月影
泣けるほど、あたしの心は潤ってなどいなかった。


ただ、飼い猫の意味を考え続けた。


合鍵をくれたことの意味、彩があのマンションに足を踏み入れたことの意味。


ジルは何かに執着したりしない男だった。


現に親友であるギンちゃんでさえ、「アイツが誰かに本気になることはない。」とあたしにきっぱりと言っていたのだから。


つまりはそういうことだ。


壊れたキーケースを捨てるように、宵闇に煙草を投げ捨てるように、あたしはそれらと同じくらいに不要ということ。


言い訳のひとつさえしないかったのがあの人らしくて、だから逆に笑えてしまうのだ。


例えば今、彩と向かい合わせにカフェに腰を降ろしていたとしても。


彼女の放つ甘ったるい香りの中で、嫌に苦いコーヒーをすすっている自分自身が居たとしても。



「呼び出してごめんなさい。」


「良いよ。」


驚くほど物分かりの良い女を演じてる自分でさえ、笑えた。


あの後ふたりがどうしたのかは知らないが、彼女の出勤時間より少し前、店から程近い場所に呼び出されたのだ。


断ることは出来たのだろうが、それでも同じ店で働いているのだ、避けるわけにはいかなかった。

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