初恋
 お父さんはネクタイを緩めながら、ダイニングルームにむかって歩いてく。私はその後ろを歩いた。その時、お父さんから汗の匂いがした。加齢臭みたいな嫌な匂いじゃあない。何だかホッとする匂い、男性の優しい匂いだった。


 お父さんと私はダイニングルームに入った。お父さんは背広を背もたれにかけて、ネクタイをテーブルに置いた。冷蔵庫を開けてアサヒビールを出すと、その場で飲みだした。私は「座って飲んだら」とお父さんを叱る。だって行儀悪いじゃない。


「母さんに似てきたな」


 お父さんは照れ臭そうに頭を掻いて、自分の椅子に座る。ふ〜っていう長いため息が耳に入ってくる。私はガスコンロに火を付けながら「今、仕事忙しいの?」とお父さんに聞いた。


「仕事は忙しくて辛いもんだよ。お前も働いてみればわかるさ」


 お父さんはそういうとアサヒの缶ビールを喉に流し込んだ。ゴキュゴキュって音がする。子供をあしらうような言い方に私はムカっとして「お父さんの事心配して聞いたんだよ」って怒った。


「悪かったよ。怒るなって」


 お父さんは謝った。お父さんは私に頭が上がらない。母が亡くなってから私は炊事洗濯をこなしてきた。思春期の真っ只中、友達と遊びにも行かなかった。お父さんは家庭環境のせいで、私が寂しい思いをしているんじゃないか、と心配しているんだと思う。そういうの何となくわかるんだ。お父さん顔に出やすいタイプだから。


 私はハンバーグを乗せたフライパンを火にかけ、鍋の蓋を被せた。こうすると蒸し焼きになって、外はカリカリ、中はジューシーに焼き上がる。私はその間にキャベツを切る事にした。


「学校はどうなんだ?」


「急になに?」


 俎板の上でキャベツを刻みながら、私は答えた。


「友達と遊んで来てもいいんだぞ。部活を始めてもいい。家事だって、毎日欠かさずやらなくたっていいんだ。お父さんがやったって構わないぞ」


「え〜ご飯も炊けないのに?」


 私は笑った。だってお父さんは洗濯も料理も掃除もできない根っからの仕事人間。それは母もわかっていたと思う。父を台所に立たせた所なんて一度もみた事がない。母はそういう人だった。


「父さんをバカにするんじゃないぞ」



< 4 / 11 >

この作品をシェア

pagetop