運命の在処
「お、わった……」

 ファイルの送信ボタンを押して、『送信完了』の文字を確認するところまでが限界だった。気力の尽きた私は、そのままばったりと床に倒れ込んだ。
 恩義のある仕事先からの突発の依頼が入ってスケジュールが狂い、無理を重ねに重ねた末のことだった。なんとか、本当になんとか、平常通りの仕事も含めて締切破りという結果にはならずに済んだのは幸いだったが、二度とこんな無茶なスケジュールは組まない……と思いながら、寝床へと這いずろうとしたのが最後の記憶だった。


 そして、次に目が覚めたら、なんだかきらきらした見知らぬ青年に見下ろされていた。

「あ、気が付いた? まさか丸一日目が覚めないとは思わなかったから、どうしようかと思ったよ」

 誰かに介抱されているのもかろうじて認識していた。連れ合いを作らず独り身で過ごす人々が増えたことで、独り暮らしの人間への介護支援は充実してきている。
 例にもれず独り身独り暮らしの私は、そういう層向けの介護サービスに入っていたから、倒れた時点で異常を検知して介護員が派遣されたんだろうと思っていた……のだけど。

「介護員の人には帰ってもらったよ。いてもらってもよかったんだけど、スペース的に三人はちょっと厳しかったし」
 丸一日目覚めなかった、というのはあり得る話だ。効率を考えて徹夜はしていなかったけど、睡眠時間はがっつり削っていた。体が休息を欲するのも当然だ。
 あり得ないのは、目の前の――生きている人間かと疑うほどに整った容貌の、見知らぬ青年の存在である。

「……あなた、だれ、ですか」

 寝起きに掠れる声で問う。
 「喉大丈夫? はい水」なんて言ってペットボトルを渡しそうとしてきたその人は、警戒を通り越して不審者を見る目で受け取らないことを選択した私に、ぱちりと目を瞬いた。

「そっか、初対面だもんね。……うーん、起き抜けにするような話じゃないんだけど、そうも言ってられないか」

 そして、私に水を受け取らせるのを諦めて、姿勢を正して、――理解しがたいことを、言った。

「俺はね、あなたの『恋人候補』なんだ」
「…………は?」

 間の抜けた声が口から漏れた。人間、耳から入った言葉が理解できないと、意味のある言葉では聞き返せないらしい。

「お試しの恋人、って言ってもいいのかもしれないけど。……あなた、アンケートに答えたよね」
「……アンケート?」
「そう。あなたの仕事先から、よければ回答をって送られてきたやつ」

 言われて、思い出す。確かに締切ハイになってる最中に、お得意先から送られてきた新規プロジェクトに関わるアンケートとやらに気分転換に答えた記憶はある。文章記述式じゃなくてチェック式だったので、そんなに時間はかからなかった。昨今の『結婚しない・恋人もつくらない人々に関する意識調査』って感じのものだったはずだ。
 社会問題として取りざたされているくらいだ。お得意先の元を辿ればかなりの大企業なこともあって、特に疑問も持たずに回答した。
 引っかかったことと言えば、『この調査、及び関連するプロジェクトの仔細に興味があるか』みたいな項があったことくらいだ。いったい何を始める気なんだろう、何かネタになるかな、とか思って『興味がある』にチェックしたような。

 そこまで考えて、まさか、と思う。そしてそれはそのまま口から滑り出た。

「……まさか」
「うん、多分そのまさか。あなたはモニターに選ばれたんだ。このマンションも管理会社の大元を辿れば同じ企業に行き着く。だから俺が入れたってわけ」
「そ、それにしたって、同意とか……そういうの必要でしょう、普通」
「そこもクリアしてる。その様子だとろくに中身確認しないで返信したんだろうけど、伺いのメッセージが届いてたはずだよ」

 言われて、倒れた時のまま開きっぱなしだった端末にとびつく。幾つかメッセージを遡ると、確かにあった。日付的に締め切り前の修羅場真っ只中だ。絶対にまともな判断力がなかった自信がある。
 信頼できるところにしか開示していない連絡先だとはいえ、あまりに迂闊な過去の自分に眩暈がする。文面が仕事の依頼の前段階の打診っぽいから深く考えなかったんだろうな、という自分の思考も伺えてしまって更に眩暈がする。

「一応、今言った事情とか俺の身元とか、証明する用意はあるよ。だからとりあえず落ち着いて話せる状態を整えない?」

 その言葉にはこちらへの気遣いがあらわれていて、何とはなしに居心地の悪い心地になりながら、私は頷いたのだった。


* * *


 正体不明――もとい、『恋人候補』だと言うその人は、『来生(きすぎ)ライ』と名乗った。「ライって呼んでほしいな」と言われて、とりあえず要望を呑むことにする。この際、初対面の美形の呼び名なんて些細なことだ。
 名乗り返そうとすれば「改めて名乗ってくれなくても、知ってるよ。――東雲(しののめ)彩加(さいか)さん」とにこりと笑われた。
 ……まあ、普通に考えて、事前情報は与えられて来てるよね。
 ライの説明をまとめると、こうだ。
 恋愛に興味が全くないわけではないけれど積極的に恋人をつくることをしない、というような層の人間に『恋人候補』を派遣して、うまく『恋人』になればよし、そうでなければその理由をデータとして収集する――という名目でライは私の元に派遣されてきた、と。
 そしてこの『恋人候補派遣』からの『恋人関係成立』までがうまくいくようなら、もっと大々的に行われるようになるらしい。

「……いろいろと無理がありすぎない?」

 率直な感想を口にすると、ライは肩をすくめた。

「気持ちはわかるけどね。でもこれ、結構な一大プロジェクトなんだよ」

 それは提示された資料とかでわかってはいるけれど、そもそも。

「本気でこれで恋人関係が成立すると思ってるの?」
「俺は末端だからなぁ。でも、『恋人をつくる』っていうところに行き着くまでが面倒で恋人をつくらない人にはいいんじゃない? お近づきになるためのあれこれすっとばして、『自分いかがですかー』って相手候補がやってくるんだから」

 「一応恋人に求める条件とかも考慮して派遣はされてるし」と続けられて、アンケートの中にそういった項目もあったことを思い出す。つまりライは私が恋人に求める条件として答えた内容をクリアできると見込まれた人材ということだ。
 恋人に求める条件がやみくもに多いというわけでも、難しい条件があるというわけでもないような回答をしたので、そういう面でモニターに選びやすくはあったかもしれない、とは思う。だけど。

「……私、顔の良さは特に求めてなかったはずだけど」

 そりゃあ顔がよければ眼福ではあるけど、美人は三日で飽きると言うし、今時美形で目の保養をしたかったら仮想世界(バーチャル)がある。それに、整形技術の向上と安価での普及で、自分の体を弄ることも珍しくなくなった昨今だ。見るに堪えない容貌の人を探す方が難しい。
 そういうのが相俟って、顔の良さは重視していなかった。というかこんな段違いの美形を求めた覚えはなかった。

「うん、知ってる。――俺が、選んだんだ」

 ふ、と。ライがずっと浮かべていた笑みを消して言った。特上の美形が人懐こさを消すと、息をするのも憚られるというのを、その瞬間、身をもって知った。

「……選んだ?」
「うん、そう」

 ライがにぱっと笑う。詰めてしまっていた息を、そっと吐き出した。……心臓に悪い。
 そんな私の様子に気付いてるのか気付いてないのか、ライはそのまま続ける。

「最終的には、挙げられたモニター候補の中から、『恋人候補』自身で誰のところに行くか決められたんだよ。で、俺はあなたを選んだってわけ」
「それは、どうして」
「あなたがいいと思ったから」

 あまりにも真っ直ぐに言われてしまって、なんだかそれ以上聞くことができなかった。『どうして私がいいと思ったのか』なんて、口に出して真正面から訊ねるのは少し恥ずかしかったのもあるけれど。

「まぁ、いろいろ思うところもあるだろうけど、うっかり承諾までしちゃったのが運の尽きだと思って、付き合ってもらえると助かるな」
「……その『付き合って』っていうのは」
「どっちの意味で取ってもらっても。大丈夫、無理強いはしないよ。それじゃあモニターの意味がないしね」

 そうして私は結局、「どうぞよろしく」と差し出された手と、笑顔の圧力に屈してしまったのだった。


* * *


 私が住んでいるのと同じマンションの一室を拠点とするライは、実にまめまめしく、甲斐甲斐しく立ち回った。
 栄養バランスの考えられた食事を作っては持って来て、締切が近づくたびに荒れてゆく私の部屋を整え、仕事にかまけると放りがちな生活に関するありとあらゆることを人並み以上の水準に引き上げてくれた。『恋人候補』が派遣されたんじゃなくて、家事代行が派遣されたのかと思うほどだった。
 同じ空間に居ても身の危険を感じさせないために性的欲求を抑制する措置を受けているという説明を聞いたときは、プロジェクトの本気度に関心するやら呆れるやらだった。
 決して押しつけがましく感じない態度と絶妙な線引きの見極めにより、私の許容範囲に収まったライの手腕は見事だったという他ない。要するに私は、流されるままライのいる生活に慣れたのだった。

 尽くされるってこういう気持ちなんだなぁ、と、かつて書いたバーチャル恋愛ゲームのシナリオに思いを馳せてみたりしつつ、正直なところとても居心地はよかった。そう感じるように振舞われているのだから当たり前なのだけど。
 そんなわけで、端末に向かって仕事をする私と、適宜休憩を入れられるようにと気遣って食事や飲み物など持って来てくれるライ、というのは気付いたら『いつも』の風景になっていた。
 今はまだ私の部屋で食事を作ったりまではさせてないけど、そのうちそれもなし崩しに許可してしまいそうな未来が見えなくもない。今でさえ「わざわざ自分の部屋と往復するの面倒じゃないのかな」とかちょっと思ってるし……。

 自分の部屋に戻っているときと私の部屋で家事をしているとき以外のライは、基本的に私の仕事の邪魔をしないように大人しくしている。自分の携帯端末を弄っていたり、何が楽しいのか私の仕事する様を眺めていたり。
 私が同じ空間に人が居ても集中力が削がれないタイプだったのと、「構ってほしいとは言わないけど、一応『恋人候補』として少しでも長く時間を共にさせてもらいたいな」というライの主張による妥協点だ。

 同じ空間に居て苦痛を感じない距離感を維持したまま時間を共有し続ければ、絆されるというか流されるというか、気を許してもいいかなと思ってしまうのはふつうだと思う。
 なので、仕事の合間の気分転換に、ライと他愛ない会話を交わすようになるのには、そう時間はかからなかった。

「ライって、このプロジェクトのために雇われてる形になるんだよね?」
「うん、そうだよ」
「どういう経緯でこんなあやしげなプロジェクトに関わることになったの? その顔があれば、他にもっとまともで稼げる職があったでしょうに」

 この疑問はわりと初期から抱いていた。天然自前ものらしいけれど、それを疑ってしまうくらいに整った顔。いわゆる中性的な顔立ちに分類されるだろう。男物を着れば細身の優男風、女物を着れば高身長のモデルと見紛う。人には好き好きがあるといえど、かなりの万人受けの素材だ。
 いくら大企業の一大プロジェクトとは言っても、派遣の『恋人候補』だなんてけったいなものを職(というのも何だか違う気がするけど)にすることはなかっただろうに。

 私の投げかけた問いに、ライは軽く首を傾げた。

「もっとまともで稼げる職って?」
「モデルとか芸能人とかあるでしょ」
「それまともかな? それに今じゃバーチャルに押されてるでしょ、リアルなヒトのモデルとかって」

 それは一理あるけれど、そういう事情を差し引いてもライならば人気を博しただろう、と思うのは欲目だろうか。
 口には出さなかったけれど、内心が伝わってしまったらしい。ライはくすりと笑って、「そんなにこの顔を評価してくれてるなら、俺を永久就職させてよ」と冗談めいて口にする。
 元々『恋人候補』として派遣されたとはいえ、そこを飛び越して配偶者希望までちらつかされると、さすがにどういう思考回路をしているのか気になってくる。

「……そんなに人生投げてるの? 孤児とかそういう生い立ちなわけ?」

 もしそれが事実でも事実じゃなくても、踏み込みすぎなのを承知で口にしたのは、これで感情が揺れるなりすれば、少しは人となりも見えるだろうかと思ったからだ。
 何せライは、これまでのところ、何をしても何を言ってもにこにこと嬉しげなそぶりを見せるばかりで、何に喜び、何に怒り、何に悲しむ人間なのかさっぱりなのだ。
 「その人のことを良く知りたければ、何に対して怒りを覚えるのかを知るのが手っ取り早い」という、どこで聞いたんだか今やあやふやな説をほどほどに信じている身としては、それなりに考えた結果さりげなく勝負に出た――といってもよかったのだが、対するライの反応はといえば、怒るでもなく気を悪くするでもなく、世間話の一つですよといったフラットな口調での、「まぁ、そんなようなものかな」だった。

「ほら、俺こんな顔でしょ。小さい頃からやけに変なのが釣れてさぁ。顔がよければ誰でも誘拐やら変質者に遭うってわけじゃないみたいだから、特に目を付けられやすい何かがあったのかもだけど、そこは俺にはわかんないや。で、そういう経験を積み重ねれば人間に不信感も持つし、この顔も厄介ごとのもとでしかないし。見事に『容姿をとやかく言われるのが一番嫌いな人間嫌い』が出来上がったんだけど」

 さらりと語られた内容は、今のライを見ていると信じがたい。何せライは人間嫌いだとか、自分の容姿に思うところがあるような素振りを見せたことはなかった。前者に至っては、博愛の精神でも持っているんだろうかと思っていたレベルだ。
 本人が言うからには容姿をとやかく言われるのが嫌いで人間も嫌いだった時期があるのだろうけど、そこからどうして今のように達観したというか、落ち着いたのだろうか。

「しかも俺の家族、こういう感じの顔じゃないんだよね。パーツパーツで見れば両親からの遺伝要素はわかるんだけど、配置の妙でひとりだけ別種の顔になってるの。家族みんな顔弄ってないし、まぁふつうかなってくらいだし、俺が浮くわけ。で、俺のこの顔で舞い込むトラブルでしょ? 親の精神が参っちゃってさ。あときょうだいもこの顔見たくない時期とかあったみたい」

 先に踏み入ったのは私だけど、どういう顔で聞けばいいのかわからない。本人のテンションが上がるでもなく下がるでもなく一定なので尚更だ。

「だから自分で金稼げる歳になってから家出たんだよね。そっちのがよさそうだったからできる限り縁も切ったし。出て行った人間に煩わされたくないだろうと思って。でも別に恨んでるとかはないし、感謝もしてるし、何で俺だけって思ったことくらいはあるけど、産んで、育ててもらったのは事実だから。そういうわけで、面倒くさい親戚付き合いのあれこれとかはないよ?」

 さもアピールポイントのように押して来られても、経緯が重すぎてコメントに困る。
 でもせっかくライが自分の事情を話してくれる流れになったのだ。もう少し突っ込んでみてもいいだろう。

「それがどうして、否応なく人間と深く関わるような『恋人候補』になったの?」

 問うと、ライは少し考えるような間をおいて、びっくりするくらい優しい目をして。

「『運命』って、信じる?」

 そう、いたずらっぽく笑った。
 その目が、その声音が、あんまりにもきれいで。
 とっさに言葉が出なかった。

「俺はね、信じてるよ。……信じるようになった、っていう方が正しいかな。あなたを見て、あなたを知って。ああきっと、これが運命だって思った」

 それが、お互いに顔を合わせた時のことじゃないのは察せられた。
 まるで口説かれているようだったけれど、ライはただ、自分の中の事実を話しているだけだと、何故かわかった。

「……それは、いつ?」
「モニター候補を教えられたとき。こんな偶然があるなら――それはもう、運命だって思ったんだ」

 どんなに記憶を思い返しても、『恋人候補』としてライが派遣されてこの部屋で顔を合わせるまで、ライに会ったことはないと断言できる。すれ違ったことさえもないだろう。一度すれ違っただけでも覚えているだろうほどに、ライの造形の美しさは頭抜けている。
 だけどライは、モニター候補として私を知る以前に私のことを知っていたと匂わせてくる。偶然を運命と思うような、そんな存在として、私を記憶していた。
 たぶんこれは、どんなに私の頭を捻っても、答えなんて出てこない類の問題だ。だから私は、直球で訊くことにした。

「あなたが私を初めて知ったのは――認識したのは、いつ、どこでだったの?」
「五年前。あなたの綴る文字の中で」

 即答だった。けれどこれもまた、まるで謎かけのような曖昧な答えだ。
 五年前といえば、私はようやく今の仕事――文章での仕事をちらほらもらえるようになった頃だ。今時分、文章は人力よりAIに綴らせた方が早いし、オーダーに即時対応した多種多様な文を作成できる。それこそニュース記事から文学からゲームのテキストまで。
 だから、コストのかかる人間のライターは、よっぽどの実績があるか、問答無用で人を惹きつける文章が書けるか、何らかの魅力的な要素がなければ仕事としてやっていくのは難しい。
 私はそれでも文章を綴る仕事に就きたかったから、必死で案件を探したし、営業もした。その甲斐あって、少しずつ文章で食べていけるだけの仕事をもらえ始めたのが、五年前だ。
 その頃の仕事を思い返す。小さなコラム記事の代打、テーマに沿った記事を量産していく案件、ゲームシナリオの一部のみのライティング……。

 ふと、意識にひっかかるものがあった。
 あまり大きくない企業からの案件だった。『キャラクターとメッセージのやりとりができる』というサービスで、キャラクターを演じてメッセージを作成してほしい、というものだった。今ではAIに任せればリアルタイムで、タイムラグもなく、メッセージの返信どころかリアルタイムで会話しているような音声だって作成できるけれど、「キャラクターに命を吹き込みたい、ユーザーからそう感じられるような返信をしてほしい」と言って依頼してくれた。
 それは私が文章の仕事に就きたかった理由にも繋がる理念だったので、特に気合を入れて臨んだ記憶がある。
 人を雇う分サービスは少し割高で、競合サービスもあったから、その仕事は半年も経たずになくなってしまったのだけれど――もしかして。

「もしかして、ライ、『迷える星々の在処』のユーザー……だった?」

 正解だというように、ライは微笑んだ。

「――俺が人間嫌いを謳歌してた時だったよ。直接人に関わらない仕事をよく紹介してくれてた人が、サービスのレビューを書く仕事をくれてさ。それで知ったのが『迷える星々の在処』だった。比較レビューの仕事だったから、他のサービスもやったけど、レビューが終わっても続けたのは『迷える星々の在処』だけで」

 そこでいったん切って、ライはおどけるように笑った。

「何せ人嫌いが極まってる頃だったから、俺は相当面倒なユーザーだったと思うんだけど、メッセージの相手――人々の感情を糧に生きる長命種って設定だったっけ――は、何を書いても真面目でも不真面目でもない、ただ主観を伝えてくるばっかりで。あれはユーザーの性格に合わせてたんだろうと後から気付いたけど」
「――そうだね、あのキャラクター……『夜月』は、相手がより『話しやすい』ように相手によって対応を変えるという設定だったから」
「やっぱりね。あのサービスは他の人とのやりとりが見れないのが残念だったな。……でも、自分だけが知る『夜月』が在るっていうのもそれはそれでよかった。――俺はね、『夜月』の言葉に救われたんだよ」

 そんな大げさな、と思うと同時、もしかして、という期待で胸がどきどきする。平静でいられない。
 おそらくライだったのだろうユーザーは、『零』と名乗っていた。どうもメッセージの端々から、容姿に対してコンプレックスがあるらしいことは察することができたけれど、基本的に人間が嫌いというスタンスで、初期は答えづらい質問をしてくることも多かった。
 そう――そうだ。その質問の一つに答えたあと、少し態度が軟化した……ような文面になった記憶がある。
 確か、「『綺麗』って、災いみたいなものじゃない?」みたいな質問だった。それに、私は『夜月』として――。

「『綺麗は災い、か。それもまた一つの価値観だな。だが、綺麗なものは、綺麗であるというだけでアドバンテージがある。人間は本能的に綺麗なものが好きだからな。まあ、特に人間であれば、綺麗であるということは要らぬ苦労も呼び込んでくることだろう。そういう人間は、その苦労分はアドバンテージを有効活用してやるくらいの心持ちでいれば面白おかしく生きられそうで、私も見ていて楽しいが――そのアドバンテージを使うも使わないも、それを持つ者の勝手であって、他者がどうこう言うことではないだろうな。だが、美しい薔薇が多くの人々に愛でられる場所に咲こうが、誰の目にも触れないような路地裏で咲こうが、美しさに変わりはないのだ。綺麗なものは、綺麗である。そこには事実があるだけで、それに意味を見つけるのは意思あるものだけの特権なのだろうな』――『夜月』の言葉は、普通のことだったのかもしれない。誰かが何度となく俺にかけてくれた言葉の寄せ集めだったかもしれない。でも、俺の心に響いたのは、そのときの『夜月』の言葉だったんだ」

 ――ああ、と思う。ああ、届いた。

 私が文章を綴る仕事に就きたかったのは、自分が文章で心を動かされた経験を忘れられなかったからだ。
 自分も、誰かの心を文章で動かしてみたかった。何かを届かせて、残してみたかった。

 ――その、体現者が、ここにいる。

 それはなんて奇跡だろう。名前の知れたライターでもない私の前に、私の綴るものに心を動かされてくれた人がいる。偶然を運命と呼んで会いに来て、私の夢は叶ったのだと教えてくれた。
 これを運命と、私も呼びたいと思った。
 ライが私に向けているのが、恋や愛とは違う何かだというのはわかる。もしかしたら近いものなのかもしれないけど、きっと今は違う。
 私がライに感じたものも、やっぱり恋や愛とは違う。
 ……それでもやっぱりこれは、『運命』であってほしいと願うのだ。

「ありがとう。……ありがとう、ライ」

 万感の思いを込めて伝えた言葉の真意は、きっとライにはわからない。それでもライは「どういたしまして」と笑ってくれた。
 それだけでいいと思った。それだけで報われたと思った。

 ――けれど私とライはモニターと『恋人候補』で。
 それだけで終わるはずがないなんて、わかりきっていたことだった。
 そう思い知るのは、ライが『運命』を盾に猛攻をしかけてくるようになってからだった。


* * *


「ら、ライ……なんというか、近くない?」

 なんとなく、徐々に距離が縮まっているとは思っていた。思ってはいたけれど……。
 つまるところ、ライは『迷える星々の在処』ユーザーであったことを教えてくれたあの日を境に、急激に距離を近づけてきていた――心理的にも、物理的にも。
 私がいつも真ん前に陣取って仕事をしている端末の、真横。そこに椅子を持ってきて、にこにこと私の作業を見つめているライ。……すごく近い。物理的に。
 さすがにこれはスルーできないと、先ほどの言葉を発したんだけど……。

「彩加さんの、文字を入力している姿が好きなんだ。きっと『夜月』のときも、そんなふうにメッセージを打ってたんだろうなって思えるから」

 そんなふうに輝く笑顔で言われてしまうと、弱い。ライは「彩加さんの文章が好きだから、もっと読みたい」と、これまでの私が綴った様々な仕事の文章を片端から読んでいた。それが一段落したかと思ったら、これだ。わりと、けっこうな、羞恥プレイではないだろうか。

「彩加さんの邪魔になるなら、やめるよ?」
「……邪魔、にはなってない。……正直、やる気になる」
「ならよかった」

 ライはそう言うけれど、何もよくない。
 ライは私の夢の体現者だ。だから正直、見ているとやる気が湧いてくる。もっともっと、誰かの心を動かせる文章を書こうと思える。
 ――それだけじゃない、のが問題なわけで。 夢見るように、恋うるように、焦がれるように、ライは私を見つめてくる。『運命』と呼んだ相手を、それだけの情熱で見つめてくる。
 『迷える星々の在処』の話をするまでのライは、上手に『運命』への気持ちを隠していた。それはたぶん、私を怖がらせないためだったのだろう。知らない人に好意を寄せられる恐怖を、ライは身を以て知っているだろうから。
 だけど私とライの心の距離が近づき、『迷える星々の在処』の話もして、ライはもう何も隠す気がない。ないので、そういう……好意がたっぷりまぶされた視線で見てくる。

 ……それが、不快じゃない――どころか、ちょっとドキドキしてしまうから問題なのだ。
 ライが好きなのは、究極的には『夜月』なのだと私は思っている。心に響く言葉をかけてくれた、その存在に焦がれているのだと。しかしその『夜月』の向こう側には、ライターである私がいた。でも、『夜月』と私はイコールではないのだ。あれは、ライに合わせてチューニングされたキャラクターだったわけだから、まるっと私と同じ価値観な訳ではない。私の中から紡がれた言葉ではあるけれど、何も知らない私とライが出逢って、ライから同じ質問をされたとして、同じ言葉を返せたとは思えない。
……そういうことをきちんと説明して、私はライのようなスーパーハイスペックな人間に好意を向けられたら安易にドキドキしてしまうような人間なんですよということも伝えなければいけないのだと、最近ずっと考えていたのだけど――。

「彩加さん、どうしたの? 眉間に皺が寄ってる」
「……ライは、私と『夜月』を同一視してるよね?」
「いきなりどうしたの?」
「ずっと言わなきゃと思ってたの。ライは『夜月』への好意を、そのままライターだった私にスライドさせてしまったかもしれないけど……私はもっと、凡庸な人間だから。きっとライの期待には応えられない」

 私の言葉に、ライは軽く眉根を寄せた。

「俺が、彩加さんに抱く好意が間違ってるって言いたいの?」
「ライの好意は、『迷える星々の在処』の中にしかいなかった『夜月』というキャラクターへのものだと思ってる。だから――」

 最後まで言い終わる前に、ぐい、と両肩を掴まれる。これまでにない、乱暴な所作だった。
 至近距離で見ることになったライは、ぞっとするほど美しい、皮肉げな笑みを浮かべていた。

「彩加さんは、俺の気持ちを信じてくれないんだ。俺が、『夜月』に救われたことだけで、彩加さんに好意を抱いたと勘違いしてるような馬鹿だと思ってるんだ」
「そんなこと――」

 言いかけた言葉は、突然唇に触れた感触に――息を奪うような口づけに、途切れさせられた。

「――っ、なに、するの……!」
「俺、『夜月』にはこんなことしたいと思わないよ。あの人は迷える星々を、俺たちを、見下ろしている月だから。見上げて想うことはあっても、感謝することはあっても、同じところに引きずり下ろしたいとは思わない」
「性的欲求を抑制する措置をうけてるとか言ってたのはどうしたの……!」
「気になるのそこなんだ。完全に抑制するものじゃないんだよ。だって、そうじゃないと、モニターに『恋人候補』が惚れられない――惚れたかわからないでしょ」

 恋愛感情と性的欲求って、基本的に切り離せないでしょ。
 言いながら、またライが私の唇を塞ぐ。
 今度はさっきよりももっと長く――もっと濃密な、口づけだった。
 体に力が入らなくなっても、ライが強く抱き寄せているから何も変わらない。私はただただ、ライが叩きつけてくる情欲に翻弄されるがままだった。
 それからどれくらいの時間が経っただろう。ようやく唇を離したライは、いつものように無害そうににこりと笑った。

「……俺の気持ち、わかってもらえた?」
「……勘違いからの好意でも、性的欲求は抱くでしょう」
「彩加さんは頑固だなぁ。そういうところが好きだけど。――じゃあ言葉を尽くそうか」

 それは順序が逆なんじゃないかと思うようなことを言ったライは、力が入らなくてライに寄りかかった状態の私を、あやすように揺らし始めた。

「俺たち、『恋人候補』としてどれくらい過ごしたと思ってるの? その間に、『夜月』と違うところなんていっぱい見つけたよ。他のライターとしての仕事の中で、たくさんの彩加さんの言葉も見てみたし、案外彩加さんが俗物的なこともわかった。俺の顔、ふつうに好きでしょ。熱をこめて見つめられたら、ぐらっと来ちゃうくらいには」
「ぐらっとは来てない……」
「じゃあ、ドキドキしちゃうくらい。そんなの、すぐわかるよ。俺がどれだけ俺に対して好意を向けてくる人間を見てきたと思うの? ……でも、それが嫌じゃなかった。『夜月』と彩加さんは、思想が多少重なるとしても別人だってくらい、わかってるよ。わかった上で、俺は彩加さんをちゃんと好きになった。少なくとも、キスしたくなるくらいには」
「…………」
「彩加さん、『夜月』がどうとかを置いておいて、どう? 俺のこと、嫌い?」

 ……その聞き方はずるい。そんなの、答えは決まってる。

「嫌いなわけ、ない……」
「そうだよね。俺、好かれるように立ち回ったもん。だから、彩加さんに見せてる俺は、全部が全部、俺の素ってわけじゃない。そう言ったら、彩加さんは俺のこと、嫌いになる?」
「……ならない」

 人間が多面性であるのは当たり前のことだ。それだけで嫌いになんてなるはずない。

「それと一緒のことだよ。『夜月』と彩加さんのことも。『夜月』の言葉を生み出した彩加さんがきっかけだったけど、俺はちゃんと、彩加さん自身を見て、好きになった」

 ……そうなの、だろうか。
 いや、そうなのだろう。こんなに言葉を尽くしてくれているのに、まだ疑うのはただの意固地というものだ。

「彩加さんの気持ちが追いついてないのはわかってた。性急な真似をしてごめん……じゃ済まされないのもわかってる。……でも、気持ちを疑われたのは、やっぱりちょっと……傷ついた」

 体に回された腕が、ぎゅっと強く私を抱きしめる。
 ……きっと私は、ライのことを好きになる――なっているのだろう。恋や愛の意味で。 突然のキスに嫌悪感を抱かなかった。それだけが理由じゃないけれど、さすがにうっすら自覚もする。
たとえば、感じる体温がただひたすら心地いいとか、そのまま身を委ねて眠ってしまいたくなるとか――そういうのだって、恋や愛の発露なのだろうから。

「疑って、ごめん」
「いいよ。彩加さんだから。彩加さんから向けられる感情なら、きっとそのうち、なんでも愛しくなる」

 それはなんだかちょっと重すぎる発言のような……と思いながら、私は心地いい体温と押し寄せる眠気に負けて意識を薄れさせてしまったので――。

「『迷える星々の在処』のライターを突き止めてから、ありとあらゆる媒体で彩加さんの痕跡を辿ってたって知ったら、さすがに引かれるかな……」

 そんなライの独白については、知ることはなかったのだった。
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