「すみません、このビルのお手洗いを貸していただけますか? この子お漏らししちゃって、レストランまで間に合いそうになくて」
頼み込むと、男性は困ったように眉を下げた。
「うーん……ここは選手用の宿泊所だからなぁ……」
「選手!?」
「はい。明日からレースが始まるので、一般客とは分けて前乗りしているんです」
ということは……。
私は恐る恐る男の顔を見上げ、すぐに頭を下げた。
「ご迷惑おかけしてすみません! ご親切にお声がけいただいてありがとうございました!」
彼もレースに出場する選手のひとりなのだ。私たちなんかに構っている余裕はないだろう。
「えっ、いや……」
「やっぱり自分で何とかします。弱音吐いてすみませんでした」
私は再び自分に喝を入れ、琉生を背負い直した。琉生のお尻を支える指がプルプルと震え、手首に切り替えて握り締める。
「レースがんばってくださいね! 応援しています!」
ビルの窓際にたたずむ彼に大きく手を振ると、私の背中で琉生も、同じように手を伸ばした。
「お兄ちゃん、がんばってね!」
「ふふっ。良かったね」
本物の選手に会えるとは、なんて幸運なのだろう。お漏らししたときは最悪だと思ったけれど、そのおかげで選手に会えたのだから世の中捨てたものじゃない。頑張る気力が湧いてくる。
「じゃあ、私たちはこれで」
私は軽く礼をし、道なりに歩き始めた。
「待ってください!」
だが、すぐに呼び戻される。
男性は階段を勢いよく駆け下りて、私たちのところへ走って来た。
「許可なら俺が取ります。俺の部屋を使ってください」
「え?」
突然降りてきた男性に私は目を丸くした。ここまで親切にしてもらう理由がない。逆にちょっと気味が悪い。
「結構です。レストランまで急ぎますので」
「構わない。使ってくれ」
「でも……」
「俺が使わせたいんだ。君たちに風邪をひかせたくない」
男性は強引に琉生の背を押した。よろけてつまづきそうになって、慌ててビルの壁に手をつく。おせっかいなのも大概にして欲しい。
「もう。やめてくださ──」
振り向きざまに見覚えのある顔が目に入って、私は一瞬、息を忘れた。
一六五センチの私よりも遥かに背が高くがっちりした身体つき。そして琉生にそっくりな、彫りが深く男らしい顔立ち。昔より髪が伸び、黒髪を肩に垂らしているけれど。
目の前にいるのは正真正銘、私が愛した彼だった。
「隼人……?」
「あぁ、やっぱり。君は薫だったんだな」
隼人が琉生に目を向けると、琉生は身体を震わせてモゾモゾと顔を隠した。
「俺とそっくりな子どもがいるから、誰だろうと思って来てみれば……。これは予想外だったな」
隼人は私の顔を覗き込んだ。
「会いたかったよ、薫」
顔にハラリと落ちた髪を耳にかけ、隼人は目を細めて微笑んだ。妖艶なその顔が私の心の奥に鋭く深く突き刺さり、ドキドキする胸を必死で抑える。
「は、隼人。あの……」
開きかけた私の唇を、隼人は人差し指でそっと止めた。
「俺は勝ちに来たんだ」
「!!」
「今はまだ何も言うな。薫とその子に見守っていて欲しいんだ。勝てるように、安全に走れるように。俺の車を目に焼き付けて欲しい」
「……うん」
私は静かに頷いた。
翌朝も、空は雲ひとつない青空だった。
サーキットにはエンジンの始動を知らせるアナウンスが響き、スタートをカウントダウンする赤いランプがひとつずつ灯る。
「お兄ちゃん、どこかなぁ」
観客席で、琉生はきょろきょろと隼人を探している。
「どこだろうね。ママは黒い車だと思うよ。お兄ちゃんは黒い色が好きだったから」
赤いランプは五つすべて点灯し終えると同時に消え、一斉に車が走り出した。エンジンの轟音が鳴り響き、目にも止まらぬ速さでタイヤが回る。風を切ってコースを曲がり、会場には歓声が沸き上がる。
隼人のレースが始まった。
「今夜はしんしんと降り積もります。暖かくしてお休みください」
テレビから天気予報のお兄さんの声が聞こえる。外は氷点下の気温だけど、家の中は嘘みたいに暖かい。
彼と私はこたつに横になりながら、ごろごろとぬくもりを享受する。
「隼人とクリスマスを過ごせるのもこれで最後かぁ」
「別れるようなこと言うなよ、薫」
「私は土日関係ない仕事に就くし、隼人も年が明けたらインターンが始まるんでしょ? 寂しいなぁ。休日合わなくなっちゃうね」
「……そうだな」
隼人は窓の外に目を向けながら呟いた。
恋人の隼人は自動車メーカーに就職が決まった。一報を聞いたときは、なんて彼らしいんだろうと吹き出してしまったことをよく覚えている。
彼の部屋にはスポーツカーのカタログやエンブレムのタペストリーがそこかしこに飾られているし、スマホやパソコンの待ち受けも私の知らない外国人のレーサーという、根っからの車好きなのだ。
「でも、これで満足はしていない」
「満足って?」
隼人は真剣な眼差しで遠くを見ている。
「憧れている男がいる。いつか必ず、あの男を越えてみせる」
彼がそばにあった黒いミニカーを天井のシーリングライトへかざすと、車の後ろから光が放射線状に広がった。
「……今はまだ、遠いけどな」
「できるよ、隼人なら」
「君は簡単に言うけどな」
「簡単でしょ?」
私はくるりと向きを変え、彼の胸に顔を埋めた。
「隼人はバイトも仕事もすぐに決めてくるし、何か欲しいものがあれば無駄遣いせずに貯金する。隼人にできないことなんてないよ」
「……言い過ぎ」
上を見れば彼はほんのり頬を染め口元を手で覆っていて、私は堪らずに胸に寄せた頭をぐりぐりと擦った。
「可愛いー!」
「うるさい」
私には隼人の話は分からない。
だけど、一生懸命な隼人はかっこよくて憧れで。
ずっと隣で見守っていたいと思っていた。
◇◇◇
澄み渡った青い空の下に大きなサーキットが広がっている。モーターレースを明日に控えた会場では、色とりどりにカラーリングを施したレーシングカーがハイスピードでコースを駆け抜ける。
「わぁ!! はやい、はやい!」
車を目で追う息子の琉生の瞳は、太陽を浴びたみたいにキラキラと輝く。今月三歳になる琉生は、男児の例に漏れず車が大好きだ。四六時中ミニカーを手放さないし、どこへ行くにも一緒だ。
誕生日のお祝いも兼ねて車で二時間の距離にあるこのサーキットへ遊びに来たのだが、今日も右手にはしっかりとミニカーを握りしめている。スタイリッシュなブラックのスポーツカーが、彼の一番のお気に入りだ。
「ねぇママ! かっこいいよ! みて!」
「青いのもある! 赤いのも! わあーっ!!」
興奮してピョンピョン飛び跳ねている琉生を見ていると、連れて来て良かったと心から思う。
会社員の傍ら一人で子どもを育てる私は、あまり贅沢させてあげられない。両親が揃っている家庭と同じものを与えてやりたいけど、私一人では限界がある。今日ここに旅行に訪れたのも一年に一回の贅沢であり、私にとっては奮発した方なのだ。
「旅行先が、よりによってサーキットとはね……」
「ん? なぁにママ」
「ううん。気のせい」
はしゃぐ琉生を見ながら私は苦笑いした。
琉生の父親も車が大好きで、ミニカーをコレクションして部屋に飾っていた。学生の頃は二人でよくレーシングゲームで遊んだし、クリスマスやバレンタインには車の形のケーキやチョコを一緒に作ったのも良い思い出だ。
けれども、付き合って三年になる頃突然彼は消えてしまった。
当時の私は激務が続き、彼の家に行ってもトンボ返り。私としては月イチのデートを心待ちに毎日頑張っていたのだが、彼としては物足りなかったのかも知れない。おうちデートがほとんどで、新車や高級車の展示会に一緒に行くこともできなかった。
(もっと彼といる時間を増やそう。そろそろ将来のことも考えたいし、他の部署に異動させてもらえないかな)
海外出張へ向かう飛行機の中で私は決心した。
しかし、出張を終え真っ先に向かったアパートに彼の姿はなく、部屋の鍵が開くことはなかった。
「なんで……」
私は呆然と立ち尽くした。
実家に帰ったとか他の誰かとシェアハウスしているとか、色々な可能性を考えたが、私に告げずにいなくなったことは紛れもない事実だった。
込み上げる涙を抑えることができず、コンクリートの地面ににぱらぱらと落ちる。何がダメだったのか、いつから愛想つかされていたのか、考えても考えても答えは出なかった。記憶の彼はいつも明るく笑っていて、私のことを避けてるようには見えなかったから。
「隼人……」
隼人と会えなくなったストレスで、私は食欲も落ちみるみる痩せていった。頭もガンガンするし、身体も重い。置き手紙のひとつくらいあっても良かったんじゃない?
いつまで経っても治まらない体調不良にだんだんイライラするようになっていたとき。医者はまさかの言葉を告げる。
「妊娠されてますね」
「……え?」
「ここじゃ分からないから、あとは産婦人科で診てもらってね」
「……は、はい!」
驚きと戸惑いはもちろんあったが、それ以上に嬉しくて胸がいっぱいになった。隼人はそばにいないけれど、隼人が残してくれた子どもを大切にしようと自分に誓ったのだ。
琉生が生まれてもうすぐ三年。
電話番号は変えていないが、隼人からの連絡はない。今や、彼は過去の人である。
「そろそろお昼にしようか。えっと……レストランはどっちだったかな」
「あっちだよ!」
琉生は遠くのパステルカラーの建物を指さした。
このサーキットはレーシングコースだけでなく、子供向けの遊具やアクティビティが豊富で宿泊施設も隣接し、広大な敷地面積を有している。
パンフレットを広げてみたが現在地がいまいち分からず、私は首を傾げた。ニコニコする琉生を信じ、私は彼について行くことにした。
「ありがとう! ママを案内してくれる?」
「うん!」
琉生の小さな手のひらをぎゅっと握りしめた。レストラン棟への道すがらにも、クラシックカーや大型バイクが展示してあり、琉生はその度に足を止めて食い入るように見つめていた。真剣な眼差しが尊くて、幼さの残るふっくらとした頬が愛しくて、私はひたすらシャッターを切った。
(この時間がずっと続けばいいのになぁ……)
「ねぇ、ママ、ぼくトイレ!」
「え?」
レストランまであと少しというとき、琉生は突然シャツの袖を引っ張った。見れば、今にも漏れそうに股を抑え足をジタバタさせている。
「えっ、ちょっと待って! もう少しだから!」
「もれるー!」
「きゃああああ!」
私は焦る琉生を両手で抱き抱えた。久しぶりに抱き上げた身体はずっしりと重く、思わずうめき声が漏れた。
辺りには何の用途か分からない白い建物がふたつ。何の看板も表示もないから関係者以外は立ち入り禁止だろう。
「ママ、ねぇはやく!」
「待ってってば!」
琉生は今、トイレトレーニング中だ。
日中はほとんどパンツで過ごしているけど、たまに間に合わないこともあるし、夜はオムツが必須。まだまだ手のかかる年齢でトイレには付き添わなければならない。
私は琉生を一旦降ろし、リュックを前に背負うとしゃがんで後ろを向いた。
「走るからおんぶしよ!」
「……ん」
琉生は素直に頷くと、私の背に身体をもたれかけた。
「よし、しっかりつかまってて」
気合を入れて立ち上がった瞬間──背中にしっとりとした感触がした。
「……あ」
ドクドクと心臓の音が聞こえる。
琉生を背中に背負ったまま、私の身体はフリーズした。
(どうしよう。着替えホテルに預けちゃった……替えのパンツ……も、キャリーケースの中だ。着替えるしかない……けど、どこで? 私のシャツやズボンにも染みてるよね、どうしよう……私の分まで持ってきてないよ……)
「ママ……」
後ろで、琉生の不安気な声がして、私はハッとして首を振った。
「大丈夫! ホテルですぐ着替えよ!」
努めて明るく声をかけたが、ホテルは大きな敷地の反対側だ。敷地内を巡回バスが走っているものの、濡れた身体では乗ることはできない。頑張って歩いて行くしかない。
ポケットから再びパンフレットを取り出した。
レストランのからの距離を指で測ると、一時間くらいはかかるとみた。
「遠……」
あまりの距離に足が動かない。ただでさえ広大な敷地を眺め歩いていたため、すでに足が棒のようなのだ。これ以上歩くなんてなんの修行なのか。
「……」
こんなとき、もうひとり人手がいたら違っていただろう。何か打開策を提案してくれたり、子どもの抱っこによる腕や足の疲労も半分になるかも知れない。
脳裏に琉生の父親の顔が浮かび……ハッとしてふくらはぎをパチンと叩いた。
「琉生、ママに頑張れって言って」
「ま、ママがんばれ……」
「もう一回」
「ママ、がんばって!」
琉生にはパパがいないのだから、どうあがいたってやるしかない。
私は唇を噛み締め、重い足を上げた。
「大丈夫ですかー?」
上の方で、若い男性の声がした。
声のする白い建物を見上げれば、五階の窓から黒い服を着た髪の長い男性が身を乗り出している。
低く甘いその声はどこかで聞き覚えがある気がしたが、今は思い出にふけっている余裕はない。
「すみません、このビルのお手洗いを貸していただけますか? この子お漏らししちゃって、レストランまで間に合いそうになくて」
頼み込むと、男性は困ったように眉を下げた。
「うーん……ここは選手用の宿泊所だからなぁ……」
「選手!?」
「はい。明日からレースが始まるので、一般客とは分けて前乗りしているんです」
ということは……。
私は恐る恐る男の顔を見上げ、すぐに頭を下げた。
「ご迷惑おかけしてすみません! ご親切にお声がけいただいてありがとうございました!」
彼もレースに出場する選手のひとりなのだ。私たちなんかに構っている余裕はないだろう。
「えっ、いや……」
「やっぱり自分で何とかします。弱音吐いてすみませんでした」
私は再び自分に喝を入れ、琉生を背負い直した。琉生のお尻を支える指がプルプルと震え、手首に切り替えて握り締める。
「レースがんばってくださいね! 応援しています!」
ビルの窓際にたたずむ彼に大きく手を振ると、私の背中で琉生も、同じように手を伸ばした。
「お兄ちゃん、がんばってね!」
「ふふっ。良かったね」
本物の選手に会えるとは、なんて幸運なのだろう。お漏らししたときは最悪だと思ったけれど、そのおかげで選手に会えたのだから世の中捨てたものじゃない。頑張る気力が湧いてくる。
「じゃあ、私たちはこれで」
私は軽く礼をし、道なりに歩き始めた。
「待ってください!」
だが、すぐに呼び戻される。
男性は階段を勢いよく駆け下りて、私たちのところへ走って来た。
「許可なら俺が取ります。俺の部屋を使ってください」
「え?」
突然降りてきた男性に私は目を丸くした。ここまで親切にしてもらう理由がない。逆にちょっと気味が悪い。
「結構です。レストランまで急ぎますので」
「構わない。使ってくれ」
「でも……」
「俺が使わせたいんだ。君たちに風邪をひかせたくない」
男性は強引に琉生の背を押した。よろけてつまづきそうになって、慌ててビルの壁に手をつく。おせっかいなのも大概にして欲しい。
「もう。やめてくださ──」
振り向きざまに見覚えのある顔が目に入って、私は一瞬、息を忘れた。
一六五センチの私よりも遥かに背が高くがっちりした身体つき。そして琉生にそっくりな、彫りが深く男らしい顔立ち。昔より髪が伸び、黒髪を肩に垂らしているけれど。
目の前にいるのは正真正銘、私が愛した彼だった。
「隼人……?」
「あぁ、やっぱり。君は薫だったんだな」
隼人が琉生に目を向けると、琉生は身体を震わせてモゾモゾと顔を隠した。
「俺とそっくりな子どもがいるから、誰だろうと思って来てみれば……。これは予想外だったな」
隼人は私の顔を覗き込んだ。
「会いたかったよ、薫」
顔にハラリと落ちた髪を耳にかけ、隼人は目を細めて微笑んだ。妖艶なその顔が私の心の奥に鋭く深く突き刺さり、ドキドキする胸を必死で抑える。
「は、隼人。あの……」
開きかけた私の唇を、隼人は人差し指でそっと止めた。
「俺は勝ちに来たんだ」
「!!」
「今はまだ何も言うな。薫とその子に見守っていて欲しいんだ。勝てるように、安全に走れるように。俺の車を目に焼き付けて欲しい」
「……うん」
私は静かに頷いた。
翌朝も、空は雲ひとつない青空だった。
サーキットにはエンジンの始動を知らせるアナウンスが響き、スタートをカウントダウンする赤いランプがひとつずつ灯る。
「お兄ちゃん、どこかなぁ」
観客席で、琉生はきょろきょろと隼人を探している。
「どこだろうね。ママは黒い車だと思うよ。お兄ちゃんは黒い色が好きだったから」
赤いランプは五つすべて点灯し終えると同時に消え、一斉に車が走り出した。エンジンの轟音が鳴り響き、目にも止まらぬ速さでタイヤが回る。風を切ってコースを曲がり、会場には歓声が沸き上がる。
隼人のレースが始まった。