センチメンタルな季節【短篇集】

「なぁ、わたしを連れて、どこでもいいから逃げてくれ。」

それは、春の生暖かい風に攫われてしまいそうな女の声であった。

だが、その小さな一言は、きっと男と世界の時間を四十秒ほど止めてしまうような威力を持っていた。

今度は女がジッと男を見つめる。

しばらく止まっていた男の時間が再び動き出す。唇を懸命に動かし、なんとか声を絞り出した。

「かけおちかい?」



「そんなもんじゃねェよ。」

女は美しい顔に似合わない乱暴な物言いをする。

「じゃあ、どうしたっていうんだ」

男の顔は彼には珍しく真剣だ。真っ直ぐに女を見つめる。

面構えは良いが、アホ面に見えると言われる男だが、闇夜に浮かぶ切れ長の瞳は、全てを見透かしてしまうようだ。


しかし、男の面なんて女にはどうでも良いことであった。

今、彼女が欲しい言葉は理由を問う言葉ではない。

承諾だ。

女は苛立っていることを舌打ちで表現した。
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