【短】きみに溺れる
この家の中で唯一、レンが一度も入ったことのない場所がある。
バスルームだ。
寒い夜、レンを思い出して耐えられなくなったときは、逃げるようにお風呂で時間をつぶした。
ぬるいお湯をバスタブいっぱいに溜め、頭までドボンとつかる。
すると、音は鈍くエコーがかかり、視界がゆらゆらと歪み
私は世界から切り離されていく。
せまいバスタブで体を丸めて沈んでいると、幸せな胎児になった気がした。
哀しみも何も知らない
彼の愛すら知らない
無垢でまっしろな存在。
やがて息が苦しくなり、意識がぼんやりしてくる。
体は酸素を求めるのに、私はもっと自分を苦しめたくなる。
彼に選ばれなかった自分を。
消してしまいたくなる。
そして、気づくのだ。
私は幸せな胎児なんかじゃなく
彼に溺れた、ただの水死体だと。
――お風呂から出て、ぐったりとした体をバスタオルに包み、洗面所でうずくまっていると
コンコン、と金属を打つ音が聞こえた。
ろくに頭が回らず、無視していると
「マーヤ、俺だけど」
玄関の方から声がした。