落下点《短編》
落下点
目覚めたら、彼はいなかった。
ぼんやりとした視界の中に白い光。
ああ、朝なんだとゆっくりと体を起こす。関節の節々がきしり、と痛んだ。
(…いつの間に、ベッドに運んだんだろう)
部屋の空気は冷えていた。あたし一人の体温では、この室温に保つのでも精一杯なのだ、きっと。
そっと自分の頬に触れる。ザラザラとそこに残る、こびり付いた涙のあと。汚れた水分。
早く顔を洗いにいこうと、ベッドから足を踏み出した時だった。
「…あ、」
思ったよりずいぶん弱っていたらしい。足元がふらついてバランスをくずしたあたしは、慌てて戸棚の取っ手を掴んだ。
反動でバラバラと、しまい込んだばかりのアルバムがこぼれ落ちる。
突然の雨みたいにあたしの頭に降りかかって、あたり一面に散らばる写真。
「いっ…たぁ…」
朝っぱらからどこまでツイてないんだろう。周りにできた少し大きめの水溜まりにため息ひとつ。
そっと目の前の写真に手を伸ばす。そしてふと、その手を止めた。
「────、」
笑っていた。
写真の中のあたしと、彼は、とても幸せそうに笑っていた。無くなるくらいに目を細くした、そっくりな笑顔で。
一枚、一枚、拾い上げる。すぐにでも思い出せる、シャッターの向こうの情景。
…いつからだろう。
いつから、写真を残さなくなったんだろう。
いつから、笑えなくなったんだろう。
写真を握りしめる、指先が震えた。その震えの向こうの感情が、悲しみなのか怒りなのか、やるせなさなのか。あたしには、もうわからない。
笑ったときにできる、目尻のしわとか
照れたときに俯いて、つま先を地面に押し付けるくせとか
全部、全部
…すきで。
涙がこぼれた。もう、残っていないと思ったのに。
ぽつり、ぽつり、ぽつり。今日はきっと雨だ。少し濁った雲が、空にぽっかりと浮いている。
写真の中の彼とあたしは、全部全部、笑っていて。
思い出すのは、どうして綺麗な思い出ばかり。
春には春の。夏には夏の。
…あたしたちの出会いは、秋だった。
【落下点】
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