【短】きみに溺れる

最初、人違いかと思った。


前から歩いてきたさやかさんは、私の知らない優しそうな男性と手をつなぎ

そしてもう片方の手を、小さな女の子とつないでいたからだ。



彼女は幸せそうな顔で子供たちと夕食の話をしながら、私に気づかず通り過ぎて行った。



思わずふりかえって後ろ姿を目で追うと

頬をなでる風に、微かに冬の匂いが混じっていて

いつだったか、遠い日の記憶が、ふっと胸をよぎった。





……彼は
今どうしているんだろう。




そんな感情が生まれたけれど

そこにはもう、あの頃のような激しさは存在していないことを、認識する。


代わりにあるのは懐かしさ
そして、爪で掻いたような微かな痛み。



彼と過ごした日々はもう……

枯れるほど流した涙と、
5年という時間のむこうにある。


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