【長編】ホタルの住む森
最初に見かけたときは、診療所に来た患者だと思っていた。
だがその後もその場に立ち尽くしたまま入ってくる様子も無い為、患者ではないらしい。
見知らぬ顔だが、ここには良くカップルやアマチュア写真家などがやってくるので、たいして気にも留めなかった。
長い坂道を上がった小高い丘の上にある診療所の前からは、天気が良ければ街を一望でき、遠くの山々が美しく尾根を連ねる姿までもが浮かび上がる。
私有地なのだが、父親の晃が「こんなに綺麗な風景を自分達だけで楽しむのはもったいない」といって、来るものは拒まずで開放しているのだ。
今では知る人ぞ知る絶景スポットで、口コミでやってくる人は後を絶たない。
だが、彼女はどう見てもそのどちらでもないようだった。
彼女は周囲を散策する様子も無く、今にも雨が降り出しそうな空と、水を含んだ大気に枝を震わせる木々を、ただ懐かしそうに見つめていた。
その瞳に大粒の涙を浮かべて…。