冷酷旦那様をうっかり殺してしまったら溺愛が始まりました



「ヴラド様なんて嫌い!」

ドンッ

 始まりは、些細な事だったと思う。だけど口論していくうちに怒りを抑えきれなくなった私は、目の前にある夫の胸を力任せに押しのけた。ただのひ弱な貴族令嬢の力で、細身でありながらもしっかり鍛え上げられた彼の身体を動かせるはずもないと分かっていながら。

グラッ

「え、」

 しかし私の予想に反して、彼の体はあっけなく私の手によってバランスを失った。

「ーーーーーー」

 傾いていくその身体の先には、白い、ドレッサーがあって。

 見開かれる血のように赤い瞳、

 天使の羽のように優美に広がる満月のような銀の髪、

 無防備に投げ出される細く長い手足、

 残酷なまでに美しいその顔は、驚愕の色を浮かべていてもなお美しく、

そのすべてが、まるで時が止まったかのようにゆっくりに見えた。私はぼんやりと立ち尽くし、倒れゆく彼の姿を見つめることしか出来なかった。

 その間にも彼の体は、ゆっくりとドレッサーへと近づいていき、そのまま……。

ガンッ!

 固い何かが割れるような鈍い音が、部屋に響き渡った。

「ーーーーーー!」

「!!!」

「………、……………」

 刹那、飛び散る赤い鮮血。

 何が起こったのか、理解できない。いや、したくないといったほうがいいか。

 けれど瞬きもせず、ゆっくりと力なく床へ崩れ落ちる最愛の人の姿に、嫌な動悸が止まらない。緊張でぱさぱさに乾いた唇では、ただ震える声で彼の名前を呼ぶのが精一杯だった。

ドサッ……

「ウ、ウラド様……」

「…………」

 彼は目を見開いたまま、何も応えない。いつもなら声をかけたなら、背を向けたままでも「なんだ」と、必ず返事をしてくださるのに。彼はいつも素っ気ない人だけれども、決して私を蔑ろにするような人じゃない。

 私は棒のように伸びた足を必死に引きずって、彼の元へと近づきもう一度名前を呼んだ。

「ウラドさま…………」

 近づいていくと何が起きたのかが嫌でも分かってしまった。

 不自然に赤く染まった白いドレッサーの角。

 生糸のように美しく艶のある髪を伝いながら絨毯を染め上げていく赤い液体。

 ピクリとも動かなくなった、青白い手。

「あ、ああああああああああああああああああ!!!」

 気が狂いそうだった。
 どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 ただ私はウラド様と、愛する人ともう少しだけ、仲良くなりたいと望んでいただけなのに。



−−−−−−−−−−−−



 私、ローラ・カタルジュと夫であるウラド・ドゥミトレスクの結婚は、世間ではハズレ者同士の結婚だった。

 私は幼い頃から、人と話すときに上手く言葉が話せなくて、そのせいで他人と話すことが苦手だった。上手く言葉が話せないならその分教養を身に着けようといろいろな本を読み勉学に励んではみたものの、そもそも上手く話せない私の話を聞いてくれる人間などおらず、むしろ「何が言いたいのか分からない」と言われてしまう始末。すっかり自信を無くした辛気臭い顔と地味な黒髪に一重の黒目を合わさって、大人になる頃には同性からも男性からも遠巻きにされて、友人の一人もいなかった。

 一方でウラド様は銀色の髪にルビーのように赤い瞳、彫刻のように美しい顔立ちと教養の高さから女性からも男性からも羨望の眼差しを向けられていた。彼も人と積極的に話すような人ではなかったけれど、彼の無口さは私の無愛想さとは違って、逆に優雅さや気品を感じられるのだから不思議だ。

 けれどそんな彼にも欠点が一つ。それはドゥミトレスク侯爵家が先祖代々多妻であり、その妻がみな若くして亡くなるということだ。現に彼の父親であるドゥミトレスク侯爵も、妻が今現在で10人目になる。離婚したわけでも一夫多妻なわけでもなく、前妻である9人の妻たちの全員が1人の例外もなく、何かしらの理由の元に亡くなっているのだ。

 そんな偶然が重なること、ありえるだろうか?しかも全員が全員、3年以内にだ。
 人々は「侯爵家は若い女性を甚振るのが趣味で、全員なぶり殺してしまうのだ」など、「いや侯爵家はその美しい外見と引き換えに呪いを受けたのだ」などと噂している。妻たちは上は伯爵令嬢、下はしがないメイドまで貴賤関係なく選ばれるが、共通して若い女性であったことも、ことのきな臭さを助長させていた。しかし侯爵家は高位貴族であるが故、事件として扱われることも真偽が確かめられることもない。

 息子であるウラド様はまだ一度も結婚しておらず、先祖たちと同じ道を歩むかどうかはまだ分からない。しかし、自分がそのほの暗い遍歴の一番最初の犠牲者になるかもしれないのに、それでも侯爵家に嫁ぎたいという命知らずな人間は流石に社交界にいなかった。
 けれど国を支える侯爵の血を残すことは、貴族としての当然の義務。ウラド公子はもういい年になったので、いつまでも未婚でいるわけにもいかない。
 そこで白羽の矢が立ったのが、親しい人間もおらず大した取り柄もない、いなくなっても誰も困らない私だ。それは、いわば生贄。

 ドゥミトレスク侯爵家との縁談が届いたときに感じたのは、怒りや恐怖でもなく、「なるほどな」という妙な納得だった。
こんなにもどうしようもなくダメダメな私は、どうせ誰にも必要とされないのだから、こんな扱いが相応しいだろう。嫁いだ時点で家には莫大な支援金が入るし、死ねば見舞金が手に入る。もし運が良ければ、ドゥミトレスク侯爵家の血を後世に残し、歴史の1ページにほんの少しでも残れるかもしれない。誰も損しない、良い縁談だ。

 どうせ冴えない人生だ。死ぬのは、少し怖いけれど、求められるなら断る理由もない。

 だから私はウラド・ドゥミトレスクの1番目の妻となった。



-------------


 それから善は急げとばかりに婚約期間は1ヶ月ほどで、私は歴代侯爵夫人が着ていたというヴィンテージのウェディングドレスを着て、最低限の体裁だけが整えられた結婚式を迎えた。それまでウラド・ドゥミトレスクと顔を合わせる瞬間は一度もなく、結婚式の最中も一言も言葉を交わすタイミングはなかった。正面から向き合うことができたのは結婚式が終わり、初夜を迎えるための寝室が初めてだった。

「逃げるなら、最後のチャンスだぞ」

「え?」

 彼は寝室を訪れるなり、私にそういった。血のように真っ直ぐな瞳が、少し怖かったのを覚えている。

「ドゥミトレスク侯爵家に嫁いだ者がどうなるのか、知らないわけじゃないだろう」

「…………」

「彼女たちのように死にたくなければ逃げるんだな。今すぐ屋敷から出ていき、“呪われた夫に殺されそうになった”といえば」

 てっきり「お前はもう俺の花嫁だ!逃げることはできない。大人しく贄となれ!」くらいは言われると思っていただけに、彼の私の身を案じるような言葉に私は戸惑った。

「わ、私に、逃げる場所なんて、あ、ありません」

「……?」

「わわわ、私はいらない人間、なんです。何をやっても、上手くいかなくて、誰とも友達になれなくて、い、生きてたって、誰かに迷惑をかけ続けるだけの人間、です」

「…………」

 ウラド様はあの時から、いつだって私を1人の人間として扱い、どもりがちな私の話を笑ったりせず、目を見て真剣に聞いてくれた。

「そんな私が初めて、必要とされたんです。た、たとえそれが生贄だとしても…………貴方の妻になれたのはきっと、意味のあることです」

 あのときの私は、少し安心していた。途方もなく続く人生の終わりに、華々しく散る役を与えられて、意味のある死を持ってすべての虚無感から解放されると。

「だからせめて、最期まで貴方の妻として、お側にいさせてください」

 だから笑った。私を、彼を安心させるために。

「…………好きにしろ」

 あぁだけど、分不相応にもそれ以上を願ってしまった。

 どうせ死ぬ人間のくせに、貴方の隣を歩くことが、目を合わせることが、名前を呼ばれることが、私の生きる喜びになってしまった。
 もっと貴方のことを知りたい、そう思ってしまった。

 そんな欲張りなことを考えたから、バチが当たったのだろうか。



-------------



「そっんな、わ私、殺すつもりじゃなくて……!」

 私は倒れ伏すウラド様の隣に跪き、投げ出された手をとる。その手は手袋越しでも分かるくらい、冷え切っていた。

 死んでしまった。
 殺してしまった。

 私の、最愛を。
 私の、生きる意味を。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!嘘です、嫌いなんて嘘なんです!愛してます!私はウラド様を愛してます…………!」

 嫌いなんて嘘だ。今もまだ彼のすべてを愛している。
 その悲しげな眼差しも、緊張で固くなる声も、触れ合うことすら怖がる貴方の優しさも。

「私はただ、貴方を苦しませる悩みを、妻として少しでも和らげたくて、貴方のことが知りたかっただけなんです」

 ウラド様は巷では、『呪われている』『化け物』などと心のない言葉を投げかけられる。そして彼も、それを否定しない。だから聞いてしまった。

「貴方は本当に呪われているのですか?」

と。
 もし本当に呪われているのなら、どういった呪いで、私に何が出来るのか教えて欲しかった。
 もし怪物なら、どうして結婚してから3年経つのに、未だに私を食べないのか知りたかった。
 いずれにしたって、私はウラド様のすべてを受け入れるつもりだと、伝えたかった。

 けれどウラド様はそれ以降、私と目を合わせてくれなくなってしまった。
 私に会うたびに辛そうな顔をするばかりになってしまった。
 だから私もつい、意固地になってしまって。

「神様お願いします、私の血も身体も命も魂も全てを捧げます!ウラド様が生きていてくれるのなら、何を隠していたって、たとえ噂通りに呪われていようと怪物だろうと、もう構いません!だからお願いします、私からこの人を奪わないで!」

 私は死んだって構わない。もう十分すぎるほど、貴方に愛をもらったから。でも、貴方が死んでしまってはもう私に生きる意味などない。彼は私のちっぽけな人生で手に入れた、唯一の大切な存在なのだ。
 私は意味がないと知りながら、必死にそう神に祈った。

 ピクッ……

「…………それは、本当か?」

「!」

 私の願いが神に届いたかのように、死んだはずの彼の目がうっすら開いた。

「ウラド様!」

「私が何者でも構わないと。血を捧げても良いと…………」

「えぇ、えぇ!私のすべてを捧げます!だからお願い死なないでください!!!」

「では…………」

ガブッ

「!」

 突如、首筋に鋭い痛みが走った。
 何が起こったのか分からない。ただ分かるのは、ウラド様の綺麗な神が私の肩を流れ、私達の距離がとても近いということだけだ。

「んっ…………」

「…………」

 身体が甘くしびれて、何も考えられない。
 最初に感じた痛みもすぐに暖かく気持ちの良いものになっていて。そこから少しずつ身体の中から何かを吸い出されていくような感覚だけがある。
 いま私は、血を吸われている、のだろうか?
 
「う、うらどさまぁ…………」

「…………」

スッ

 そのまま暫く甘い時間が流れたあと、ゆっくりとウラド様の体が離れ、私はそれを夢見心地で見つめていた。

 ウラド様の顔色は先程の青白さが、すっかりいつも通りに透き通った色に戻っていて、本当に悪い夢を見ていたような気持ちになる。しかし、彼の髪にべっとりとついた赤黒い血が、先程までの悲劇が夢ではないと如実に証明している。

 でも、そうなると分からない。
 どうして彼は動いて、生きているのだろう?

 私の疑問を読み取ったのか、彼は自嘲するようにフッと笑った。

「私が怖いか?」

「……?」

「先ほど頭を打ったときに、私は死んでいるはずだ。それなのにどういうことか私は動き、君の血を啜っている。気味が悪いだろう?」

 やはり、先程の出来事は夢ではないらしい。そして彼も自らの死を自覚している。

 アンデッド
 悪魔
 吸血鬼

 本の中に出てくる悍ましい怪物の名前が次々と脳裏に浮かぶ。人間離れした美しさではあるが、まさか本当に人間ではなかったなんて。ドゥミトレスク侯爵家にまつわる恐ろしい噂も、あながち嘘ではなかったようだ。

…………けれど、私はこの状況にひどく安心していた。

 だって、彼が生きているから。

「いいえ」

「…………何?」

「貴方がどんな存在でもでも構いません。ただ、生きていてくれて良かったです」

 私の言葉に、ウラド様の顔が苦しげに歪む。
 あれだけ出血したのだ、もしかしたら何かしら痛みはあるのかもしれない。私は慌てて彼の身体を支える。

「大丈夫ですか!?どこか痛みますか!?」

 ウラド様は、小さく首を振った。

「身体に問題はない。それより、私は君に謝らねばならぬことがある。私は最近ずっと君を避けていた。気付いていただろう?すまなかった」

「い、いえ」

「…………やっぱり君は、優しい人だ」

 そしてウラド様は、ドゥミトレスク侯爵家の秘密について教えてくれた。

「ドゥミトレスク侯爵家は代々吸血鬼の血を引く家系だ。社交界で噂されている呪われているだの怪物だの話は、全て真実だ。今まで死んでいった嫁たちも、全て吸血により血を吸いつくされてしまった。そんな一族を私は嫌悪し、生涯未婚のままでいることによってこの忌まわしい血筋を絶とうとしたが、結局君が嫁ぐことになった。それでも、理性で抑え込めると思っていた。絶対に祖父や父のように、花嫁を食らうケダモノにはならないと誓っていた。

「けれど君と夫婦を続けていくうちに、自分の中に抗いがたい衝動が生まれ始めていくのを感じた。君にもっと触れたい、もっと愛したい、もっと、深く繋がりたいと…………。それを知られるのが怖かった」

「…………君を、愛してしまったから」

 その言葉はまるで懺悔のようだった。けれど、私の心はまるで春風が吹いたかのようにドキドキと高鳴っていく。

 だってそれは、

「私のことを愛しているから、怖いのですか?」

「あぁ、そうだ。君を愛している、ローラ」

「私も。私も愛しています、ウラド様。たとえ貴方が何者であろうとも、生涯愛し続けます」

「私も、君を生涯愛すると誓うよ。たとえこの先何が起きようと、私の妻は君1人だけだ」

 私達は抱き合い、口付けた。口の中に血の味が広がったが、それすらも神聖な誓いのように思えた。

 そうして私達は夫婦として、心のうちを全て曝け出して向き直った。

「ローラ、行こう」

「はい、ウラド様」

 お陰で私たち夫婦は40年経った今でも、変わらぬ愛を貫き、社交界では有名なおしどり夫婦として若き令嬢たちの見本となっている。







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