霧の向こう側
 青年の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間本当に嬉しそうに笑顔を見せた。
 少女はそんな様子の青年をびっくりした表情でまじまじと見つめる。
 加奈子の心の奥の何かの鍵が、カチンといって外れた。
 それは青年の姿を見た時に湧いた様に現れた、心の奥に封じられていた物で、加奈子はそれが開放されるのを無意識に嫌っていた。
 しかし、その心の中の封じられていた何かは、開放された事で容赦なくその姿を露にしたのだ。それは一つの映像として、拒否しがたい力で持って、加奈子の心を動かした。
 青年は今までブランコに座っていたが、加奈子の姿を認めると、ゆっくりと立ち上がって加奈子の方に歩み寄って来た。
 加奈子は青年の顔が見たくなかった。
 何故なら、加奈子の忘れてしまった過去の映像の中に、加奈子の知らない一人の女性を愛しげに見つめる姿があったのだ。
 それは一瞬での出来事で、その日は霧がとても深かった様に覚えている。
 青年は、琥珀色の綺麗な瞳で、屈む様にして幼かったあの頃の自分の頭を撫でてこういった。
『霧が深くなって帰れなくなってしまうよ。
 まだ、辺りが見えるうちにお帰りなさい』
 そういってその場に加奈子を残して霧の向こうの女性の元へ青年は歩いて行ってしまったのだ。
霧の向こうで青年が少女に向かって何かを話していた。
 少女は、加奈子と青年を代わる代わる見比べて、少し戸惑った様子を見せたが、赤いゴムマリを拾うと、青年の方へ手を振り走り去って行った。
(……あれは“私”なんだわ……)
 見覚えのあったあの赤いゴムマリ。今は田舎に引っ込んでしまった親戚のおばあちゃんに貰った物だった。
 あの少女のしていたリボンは、幼馴染みの真美が、加奈子との友情の証にと交換した物だった。
 加奈子は怖かった。
 全てが幼い頃、自分が目撃した光景と同じ様に進んで行くのが……青年の顔を見るのがとても怖かった。
 例えそれが自分の初恋だったとはいえ。
 逃げだしたくても足がすくんで動けない自分がそこにいる。
(小さい頃、失ったはずの初恋……)
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