最後の旋律を君に

響き続ける想い

冷たい冬が過ぎ、やがて春が訪れた。
それでも、律歌の時間はあの日から止まったままだった。

奏希くんがいない日常は、色を失い、まるで遠い世界の出来事のようだった。
食事をしても、会話をしても、すべてが上の空で、ただ空白の時間が流れていく。

「お姉ちゃん……」

響歌の声に振り向くと、心配そうな目がそこにあった。

「ねぇ、お姉ちゃん。そろそろ……ピアノ、弾いてみない?」

律歌はかぶりを振った。

「……もう、無理だよ」
「でも、奏希さんとの思い出、ピアノと一緒に閉じ込めたままでいいの?」

響歌の言葉に胸が締めつけられる。
ピアノを弾けば、奏希くんを思い出してしまう。
あの温かい笑顔も、優しい声も、もう二度と戻ってこないのに。

それなのに、どうして――

「……でも、奏希さんは言ってた」

響歌は静かに続けた。

「お姉ちゃんが奏でる音が好きだって……。お姉ちゃんのピアノが、世界で一番心に響くって」

律歌は息を呑んだ。
奏希くんが、生きていた頃に言ってくれた言葉。
あの人は、いつも律歌の音を褒めてくれた。
自信を失っていた律歌に、「君のピアノは美しい」って、何度も伝えてくれた。

――奏希くんは、私の音が好きだった。

――だったら、私は……。

気づけば、律歌は部屋の片隅に置いてあったピアノに向かっていた。
震える指で鍵盤に触れる。
一音、また一音と、ゆっくりと音を紡ぐ。

奏希が教えてくれた、あの曲だった。

ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
それでも、涙を流しながらも律歌は音を止めなかった。
ピアノの音が、優しく心に響く。

奏希くんがこの音を好きだと言ってくれた。
この音を愛してくれた。

「奏希くん……」

律歌は涙を拭い、そっと微笑んだ。

――私は、もう大丈夫だよ。

彼が遺してくれた音とともに、律歌はまた前を向いて歩き出す。
彼の分まで、この音を響かせていくために。
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