君と、○○のない物語
「おま…っちょ、待てよ!」
「え、伊月くん!?」
朔は猫の呼び掛けを察した様で、慌ててあとを追い掛ける。
訳のわからない茅原は取り残されてしまった。
「…伊月くんって、凄いね…兄ちゃん」
そう呟いて、茅原は夏樹の病室の方を見上げる。
さっきまでどの部屋も点いていなかった明かりが、公鳥の病室以外全て灯されていた。
「待てよ、猫!金魚出してたの、実はお前だろ!」
猫は病院の庭の奥の方まで走り、やっと立ち止まったのは茂みの奥である。嫌でも人目につかない位置だ。
「…ほう…それも気付いたか」
「こっちの世界でも金魚とお前だけはあっちのままだったからな。まあ半分勘で言ったけど…」
「そうか。馬鹿だと鷹をくくっていたな。」
「んだとコラ。…じゃあ、向こうにいるときの満月の夜は…?」
「あれは要だ。本人にも自覚がないが、深層心理の現れだろう。…俺は要が心配だったんだ。兄が死んで春海が消えて夏樹が事故に遭って。俺の知ってる要は弱くて、誰かが隣にいてあげないといけない。春海や夏樹だって、誰か救ってやらないといけない。だからお前…朔を呼んだんだ。今の自分は直接事態を伝えることが何故か出来なくて、無い頭振り絞って回りくどいことばっかりした。…ごめんな。」
長い台詞の中、猫の口調は段々穏やかなものに変わってきていた。
「…お前、なんでそんなに茅原を心配してたんだよ。」
「自分のせいで沢山泣かせた。それに―…」
「伊月くーん?何処ー…?」
茅原が朔を呼んでいる声が遠巻きに聞こえた。
猫はその方に首を傾け、少し、笑ったように見えた。
「―…どんなに頼りなくても、どんな姿になっても、要を…妹を導いてやるのは、兄の役目なんだよ。」
「…、お前」
朔が言い掛けた瞬間、猫は茂みから飛び出した。
行き先は一直線に―…茅原のもとだ。
「…わっ!さっきの…猫さん。伊月くんは?」
猫はしゃがむ茅原を見詰めて微笑む。
猫としての自分はもう限界らしく、視界は歪んであまりよく見えない。
もう自分の役目は終わりということだろうか。