アンダンテ
 それは五歳の時のコンクール。
 不意に肩を叩かれた慶太郎は隣を見ると、黒髪に青い目の、同じ年位の少年が笑顔を向けていた。
 つられて笑顔を返すと、少年は嬉しそうに笑った。
「ねぇ、貴方は凰慶太郎君でしょう? 僕知ってる。貴方はとても巧いから」
 慶太郎だって隣の少年を知ってる。巧いから。
「アンタ、北見光邦だな」
 慶太郎が返事を言うと嬉しそうに頷く。以来、二人の家がが近所だと言う事が判明し、小・中学校は同じ私立校に入った。次第に互いに良きライバルなってきた頃の、秋のコンクール。
「慶太郎。俺はこのコンクールが終わったら留学するんだ」
 慶太郎の家も裕福だったが、光邦は音楽のプロの家庭だ。留学なしでは北見の家を受け継ぐ事は出来ない。
「え……」
 慶太郎はずっと光邦に負けてきた。どのコンクールも、二位にはなるのに、光邦にだけは勝った事がない。光邦の背を追って走り続ける日々。そんな日々がずっと続くと思っていたのだ。
「ごめん」
 それが二人が交した最後の言葉だった。光邦はコンクールの結果を聞かずにフランスへと旅立った。
 以来、慶太郎は燃え尽きた様にピアノに触れていない。家にあったピアノは処分させた。もしかしたら一瞬の気の迷いだったのかも知れない。しかし、ずっと目標にしてきたものが突然手の届かない所に行ってしまう事に慶太郎は耐えられなかった。

「何帰って来てんだよ……」
 俺を置いて言った癖に、今更なんだよ。
「慶太郎……?」
 光邦の伸ばした白い腕が振り払われる。
 慶太郎はいつの間にか家を飛び出し走り出していた。
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