最後の旋律を君に
 数日後、病院のリハビリ室にグランドピアノが運び込まれた。
 白い壁に囲まれた静かな空間に、黒く艶やかなピアノがひっそりと佇んでいる。

 律歌は奏希くんと並んで立ち、そっと鍵盤に手を伸ばした。
 指先が触れた瞬間、胸の奥が震える。まるでこのピアノが、奏希くんを待っていたかのように――。

 「本当に……病院にグランドピアノがあるなんて、夢みたいだ」

 奏希くんがぽつりとつぶやく。
 彼の瞳には、驚きと感動が揺れていた。

 「ねえ、奏希くんの音を聴かせて?」

 律歌が微笑むと、彼は少しだけ戸惑った表情を浮かべる。

 「でも……俺、久しぶりに弾くから、ちゃんと弾けるかわからない」

 「大丈夫。私が隣にいるから」

 そっとピアノの椅子に並んで座る。
 隣で見る奏希くんの横顔は、少し顔色が良くなったように見えるけれど、やっぱりどこか儚げで、細くなった指先が切なくて――。

 それでも、今はただ音を紡ぎたい。

 「連弾、しよう?」

 律歌がそっと問いかける。

 奏希くんは驚いたように目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。

 「……うん」

 二人の指が、鍵盤にそっと触れる。
 そして――最初の音が静かに響いた。

 柔らかく、優しく、儚い音色。
 旋律が重なり合い、ゆっくりとひとつの音楽になっていく。
 奏希くんの演奏は、少しぎこちないけれど、それでも変わらず繊細で、心に染み入る音だった。

 律歌は目を閉じる。
 この時間が、永遠に続けばいいのに。

 音楽は、人の心を繋げる。
 そして――

 「律歌……ありがとう」

 奏希くんの小さな声が、音の余韻に溶けていく。

 律歌はそっと彼を見つめ、微笑んだ。

 「ううん、私のほうこそ……ありがとう」

 ――この瞬間が、何よりも愛おしかった。
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