皎皎天中月
 その「娘」を失ったとき、家の中はまったくの光が消えたように暗かった。母は歯を食いしばって家のことを行い、妻は泣き崩れていた。折しも冬の流行り病の頃で、その病や不慮の怪我は、杏家に訪れた不幸など待っていなかった。父は患者に向き合った。あるいは薬研を引いていた。手が足らなかった。
 手となるべきもう一人は、庭の蔵に閉じこもっていた。恵弾は気が済むまでそうさせておこうと思い、喪失を嘆くのではなく、父と共に働きに働いた。

 蔵の中はしんと冷えていた。僅かな陽光は蔵を温めることはない。
「恵孝」
 軽食を運ぶ。足に何かが当たり、躓いて危うく転びそうになった。何とか踏みとどまる。
「……」
 物音が静まったが、恵孝からの返事はない。暗さに目が慣れると、足元にあったものが見えて来た。梯子だ。二階への昇降に必要なそれが、一階のここに倒れている。二階に上がってから、梯子を外したのだ。

 軽食の盆を傍らに置き、その梯子を二階へと架けた。両の手足を使って、それを登る。
「落ち着いたか」
 恵孝は背筋を伸ばして座り、少年の頃のように書見をしていた。ただ、鬢は乱れ、手は震え、目は血走っている。

「何を」
 乾いた唇が開かれた。
「間違ったのでしょうか。どうすれば救えたのでしょうか」
 強い力で、手にしていた医書の一葉の紙が少し破れる。そこには子を腹の中に宿している女の体の図が描かれていた。
「恵孝……」
 あらゆることを施しても命を救えない。医者であるなら誰もが通る道だ。無念。それと折り合いをつけながら、医の道を進むしかない。折り合いは、自らつけるしかない。
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