桃陽記
しかし、少女は気に留める様子もなくちまちまと彼の前に回り込む。

正面から見ると、その巨体は威圧感はあるにはあるが、それはどこかこの森に似て、静かで大きな存在感をもたらしている。


膝に肘を置いて垂らす両腕には、ずんぐりとはしているが二関節はありそうな指とその先には黒ずんで鋭い猫のような爪。手の内には手の平が腫れたような肉球があった。



「おはようっ」



もう一度、少女は双眸を細めて明るく声をかける。
その無邪気な笑顔に、大きな人型によく似た獣は内心で驚く。

彼は、人のこんな表情を見た事がないのだ。

そこに、彼の古くから動く記憶の中でこれもまた古い記憶が浮かびあがる。


それは、かつて幼い頃に自分達に面白がって人の言葉を教えたこの森の先代の王の言葉だった。





人は笑う。
それは様々な人の中にある複雑なココロの動きの上澄みでしかないが、よく笑う人とはそれは好き易いものだと。




森中を隈なく移動する性質を受け継ぐ遊牧狒獅(ユウボクヒシ)と言う彼の種は、人里近くもよく訪れるために、稀に人と会う事がある。




皆、腰を抜かすか、恐怖で動けないか、悲鳴をあげる。

こんな、日だまりのような表情は、知らなかった。
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