皎皎天中月
稚宝は、主のいない部屋を整えていた。恭姫がいない間に、寝所や居室を掃き清め、あらゆるものを拭き、寝具を替えて、花を活ける。目の前にあることを手際よく、けれども丁寧に片付けていくのは、長年の経験で慣れた。もう、目を瞑っていてもできる気がする。ただ、本当は、恭の供として綺与の店に行き、目を輝かせて織機に向かう恭の姿を見ていたかった。
「稚宝!」
突然大きな声で名前を呼ばれ、稚宝は驚いて、持っていた花瓶を落とすところだった。
「はい」
恭姫の寝台の傍らに、大きな花瓶をゆっくりと置く。
そして寝所の天蓋を出ると、息を弾ませ、た楡羽雨がいた。
「先生……」
「こっちへいらっしゃい」
そう言う羽雨の目は赤い。思わず視線を逸らし、稚宝は、自分の右腕へちらりと目を遣った。
羽雨の診察室は、城勤めの者達の食堂の近くにある。外は穏やかに晴れ、それぞれの空いた時間で昼食を摂る、食堂の絶えない賑わいが聞こえていた。だが、部屋の中は静かだ。衣擦れの音だけが続いた。
羽雨は、稚宝のお仕着せの帯を解き、上着を取った。肌着を脱がせると、明るい光の下に若い身体が顕になる。真っ白なきめの細かい柔肌に、小さな蛇が毒牙を立てて巻き付いていた。
右腕の肘に、蛇殺し草特有の痣がある。
「稚宝……」
稚宝は、静かに、けれども大きく肩を動かして息をした。息を吐ききるのに合わせて、その頬を涙が伝った。
羽雨は思わず、その上体を引き寄せて、腕に抱いた。
「気付いてやれなくて、すまなかったね」
羽雨の声は、途中から掠れた。気付かなかった自分の不甲斐なさ、誰にも言えなかった稚宝の苦しみ、定められた命をはるかに早く巻き取っていく蛇殺し草の恐ろしさ……言葉にできなかった。言葉の代わりに、次から次へと涙が溢れた。