求命
奈美はシャワーを浴びていた。今日は遅番だ。遅くまでやっているショップの店員だから、今日みたいな日もある。出勤前のリラックスの時間。それがシャワーの時間だ。
でも、シャワーの時間は気をつけた方がいい。後ろから忍び寄る者の気配を殺してしまう。
カチャリ。玄関から音がした。鍵は閉めていたはずだ。なのに、ドアの開く音がした。ゆっくりと歩く音が聞こえる。廊下のフローリングが軋む音を立てるのは、堅い靴底でフローリングを踏みつけているからだ。
軋む音は向かう。行き先はシャワーの音が教えてくれている。左手が脱衣所のノブを回す。それでも奈美は気がつかない。それどころか鼻歌を歌っているような有様だ。
バスマットに足をのせたせいもあって足音は消えた。それは儀式を前にした禊ぎのような時間だった。シャワーの音以外は何も聞こえない。心を透明にしてくれる時間だ。シャワーの音が止まった。何も気にせず、奈美はバスルームの扉を開けた。
「なっ?!」
軽いパニックに陥る。目の前にいるのは誰だ。頭の中にあるアドレス帳を片っ端から検索するが、該当する人物などいない。仮にいたとしても、なぜここにいる?玄関の鍵は閉めたはずだ。慌てて逃げようとしても、後ろは小さな浴槽が控えているだけだ。その先はない。まして裸のこの状況で逃げられるだろうか。
男の右手が、奈美の細い首に触れた。加速する右手。
奈美は押し倒された。
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