封印せし記憶


静菜は寒さを肌に感じ始めながらも、犬と共に散歩をする女性を見ていた。


喫茶店での帰り際、修史は軽い口調で『じゃあ、またね。気をつけて帰ってね』と言いながら、静菜の頭にぽんぽんと手を乗せた。
その口調はひとたび風が吹けば、簡単に言葉が攫われてしまいそうなほど軽い。
けれど、その軽さは修史の軽薄さを表すものではなく、そこには優しさがあった。


すごく温かくて柔らかい声だった。
あの声にほだされたんだろうか。
…ほだされる?私が?
でも、確かに私は…あの人の温かさに触れた気がした。


静菜はほんの数分で暗闇に染まった空に視線を移して考えていた。
修史のあの感の鋭さ、全てを見透かされてしまいそうなあの眼に、おののいたのも確かだと。


空に小さな星をその眼に捉えたと同時に寒さでブルリとひと震えした静菜は、ベンチから立ち上がり、アパートへの短い距離を歩き始めた。


『今日はキリマンジャロにしようかな』

『やっぱり朝はコーヒーだな。頭がすっきりする』

男の声が頭の中に流れた。
それはおそらく父親の声。

静菜の父親はコーヒーが好きだった。
朝はいつも入れたてのコーヒーを朝食と共に取り、朝のうちに数杯を胃の中に流し込む父親。
コーヒーの芳ばしい香りを、あの頃の静菜は毎日のように嗅いでいた。

静菜は頭を振ってその声を掻き消した。
こんな事で不安定になってはダメだと言い聞かせながら。


< 79 / 87 >

この作品をシェア

pagetop