蜜事中の愛してるなんて信じない
 あれは、正志が家庭教師になってずいぶんと授業を重ね、長い夏休みの折り返し地点に達した頃。

 漢字を一文字百回書き取りという尋常じゃない宿題と格闘していた。

 朦朧とする意識の中、書き取りに専念する。
 頭にもやあっと浮かぶのは、にっくき敵、その名も正志。

 つい力が入ってしまい、鉛筆(本当はシャーペンがいいのに、正志の強要)の芯がボキっと折れた。勢い余ってノートも少し破れた。

 めくれ上がってしまった部分を中指でなめしていて、はっとした。

 『庶』と書いていたはずが、途中で『鬼』と書いていた。

 つ、ついに精神異常をきたしてきたのかしら!

「これはまずいわ!
さっそくお母さんに言って、あの悪鬼をクビに……」

 急いでリビングに行こうと、駆け足で扉に向かい、勢いよくドアノブを回す。

「誰が悪鬼だと?」

 部屋の扉は椅子を肩に担いだ正志に封鎖された。

 いつもの興味無さそうな顔に、不機嫌をほんの少し閉じ込めたような表情で私を見下ろす。

「ぎゃあぁぁ!
デタアァァァ!!」

 飛びのく私の横を
「うるせ」
と一言吐いてすり抜けると、私の椅子の隣に担いでいた椅子を乱暴に置いた。

「始めるぞ」

 そこにドカッと座った正志は、いつの間にか私の中で恐怖の呪文と化した言葉を口にした。

 

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