太陽が見てるから
相澤先輩を知らない生徒が、この南高校にいたなんて。

「だって! まじで翠辞書には載ってないんだもん」

翠辞書、って何だろうか。

そのフランス人形のような金色の頭の中に、翠にしか分からない文字や単語がぎっしりと詰まっている、とでも言いたいのだろうか。

「いいから行くぞ! 来い、翠」

おれがどんなに急かしても、翠は頑としていっっこうに動こうとはしない。

だって暑いもん、とか、髪の毛が崩れちゃう、なんて。

野球馬鹿な男には理解不能の御託をごろごろと並べ始めた。

「あー! もう!」

おれはいてもたってもいられなくなり、気が付いた時には無意識のうちに、翠の細い手を握り締めていた。

「来い」

「ぎゃーっ! スケベー! 補欠があたしの手握ったー」

「うるせ……」

おれの体は確かに教室にあった。

でも、心も魂も、もうグラウンドへ飛んで行ってしまった。

「相澤先輩のスライダー、見とかないと一生後悔するぞ」

「はあ? スライダーって何? スパイダー? フリスビーの仲間とか?」

「そうそう! そんな感じ」

スパイダーでもフリスビーでも、もう何だっていいのだ。

「いいから行くぞ! 走れ」

「ぎゃー! 補欠に誘拐されるー」

「誰がお前なんか」

おれは翠の手を引き、お構い無しに走り出した。

教室を飛び出し、階段を滑るように駆け下り、玄関で外履きのスニーカーに履き替え、また翠の手を握った。

「ぎゃー! また手握られたー」

「急げ、翠」

「こんの野球馬鹿! かよわき乙女を走らせやがって」

「かよわい? 乙女? どこが?」

「うるさい! 万年補欠」

翠とギャアギャア叫びけなし合いながら、二人手を繋いでグラウンドに1番近い非常口から飛び出した。

目の冴えるような青空が、溜息をこぼしてしまうほどの白い雲が、グラウンドのずっと向こうまで広がっていた。

毎日練習しているグラウンドのフェンスをぐるりと一周囲むように、ギャラリーが縁取っていた。

おれは躊躇している翠の手を引き、ギャラリーを無理無理掻き分けて、グラウンドの中に飛び込んだ。


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