忘れない
ある日。
勇気を出して彼に話し掛けてみようと思い、小説を膝にそっと置きながらぽつりと言葉を切り出した。
「……あのぉ」
彼の顔を覗き込みながら言うと、彼もそれに気づいて私を見る。彼は不思議そうに私を見つめながら、同じようにぽつりと返事をしてくれた。
「……何か?」
ちょっぴりオウム返しみたいな二人の最初の会話。変な始まり。だけど嫌いじゃなかった。
「……お仕事は、何されてるんですか?」
自己紹介ではなく、最初に聞いた言葉がそれだった。彼は質問に対して優しく答える。
「アーティスト」
「えっ アーティストって芸能人」
驚いてそう言うと、彼は私の顔を見ずに楽しそうに笑って「違うよ」と返す。
「確かに芸能人の人とも交流は無くはないよでも、芸能人をやってるのがアーティストとは限らない。僕は、ただのピアニストだよ」
「ピアニストなんですか」
彼を見つめながら言うと、私に目線を向けて「リスタート〜愛のエチュード〜って曲知ってる?」と質問をしてくれた。
私は嬉しくて元気よく「はい」と答えた。
「ジャニーズのRoseってグループがデビュー曲で歌ってました」
「あの曲…僕が提供した曲なんだ」
「えっ そうなんですか 凄ぉ〜い 目茶苦茶良い曲ですよね 私あの曲好きです」
「ありがとう」
初めての会話なのに、初めてじゃないような落ち着いた話し方に、私はすっかり彼のペースに溶け込まれていった。
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