霧の向こう側
「……加奈ちゃん。綺麗になったね」
青年は瞳を細め、眩しげにそう言った。聞き覚えのあるとても暖かな、そしてとても透明な響き。幼い頃の加奈子は、青年のその声が好きだった。
青年は、少し長めの栗色の髪を揺らすと、淡く微笑み、ゆっくりと腕を開いた。
「……弟の名前、学っていうの。妹は好美っていうのよ。とっても可愛くて、でも小さいからお母さん、今は専業主婦やっているの。
とても幸せよ」
加奈子は青年の方へ一歩、足を進めた。逃げようという気がしなかった。これから自分がどうなるか判らなかったが、青年を拒みきれない自分がいるのを知っていた。
「お父さんは仕事がうまく行くようになって、『仕事が楽しい、やり甲斐があるってこんなに幸せな事なんだ』っていつも言っているわ。
今度の重役会議で昇進間違いなしだって、私やお母さんに話してくれたの」
そういって、青年の前まで来ると加奈子は顔を見上げた。
「加奈の最後のお願い……聞いてくれる?」
青年は屈む様にして加奈子を腕に収めると頷いた。
「加奈の存在をみんなの記憶から消してくれる?」
青年は、自分が受け入れられた喜びに、瞳を僅かに潤ませ、頷いた。
加奈子は笑顔を青年に向けると瞳を閉じた。
辺りはどんどん深くて濃い色をした白に染まって行く。
加奈子は青年が自分に頬を寄せるのを薄れていく意識の中で感じながら、深海はこの様に静かなのかもしれないと考えた。
「……有り難う……」
加奈子は眠かった。
とても眠かった。頭の隅で、自分が選択したこの行動は、とても愚かだという事を自覚していた。
でも、幼かったあの頃に見た、あの苦しいほどの孤独を瞳に持つ青年を、その孤独から開放してあげたいと思ったのは、今となってみれば、紛れもない加奈子にとっての事実だった。
青年は瞳を細め、眩しげにそう言った。聞き覚えのあるとても暖かな、そしてとても透明な響き。幼い頃の加奈子は、青年のその声が好きだった。
青年は、少し長めの栗色の髪を揺らすと、淡く微笑み、ゆっくりと腕を開いた。
「……弟の名前、学っていうの。妹は好美っていうのよ。とっても可愛くて、でも小さいからお母さん、今は専業主婦やっているの。
とても幸せよ」
加奈子は青年の方へ一歩、足を進めた。逃げようという気がしなかった。これから自分がどうなるか判らなかったが、青年を拒みきれない自分がいるのを知っていた。
「お父さんは仕事がうまく行くようになって、『仕事が楽しい、やり甲斐があるってこんなに幸せな事なんだ』っていつも言っているわ。
今度の重役会議で昇進間違いなしだって、私やお母さんに話してくれたの」
そういって、青年の前まで来ると加奈子は顔を見上げた。
「加奈の最後のお願い……聞いてくれる?」
青年は屈む様にして加奈子を腕に収めると頷いた。
「加奈の存在をみんなの記憶から消してくれる?」
青年は、自分が受け入れられた喜びに、瞳を僅かに潤ませ、頷いた。
加奈子は笑顔を青年に向けると瞳を閉じた。
辺りはどんどん深くて濃い色をした白に染まって行く。
加奈子は青年が自分に頬を寄せるのを薄れていく意識の中で感じながら、深海はこの様に静かなのかもしれないと考えた。
「……有り難う……」
加奈子は眠かった。
とても眠かった。頭の隅で、自分が選択したこの行動は、とても愚かだという事を自覚していた。
でも、幼かったあの頃に見た、あの苦しいほどの孤独を瞳に持つ青年を、その孤独から開放してあげたいと思ったのは、今となってみれば、紛れもない加奈子にとっての事実だった。