ココアブラウン
「ゆかちゃんはどうしてここに?」



「2週間、お休み、もらったから」

「ひとり、だよね。旦那さんとけんかでもした?」


あたしは黙った。

無意識のうちに手の中の文庫本のページを折っていた。

「まじかあ。悪いこと聞いたかな。
ところでこんなところまで来ていったい何の本読んでるの?」


新はあたしの手からページの折れた文庫本を取り上げた。


「懐かしいな、伊勢物語だ。これ、好きだったよ。俺、中坊の時在原業平になりたかったんだ。こういう熱い恋愛するヤツ」


話題がそれてあたしはほっとした。


「井上さん、本の内容知ってるの」

「馬鹿にしてるね。あー、やっぱりゆかちゃんには教養なしと思われてたかあ。知ってるよ。俺、読んだもん。文語で。実は文学少年なんだよ」

「少年?」

「30過ぎて少年はずうずうしかった?」


新の口調はあたしを和ませる。

いつもおどけてて絵里や他の女性社員に人気があって。

あたしは会社では新とその周りの輪に入れなかった。



あたしが入ると若いコたちが気を使ってくれるから。


「俺、実は絵里とか他の女の子よりずっとゆかちゃんの方が歳近いんだよ。気だけ若いの。いつも会社で女の子としゃべるとセクハラ!っていわれるんじゃないかってハラハラしてる」

「そんなこと気にするタイプには見えないけど」

「よくそういわれるけどね、俺ガラスの心臓だから、いっつも周りに気を使ってるよ」


新はスーツのネクタイを緩めてむしりとるようにはずすとアタッシェケースの中に放り込んだ。


ワイシャツの一番上のボタンをはずして、無造作にさりげなく言った。

「ゆかちゃん、今日これから帰るの?」


あたしは何も考えずにここに来た。

泊まるあてもないけど誰もいないあの家に帰りたくもない。


帰らない、そういうと新は言った。



「じゃあ、会社帰ったらさ、サボりの俺の経費黙って払ってくれる?おごるからさ、ごはん食べよ、ね?」








山の向こうに夕闇が迫っていた。

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