皎皎天中月
 恵弾は、手近なところにあった薬匙を取り、それを墨壺へ漬けた。左腕の袖を捲り、肩まで露わにする。墨の付いた薬匙を右手で引き上げ、墨壺の口で余計な墨を落とす。そしてその薬匙を、自分の左の上腕に当てて引いた。
 恵弾の左腕に、一筋の墨の線が付いた。
「まさか」
 暁晏は立ち上がり、奥の寝台へ向かった。羽雨の顔からは色が失くなる。
 恵弾は暁晏を追った。暁晏は、深く眠る稚宝の左腕の袖を捲った。上腕に薄く蛇の痣がある。蛇は、治りかけた傷を囲んでいる。恵弾が墨で引いたのと変わらない向きの傷を。
 暁晏は、自分を落ち着かせるために、ゆっくりと息を吐いた。つまり稚宝は、自分で自分の腕を、蛇殺し草で傷付けたのだ。……何ために。
「姫の傷を知って、殉ずることを考えたのやも」
「自死まで考えるのならば、傷が浅すぎる。言い訳の一つを作るための工作に思えた。何にせよ、一人で転んで出来る傷ではありません」
 恵弾は懐から小瓶を取り出して、稚宝に噛ませている布に、瓶の中の眠り薬を滴らせた。これで日暮れまで稚宝は目覚めない。
「何だ、それは」
「家の薬です。誘昏膏といって傷の痛みで眠れない患者に持たせるものです。傷口や粘膜から染み入らせて、傷の痛みを感じさせぬように深く眠らせる」
「眠るだけか」
「眠るだけです」
 暁晏の目は厳しい。何を疑われているのか。
「御典医に事の次第や私の懸念を話した。ご心配ならば、今から私がこれを呑みます。濃ければ即時、薄ければ徐々に眠りに就く。さあ、如何に」
 暁晏は眉を顰めたまま、恵弾の手を、そこにある小瓶を懐に戻させた。
「そんなものではなく、稚宝がなぜこのようなことをしたのかを知る術はないのか」
 懐に手を入れたまま、恵弾は腰掛け、水を飲んだ。羽雨にも椅子を勧める。羽雨は虚ろな目をして、それを受け入れた。
「それを考えるのが、あなた方であろう。暁晏さん。私はただの町医者だ」
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