桃陽記
動かなくなったそれをじっと覗き込んだまま動かない少女に降り注いだのは、大気そのもののような、静かな穏やかな声。


「アナイトセタは産まれた時から生涯助け合い共存する同族が決まっている。千年前のヒトの侵攻の時に痛手を負い、次々と倒れて行く仲間の中でそいつ…アルだけが生き残ってしまった」



その声に少女はハッと顔をそちらに向ける。
木を分けるようにして大きな上体が見え、さらに視線を上げた木の葉の隙間に獅子の顔が覗いていた。


「それから今に至るまで、アルは生きのびるに足りる程の糧は自らの力だけでは殆ど得られなかった」

「お腹空いてたの?それじゃあ…それじゃあこれあげたら、またお話できるかな?」


数時間前にこの遊牧狒獅から貰った木の実を一つ掴んで、既に動かないその口に運ぼうとする。


「アルはもう動かない。先に森に取り込まれた仲間達と同じように、この森に溶けて行くだけだ。それが死だ」

「死…んだの」


ヒトとしての常識を殆ど知り得ない少女は、ぱたりとその木の実を持った手を下ろした。





そして、ただ一筋だけの涙を落としたのだった。



それを、見開くように彼は凝視する。
美しいと感じたのだ。ヒトが。

脆弱で、狡猾で、傲慢で、愚かなばかりのその存在は、愚かゆえに受け入れきれない何かの為に、涙を流す事が出来るのだ。
この森は美しい。
どの生物もありのままで、あるがままに生きていく。

悠久の森を慈しみ、そして受け入れる広さと深さを知っている。


小さくとも、ヒトは愛する事を知っている。

それはその胸を動かすに充分足りるものだった。





「小さきヒトの子よ」


呼ばれた少女は彼に目をやる。
濡れた瞳が黒曜石のように煌めくのが見えた。


「お前が気に入った。お前の力で、私はお前に攻撃を加えられなくなった。今よりお前に力を貸そう」



そう言って、硬質そうな毛で覆われた膝を地に着き、その大きな手で小さな小さな少女の頭を撫でる。





「私の名はディア。王聖地(ノウセイチ)までの道のり、同行しよう」
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