あいつ~序章
 冷や汗をかきながら目を配ると、会社員風のマッチョ男や、おばさん達も横目で見ている。
 そのときあいつが目を上げた。夢の続きを見ているように俺を見た。俺はドアに面して立っていたことを神に感謝した。
 俺の「馬鹿者」はトランクスの布に阻まれ低速ギアの位置でもがいていたからだ。
 あいつが俺の右腕を掴んだ。俺を引き寄せると俺の右肩に頭をもたせかけてまた目を瞑った。
 三浦海岸までの時間のなんと長かったことだろう。俺は真っ赤になりながら、ドアにぴったりと張り付き、あいつを起こさないように仁王のように突っ立ったままだった。背中に羨望の視線と俺の野暮さに対する嘲笑を浴びながら。

 あいつは特急列車の中でのことを何も知ら無い様子だ。鼻歌を歌いながら俺の下宿まで付いてきて、また貴婦人のように待って、俺にドアを開けさせた。
 この頃、あいつがちょくちょく来るので俺の部屋はきれいに片づいている。昨夜、掃除機を掛けて居間用の香水をまいといた。
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