ココアブラウン
手を伸ばせば届く位置に新がいる。

その息遣いも気配も手に取るように感じられた。

現実とは思えなかった。焦がれて手の届かなかったものが目の届くところにあるのに嬉しさよりも怖さが先に立った。


ふっと言葉が口をついた。

「君やこし我やゆきけむ おもほえず」

「伊勢物語か。あのときゆかちゃんはあれを読んでた。それは逢瀬のあと斎宮恬子内親王が在原業平に送った歌だ」

下の句を口ずさむ前に新が言った。

「知らないと思った?俺、文学少年だから」



新はあたしを引き寄せて耳元でささやいた。



「これは現実だよ。俺が連れてきみはここにきた」



君やこし我やゆきけむ おもほえず 夢かうつつか寝てか覚めてか

この歌は密会のあとで斎宮が読んだ歌。

あなたがきたのか私が行ったのか、わからない、夢なのか現実なのか

業平と一夜を過ごした混乱の朝に読んだ歌。




このまま朝を迎えたらすべては夢なのかもしれない。


新の背中に手を回して固いその首すじに唇をつけた。


キャンドルの光の中で。
< 155 / 207 >

この作品をシェア

pagetop