桃陽記
ふいに話し掛けられ少女は顔を上げる。
しかし、その顔は答えを持った顔ではないと、彼はどこかで悟る。


「生ける者には等しく親がいると先代に教えられている。
おまえの親はどうした?」



その質問にも、少女は首をひねる。
その様子には、彼も首をひねった。
温かくなる陽光の中、大きな獣と小さな少女は不思議そうに顔を合わせている。

「おまえ、己がわからないのか?」

「んー?んー…」

「自分の名前も、か?」

「ん〜…」


しっかりした答えを返さない少女にたいしての憤りなどは常日頃穏やかな彼には起きなかった。

ただ、彼はヒトが彼を恐れるから嫌いなのだ。
彼を恐れなかった少女を彼が遠ざける理由は解消されていた。



「そうか…」


少し残念な気持ちになる。
名前くらい知っておきたかった。



どうやらこの短時間の中で、彼は随分この少女が気に入ってしまっていたらしい事を自覚して、内心閉口した。

やがて、彼は静かに口を開いた。




「小さなヒトの子よ」

「あたしー?」

「そうだ。
ヒトの子、お前は試されている」



この森に、住人達に。



「原則として、この"洗礼"が終わるまで、力で捩伏せられない者が守護することは禁じられている」

「一緒にいたら、いけないってこと?」


微かにその声に滲む淋しげな色に、彼の喉の奥が僅かぐぅ、と詰まった。
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