月影
それにはさすがに驚いて、「へ?」と間抜けな声を上げてしまった。


そんなあたしに彼は、前に言ったじゃん、と付け加える。



「トオルさん嫌いだしぃ、この前も胸ぐら掴み合っちゃったしぃ。」


まるで女子高生のような喋り口調で、彼はとんでもないことを言ってくれる。


曰く、温厚な俺でも堪忍袋の緒ってモンがあるっしょ、とのこと。


相変わらず日本語はアバウトだが、「だって嫌いなモンは嫌いなんだもん。」と、やっぱり子供のようだった。


きっとあたしが彩を生理的に受け入れないように、拓真もまた、トオルさんはそんな感じなのだろう。



「んで、辞めちゃうんだ?」


「まぁ、ボクは人気ホストなんで、引く手あまたなんですよ。」


「あぁ、そう。」


何でも、前に働いてた店で一緒だった京さんって人が店を出したらしく、そこに誘われたのだとか。


店替えか、と呟いた。


唯一の居場所だと思っていたアイズには彩が居て、絶対的な安息地であったはずのジルにも、彩が居る。


逃げたいわけじゃないけれど、顔を合わせたくはないと、正直思う。



「でも、私生活は寂しいからさ、レナが居てくれたらきっと楽しくなるよ。」


優しく言われた台詞が、確かにあたしの心に沁みた。


拓真が居れば楽しいだろうし、きっとあたしは傷つくことはないだろう。


なのに踏み出せなかったのは、左手首に今も絡まるひんやりとした感触の所為だったのかもしれない。

< 309 / 403 >

この作品をシェア

pagetop