皎皎天中月
「杏恵弾」

 また呼ばれる。
 それは若い声ではない。年老いた声だ。恵正のような嗄れた声でもない。深く澄んだ淵を思わせるそれだ。

 恵弾は薬学書に栞を挟み、書を閉じた。立ち上がり、背筋を伸ばす。周囲の医者等も立ち上がり、その人を迎える。

「梨献士」
 医者の一人にそう呼ばれた老人は、山嶺の積雪を思わせる白髪を、束ねずに垂らしている。髪と同じ長さまで伸ばした髭も白く、ゆったりとした装束と共に彼が動くのに合わせて揺れた。
 献士とは、人民に大きく貢献した者への敬称である。名は、梨広源。神官の長を長らく務めた人物である。とうに亡くなった、恵弾の祖父ほどの年齢だ。この国では長命の類に入る。

「義父上」
 恵弾がそう呼ぶと、梨広源は満足そうに頷いた。
「静かになったろう。これで書見も捗るというもの。いくら祈っても、殺蛇の毒は消えはせぬ」
「なるほど、義父上でしたか」
 王の親心に意見した人物は。

「これは、梨献士」
 医者らの作業部屋に、続けて暁晏が姿を表した。広源の来訪を聞いて急いだのか、息が上がっている。
「暁晏か」
 暁晏は広源を迎える医者達の態度を見て、静かに表情を変える。
「お前ももう若くない、体を労われ」
「はい、ありがとうございます。それより、お話ししたいことが」
「いや、お前と話すのは後だ。私は、娘婿と話がしたくてこの部屋に来たのだ」
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