音のない世界 ~もう戻らないこの瞬間~
コップに残っていたコーヒーを一気に飲み干し、いっくんが立ち上がる。
「樹くん…… もう帰っちゃうの?」
寂しそうな声で、いっくんを見上げて理央ちゃんが言う。
「ああ、帰るよ。 理央ちゃん、まおに消毒してやってな。
――― それじゃ」
入り口近くに立っている理央ちゃんの頭をポンポンッと撫でて“見送りはいらないから”と言って、出ていった。
「どうして樹くんが家にいるの? 来る日じゃないじゃん」
玄関の閉まる音を聞いた途端、のんびりミルクティーを飲んでいるあたしに捲し立てるように理央ちゃんが詰め寄ってきた。
「今朝ね、歩いていたら転んだの。 …… いっくんも言っていたでしょ? その時にヒザを擦りむいたの。 それで、歩くのにも膝が痛いから、いっくんに送ってもらったってわけ」
地元駅でいっくんが話しかけてきてくれて、本当によかった。 もし、いっくんが話しかけてくれなかったら、痛むヒザで自転車に乗って帰ってきていただろ。
「樹くんの自転車の後ろに乗ったっていうこと?」
「そうだよ」
乗り心地はあまり良くなかった…… ガタガタ揺れて、お尻が痛い。