初恋
 私は必死に涙を拭いながらお父さんを見つめた。涙で顔がぼやけて見える。ぼやけて見えるのは顔だけじゃあない。お父さんの心もぼやけてる。今までは手に取るようにわかった。何が食べたいとか、何を飲みたいとか、何をしてほしいとか。でも、今はわからない。お父さんが他人に見える。私は娘、妻、女……?
私はその三つが欲しかった。本当は欲張りで傲慢で、大好きなお父さんの前ではいい子ぶって、理想的な娘と妻を演じていただけ。私、漸くわかった。私の初恋はとうの昔に終わってた。幻想的な初恋は霧晴れのように消えて、私の前に片思いのラストシーンが姿を見せる。


 私はふらふらと歩いて、俎板に近寄る。私は俎板の上にある包丁を手に取った。まだキャベツが付いてる。「やめなさい」とお父さんが叫ぶ。


 包丁を握っても、全然怖くなかった。不思議だった。ドラマ、そうこれはドラマなんだと思った。誰かが脚本を書いていて、私は脚本に従うだけ。今の私は自分の意志で動いているように見えるけど本当は違う。監督の指示なのよ。嫌な私が監督をしてるのよ。そして、監督は残酷なラストシーンを用意している。


 私に意志はない。もう私の体じゃあない。

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